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短編を含む短いお話

はじめてのワルツ

作者: かも ねぎ
掲載日:2026/04/01



 あんなに綺麗なカーテシーを見たのは、初めてかもしれない。


 窓から差し込む柔らかい陽の光が、彼女の蜂蜜色の髪に吸い込まれていくようだった。彼女が顔を上げた時、その気配が、甘い香りを伴ってふわりと舞った。


 そうして、お手本のような微笑みを湛え、翡翠の大きな瞳がまっすぐに僕を見る。


「ごきげんよう。レオン様」


 僕は、小さく息を呑んだ。


 一度だけ瞬きをして短く呼吸を整えると、マナー講師に鍛え上げられた微笑みを浮かべる。


「……はじめまして。セシリア嬢。

 あなたにお会いできるこの日を、楽しみにしておりました」


 彼女はにっこりと笑む。

 完璧な淑女の微笑み。


 僕の前に立つ彼女は、僕の婚約者、子爵令嬢セシリア。親が決めた政略結婚の相手であり、十二歳にして“完璧な淑女”と名高い女の子でもあった。


 彼女に手を差し出すと、セシリアはそっと指先をのせる。

 華奢な指。


 ここは我が伯爵家のサロン。両親が見守る中での初対面だ。

 僕は彼女を席までエスコートし、椅子に座らせる。ティーテーブルを挟んだ向かいの高背椅子に僕も腰を下ろした。


 親たちは離れた席で談笑している。こちらには興味がないんだろうか。


 彼女は視線を下げて静かに座っている。

 侍女が茶を注ぎ、菓子が並ぶ。


「セシリア嬢、どうぞ召し上がって。気に入ってもらえるといいんだけど。

 我が伯爵家の領地で採れた果物を使った菓子なんだ」


 翡翠の瞳が持ち上がった。柔らかく細められると、長いまつげで頬に影ができる。


「まぁ……それは素敵ですわ」


 彼女は美しい仕草でカップを持ち上げ、口に運んだ。


 ――本当に十二歳?

 ――鬼のマナー講師が乗り移っているのでは?

 

 僕の笑顔がひきつる。


 セシリアは、フォークでそっと菓子を持ち上げ、その小さな口に入れた。


 レースの手袋をはめた手を口元に当てる。

 そして、花が咲くように顔を綻ばせた。


「……とても美味しゅうございますわ」


 ――ねぇ、本当に十二歳?

 ――完璧すぎて、全然何考えてるのかわからない。


 ――僕、この子、苦手かもしれない……。


 僕は、とりあえず微笑んだ。


---


 目の前に座る彼は完璧な微笑みを浮かべていた。


 わたくしの婚約者、伯爵令息レオン。聡明で、才気あふれる令息として名高い彼。


 そんな彼は、ゆったりと、だけど隙のない仕草で菓子を持ち上げると、それを口にした。

 胡桃色の髪がわずかに揺れる。

 仄かに香る柑橘系の香り。


 顔を上げ、わたくしと目を合わせてにっこりと笑う。蒼灰の瞳が、優しく細められた。


「美味しい。

 ……これはね、檸檬を使っているんだ。後味がさっぱりしているでしょ?

 この紅茶のような、まろやかな口当たりのものともよく合う。

 セシリア嬢には、気に入ってもらえたかな」


「えぇ、とても気に入りましたわ。

 さすが、良いお品のようです」


 彼の口角があがる。

 逆にわたくしの口端はひきつる。


 ――本当に十二歳?

 ――その当主のような貫禄と落ち着きはどこから?


「我が伯爵家の檸檬はお酒にもなるんだ。

 美味しいよ。

 って、僕はまだ飲んだことがないけどね」

「まぁ」


 ――軽いジョークまで交えて……。

 ――この人、化け物では?


 ふと、彼が窓を見る。

 端正な横顔。陽射しが差し込み、冷たそうな蒼灰の瞳にかすかな熱を与えている。

 また正面を向くと、ゆっくりとテーブルの上のカップを持ち上げて、一口飲んだ。

 長い指。

 先ほど香った柑橘の香りは、菓子ではなくて、やはり彼から香ったのかもしれない。


 目が合う。

 彼は、甘やかに微笑んだ。


 ――……本当に十二歳?

