2 クンネが天女にすりすりされて、紳士が無茶な依頼をする(他を当たってよ!)
紳士に呼ばれ、事務所に入ってきたのは、中年の男性と若い女性の二人。
中年男性は、黒いスーツに白い手袋。所謂、お金持ちの執事らしく、四十~五十歳代のおじさんである。目尻に柔らかい笑みをたたえながら、若い男性依頼者の座るソファーの後ろに、すーっと音もなく、聳え立った。
もう一人の女性は、部屋に入るなりクンネをソファーから引っぺがして、抱っこを始めた。依頼者の紳士と同じくらいの歳とは思えるが、背が低く、また、赤いチェックのスカートを履いているので、どことなく少女っぽく見える。
「お名前は?」
紳士の横に勝手に座り、腕の中のクンネに女性が訊ねた。
「ク、クンネでございます」
「きゃーかわいい! しかも、敬語しゃべってるぅ」
呆気にとられる、トスナルと京子。
「ああ、申し遅れましたが、私は神谷健二と申します。この者が私の専属運転手、斉藤。そして、こちらは桜葉翔子さん」
翔子さんは、健二に紹介されたことすら気づいてはいなかった。口を横に引っぱったり、おでこをなでてみたり、しっぽをくるくるしてみたり……。クンネをいじるのに、夢中だ。
「二人には、用件が済むまで廊下で待っててもらおうと思ったんですが、面白い猫ちゃんがいたので、つい、呼んじゃいました」
照れくさそうに話す、健二。
翔子さんが、クンネを膝に置いたまま、右手で長い黒髪をそっと撫でた。そのとき、何かを気付いたように、トスナルの目がキラリと一筋の光を放った。
「あ、あなたは、お隣の天女様!」
トスナルは、突然黒ローブのフードを深々と被り、中学生みたいなその童顔を隠してしまった。熱で火照った頬を隠したかったのだ。
「けっ、なに恥ずかしがってんのよ」京子が舌打ちする。
健二の、何かを探り、疑るような視線がトスナルを襲う。
「天女様? よくわかりませんが、あなた、翔子さんとお知り合いで?」
「いいえ、いいえ。ちょっとご近所でお見かけしただけです。えへへ」
(つい、さっきなんですけどね)
トスナルは、ドキドキの止まらない心の中で、そう呟いた。
「ああ、翔子さんは、このビルの隣に住んでますので、それで見かけたのでしょう……。実は、この探偵事務所を紹介してくれたのは、彼女なんです」
健二が、ほっとした表情を見せる。
「今日、ここに伺った用件ですが――」
「神谷さんと桜葉さんのご関係は?」
健二の言葉を遮るように、声をそろえて、京子とトスナルが訊ねた。
「いや、まあ、そのう……恋人です」
頬を赤らめて、大照れの健二。
「かああ――」
京子とトスナルが、同時に咽喉の奥から声を出し、同時に天井を見上げた。
翔子さんは相も変わらず、クンネいじりに夢中だった。運転手の斉藤は、微笑ましそうにその様子を見つめている。
「で、本日のご用件は何でした?」
京子が、ぶすっと翔子さんを睨みながら云った。今日初めての、秘書の仕事である。
「ああ、そうそう、その話の途中でしたよね。実は……行方不明になった人を、探して欲しいんです」
「行方不明? 誰です?」
今度は、トスナルがぶっきらぼうに健二に訊いた。健二は、一瞬ためらったが、すぐにこう云ったのだ。
「それは……私です」
「はあ? おっしゃってる意味が良く解りません。私をからかっているのですか?」
フードの中から覗く、トスナルのむくれ顔。一方、京子は頭の上に大きな『?』マークが付いたかのように、首を傾けた。
「私は、私であって、私ではないのです。私の心がそう云っています。本当の私が何処にいるのか、そして何者なのか、探して欲しいのです」
トスナルのむくれ顔が、呆れ顔に変わる。そのとき、今まで静かに健二の背後で控えていた斎藤が、必死に訴えるように話し出した。