 ――完璧すぎて、全然何考えてるのかわかりませんわ。


 ――わたくし、この人、苦手かもしれないわ……。


 わたくしは、とりあえず微笑んだ。


---


 葉すれの音。

 朝方に降った雨の粒が、庭園の花の縁に残っている。風が吹くたびにわずかに位置を変え、時折強く花の香りを舞わせていた。

 

 ガーデンテーブルを挟んで僕と向かい合うのは、セシリア。彼女と会うのはこれで二回目。

 

 彼女の蜂蜜色の髪が、陽を透かしている。


 淡い光を庭園の雨粒が弾き、星を散らしたようなきらめきが彼女のドレスに落ちていた。

 

 華奢な指が白い陶器のカップを持ち上げる。

 目が合うと、彼女はふわりと笑んだ。


 ――相変わらず、完璧。


「……こちらの紅茶、初めて頂くかもしれませんわ」

「ふふ。それはね、我が領地でとれる花の香りを茶葉につけてみたものなんだ。

 ベルガモットに似てるけど、あれよりも甘くてしっとりしているでしょ?」

「まぁ……。

 レオン様はご領地の産物についてもお詳しくて……。素晴らしいですわ」

「将来継ぐものだからね」


 セシリアが微笑む。


 ――今、何考えてるんだろう。

 ――ぜんっぜん、わからない。


 彼女は背後に控えていた侍女に合図を出すと、侍女から美しい紙包みを受け取った。

 そしてそれを両手で持ち、僕に見せる。


「こちら……。拙いものですが」


 僕の前にそっと置いた。


「貰っていいの?」

「……はい」


 彼女はにっこりと笑う。


 包みを開けると、ほのかに花の香りが立ち上がる。中に入っていたのは、シルクのハンカチ。我が家の家紋が刺繍されている。


「……これは、君が?」


 彼女は少しだけ首を傾げた。

 柔らかい蜂蜜色の後れ毛が、華奢な肩を撫でる。


「…………えぇ」

 

 ――今の間は、なんだ?

 ――自分で刺してないのかな。


 婚約者に手刺繍のハンカチを贈るなんて、よくあることだ。


 ――侍女にやらせた……とか?


 “完璧な淑女”と言われる彼女が?

 ……まぁ、本当のところは知らないけど。

 

「……ありがとう」


 彼女は小さく笑んだ後、カップを持ち上げて紅茶を口にした。


 ――プライドが高そう……。

 ――ツンとして、可愛げがない。


 ため息を飲み込む。


 ――何を話したらいいか、わからないよ。


 ――早く終わらないかな。


---

 

 帰り、僕は彼女を馬車までエスコートした。

 手袋越しの彼女の手。

 

 ほんの僅かな違和感。

 

 セシリアの指先をそっとつまむと、レースの手袋の内側で、薄い布が巻かれている。


 ――怪我してる。


「……これは」


 彼女はパッと手を引いた。


「何でもありませんわ」


 セシリアの翡翠の瞳をじっと見るが、いつも通りの穏やかな笑みのまま。


 ――“淑女”が指先に怪我?


 彼女のそばにいた侍女がにっこにこしている。


「お嬢様、頑張られたんですよね」

「……何を?」

 

 侍女の視線は、僕がまだ手に持っていたセシリアがくれたシルクのハンカチへ。


 セシリアはふいと視線を馬車に向ける。


「本当に何でもありませんの。

 ――それでは、ごきげんよう」


 彼女はカーテシーをし、扉横に立っていた御者の手を取ってステップを踏んだ。


「……待って」


 手を伸ばすが、彼女はちらとそれを見るだけ。


「……ありがとう。ハンカチ、大切にする」


 セシリアは、にっこりと笑んだ。

 

 ――目が笑っていないんだが?


 彼女はそのまま馬車に乗り込んでしまった。

 扉が閉められる。


 軋む音を立てて走り出し、その馬車の背を、僕は見送った。


「……刺繍で刺したの?

 ……いや、まさかね。彼女がそんなにどんくさいとは思えない」


 踵を返す。

 ハンカチを見つめる。


 ――やっぱり花の香りがする。


 茶葉につけた花とも、庭園の花とも違う香り。

 僕のブーツが石畳を打った。

 かすかな音。

 少しだけ、いつもより音が軽く感じた。


---


 伯爵家の図書室。


 天井まで届く書架。

 臙脂や紺の背表紙が整然と並び、金の文字がかすかに陽の光を弾いている。


 細長い窓から差し込む昼の日差しは、光の層となって静かに部屋を満たしていた。


 窓際の机を挟んで、わたくしと向かい合って座っているのは、レオン様。

 彼と会うのは今日で三回目。勉強会という名目でただ本を読む。


 ページをめくる音だけが、落ちている。


 ちらと正面の少年を見た。

 

 机に肘をつき、少しだけ姿勢を崩して本を開いている。

 胡桃色の前髪が影を作り、蒼灰の瞳を灰に沈めていた。

 静かな空気。

 まるで湖面のよう。


 視線がゆっくりと持ち上がり、目が合う。

 レオン様は淡く、笑んだ。


 ――今日も、完璧な紳士の微笑み。


 彼がゆっくりと口を開く。


「……何を読んでいるの?」

「詩集です」

「……そう」


 彼は小さく笑んでから、視線を本に戻した。


 少年にしては、静かすぎる。


 ――今、何を考えてるのでしょう。

 ――ぜんっぜん、わからないわ。


 「あ」と小さく彼の声がこぼれた。


 レオン様の瞳を見ると、彼はにっこりと笑う。

 

「……先日のハンカチ、ありがとう」


 ポケットからハンカチを取り出し、わたくしに見せた。


「ちゃんと、大切にしているよ」


 わたくしが反応する前に、ハンカチがしまわれる。


 ――うわぁ……。持ってるんだ……。

 ――律儀にも程がありますわ。


 笑みの仮面を被った。

 

「お礼のお花、受け取りましたわ。とても素敵でした。ありがとうございます」


 彼が笑う。

 どこか大人びた表情。


 ――レオン様は完璧。

 苦手なものなど、ないのでしょうね。


 ため息を飲み込む。


「……あなたは苦手なことはありませんの?」


 ――あ、つい、聞いてしまったわ。


 彼は少しだけ整った眉を歪めた。


「……ダンスかな」


 ――乗馬もお出来になると伺ったのに、まさかのダンス?

 ――嘘ばっかり。

 

「ふふ」


 レオン様の微笑みが固まる。


「……そうだよね。

 君みたいな淑女は、刺繍もダンスもできるんだろうね」


 ――あっ。

 もしかして、ダンスが苦手って本当のことだったのかしら。

 だとしたら、笑ってしまったのは失礼だったわ。


 ――今のは、わたくしが悪い。


「……苦手ですわ」

「え?」


 蒼灰の瞳がわずかに見開かれる。


 わたくしは、ポケットにしまっていたハンカチを取り出す。

 彼の前でそっと広げた。

 本当は人に見せるつもりのなかった、ハンカチの内側。


 “L”

 歪んで不格好な、レオン様のイニシャル。

 よく見ると、血の跡が残っている。


「汚してしまって……。その上、歪だし……」


 レオン様から視線を逃がしてハンカチを見つめたまま、ため息を吐いた。


「これがわたくしの実力です。先日お渡ししたハンカチも、半分ほどは侍女に手伝って貰ったのです……」


 視線を感じるが、顔を上げる勇気はわたくしにはない。


「あなたは完璧な紳士だと言うのに、わたくしは……」


 ――人に手伝って貰ったハンカチは、やっぱり渡すべきではなかったわ。


「それ、ちょうだい?」


 目を見開く。


「え?」


 顔を上げると、レオン様は腰を浮かせて、わたくしの手からハンカチを抜き取る。 

 彼の柑橘系の香りがふわりと立ち上がった。


「まさに血と涙の結晶だね。素敵じゃないか」


 レオン様が目を細めて笑う。

 彼の瞳に光が差し込んで、星を散らしたように輝いていた。


 つい、口端が緩んでしまう。


「何を仰るの。変な人」


 わたくしが笑うと、レオン様がわたくしの瞳を柔らかく見つめる。

 不思議と、目をそらそうとは思えなかった。


 風が吹いて、窓枠が小さくカタリと鳴っていた。


---


 昼間のガーデンパーティ。

 会場の奥から、楽団の音色が響いてくる。

 白に塗られた小ぶりのガーデンテーブルがいくつも並んでいた。

 緑のダマスク柄の布地が貼られた木製の椅子には、ご婦人たちが座り、会話に花を咲かせている。


 広場では、ダンスを踊ってる紳士淑女もいた。

 あちこちに飾られた花々が、彩りを添えている。


 僕の隣に立つセシリアは、いつもよりも少し華やかな装いだった。髪より少し濃いパールオレンジのドレス。装飾はあるが、どこか静かで、上品な彼女によく似合っていた。


「セシリア嬢は、相変わらず背が高いな」


 貴族子女の輪の中にいた一人が、急にそう言い出した。


 ――はぁ? 