「健二坊っちゃんは、ここ数年、その思いで悩まされ続けているのです。『本当は自分は神谷家の人間ではないのではないか? 幼いころ、何らかの理由で連れてこられたのではないか? だとすれば、自分は一体何者なのか?』と。どうか、坊っちゃんにお力をお貸しください」
「そうなんです……。両親には、今まで何回もそのことについて私も訊ねてみたんですが、結局、何も答えてくれませんでした。私には、わざとその話題に触れないようにしているとしか思えないのです……。どうか、私の力になって下さい!」
頭を下げ、食下がる健二。
「こりゃあ、難問だ――。料金は、お高くなりますよ」
いつの間にか翔子さんのすりすり攻撃から抜け出していたクンネが、テーブルの上に乗り、健二に向かってそう云った。それを聞いた健二の表情が、ぱっと明るくなる。
「それでは、通常の三倍をお支払いするということで、いかがでしょう」
「やった! これでカニ缶が買えるぞぉ!」
テーブルの上ではしゃぎ回る、痩せた黒猫。
「わかりました。この件、お任せください」
小悪魔の笑みを浮かべ、断言する京子。
「ええっ? ちょっと待ってよ。だってこれって、誰もそんなこと言ってないのに、勝手に神谷さんがそう思い込んじゃってるってことでしょ? こういうことは、探偵事務所よりも病院に相談するほうが――」
その瞬間、トスナルの左脇腹に炸裂した、京子の肘打ち。
げふっ
トスナルは、苦しそうにもがきながら、前のめりに床に倒れこんだ。
「秘書の私が決めたことに、逆らう気?」
ドスの効いた京子の台詞が、事務所の壁で反射し、コダマした。
「…………」
思わず身震いする、健二と斉藤。翔子さんは、テーブルの上ではしゃぐクンネを、ただにこやかに見つめていた。
「そ、それでは、お引き受けくださるのですね?」
気を取り直した健二が、ほっとした表情で、云った。が、チラリと腕時計を見た瞬間、それは慌てた表情に変わった。
「申し訳ありませんが、今日は時間がないのでこれで帰らせていただきます。詳しくは、明日に打ち合わせをさせてください。明日の朝九時に、皆さんでここへ来てもらえますか?」
探偵秘書が、若い紳士の差し出した名刺を恭しく受け取った。
「承知しました。必ずお伺いさせていただきますわ」
この事務所の総ての権限が、美貌と凶暴を併せ持つこの女秘書にあると理解した健二と斎藤。健二はその右手を京子に差し出し、両者は取引成立の握手を行った。それを見て、運転手の斎藤が、安心した表情をする。
「それでは、よろしくお願いします」ソファーから立ち上がる、健二。
「クンネちゃーん、またねー」
礼儀正しくお辞儀する健二に引かれ、翔子さんは名残惜しそうに、帰って行った。
ドアが閉まった瞬間、ようやっとのことでトスナルが床から這い上がり、復活した。
「何やってんの? 復活遅いじゃない、しっかりしなさいよ……。
にしても、明日から忙しくなるわよぉ。九時なんて早い時間、早朝出勤になるけど、何とか早起き、がんばってみるわ」
「九時って、早朝なんですかね?」
脇腹を抱えながら、トスナルが京子の発言に異議を唱える。
「うるっさいわねえ。とにかく、明日九時にここに集合よ。私、もう住所と社名は覚えたから、この名刺アンタにあげるわ……って、アンタいつまでフード被ったままなのよ!」
ぺしっ
京子が、その素早い右フックのような動きで、トスナルのフードを無理矢理引っ剥がす。そして、銀色の髪を露わにしたトスナルに、神谷氏の名刺を手渡した。
「じゃあ、私、これで帰るわよ。明日、絶対遅れないようにね」
念を押して部屋を去ろうとする京子の背中に、すかさず「あっかんべえ」をする、トスナル。京子がドアを開け出ていくと、手にした名刺に書かれた文字をぼつぼつ読みだした。
『カミー・ペットフード株式会社 代表取締役社長 神谷健二』
その会社は、大きな街の、これまた大きなオフィスビルの十階にあるようだった。