 隣を見ると、彼女の柳眉がほんのわずかに寄る。

 彼女は確かに僕より、少しだけ背が高い。特にヒール靴も履いているから尚更だろう。


「女性は小さい方が可愛らしいと言ってたぞ」


 ――その愚か者はどこのどいつだ?


 セシリアは視線をそらして、いつもの“淑女”の微笑みをつくっていた。


「ねぇ。

 僕らの年齢では、女性の方が成長が早いんだよ。習わなかった?」


 貴族少年は、僕を見た。

 

 ――あぁ、思い出した。子爵家の次男だったかな。

 “子爵家の完璧な淑女”セシリアを僕に取られて、悔しいの?

 君と同格の家柄では、彼女が一番だものね。

 

 彼は口端をわずかに歪めて、僕とセシリアを見比べている。


 “今は”僕のほうが確かに小さいけど、

 ――だから何?


「仮に彼女がずっと背が高くたって、それが何なのかな。

 彼女が美しくて眩しいなら、そう言いなよ。

 ……素直じゃないね、君」


 貴族少年は眉を歪めた。

 隣のセシリアは不思議そうに僕を見ている。


 僕は彼女に向き合い、手を差し出した。


「美しい方、ダンスを一曲、いかがですか?」


 セシリアはわずかに目を見開く。

 そして視線を下げて、少しだけ頬を染めた。


「……喜んで」


 僕の手に、彼女の華奢な指先が添えられた。


 ――少年、よく見ろ。

 彼女は僕を選んだんだ。


 セシリアが、視線を上げる。

 澄んだ翡翠の瞳に、僕が映っている。


 僕が微笑むと、彼女も微笑んだ。


---


 ダンス広場へ向かって歩きながら、わたくしは小声でレオン様に問いかける。


「……苦手なんじゃなかったのですか?」


 彼は、片頬だけ小さく膨らませた。


 ――そんな子どもみたいな表情もするのね……。


「苦手だよ」


 蒼灰の瞳がまっすぐにわたくしを見る。


「だから頑張ってるんじゃないか。

 あいつに腹が立ったでしょ?

 ……僕もだよ。

 だからね、見せつけてやるんだ」

「……まぁ」


 ――まるで、子どもだわ。


 いや、わたくしたちはまだ子どもでしたわ。

 腹は……少し立ちましたけれど、もうどうでもよくなりましたわ。


 ダンス広場。

 夜会よりも気楽な雰囲気。

 音楽が、楽しげに庭園の花々を揺らしている。


 向かい合って、互いに一礼。


 ――初めて踊るのね。

 なんだか、緊張するわ。


---


 互いに一歩寄り、手を伸ばしかけてレオンが固まる。


「レオン様?」


 セシリアが彼の瞳を見ると、レオンはふいと顔をそらせた。


 ――そうか。腰に手を添えなきゃいけないんだ……。恥ずかしいな。


 レオンはつばを飲み込み、意を決したようにセシリアを引き寄せた。

 思いのほか力強くて、彼女が一歩よろけかける。


「……ごめん」


 慌てて謝ると、視線が交わった。


「……いえ」


 ――花の香り。やっぱりこれは、セシリアの香りだったんだ。

 

 レオンの頬がわずかに赤らむ。

 セシリアの頬も染まった。


 ――レオン様の柑橘の香りが、いつもより近いわ。


 二人して、目をそらす。

 

 音楽に合わせて、ゆっくりと足を動かし、幼い二人は踊り始めた。


 また視線がからみ、互いにそらす。

 

 レオンは、胸のうちで、一生懸命リズムを数えた。

 セシリアが少しだけレオンに顔を寄せる。


「アン・ドゥ・トロワ。アン・ドゥ・トロワ……。

 なんだ。レオン様、お上手ではありませんか」


 レオンは慌てて背をそらして顔を離す。

 その時、ステップを踏み間違えた。


「……ほら! 君のせいで間違ったじゃないか」


 セシリアは少しだけ不敵に笑ってから、クスクスと少女らしく笑った。


 レオンは、笑うセシリアを見て、彼もまたクスクスと少年らしく笑った。

 

 風が吹いた。

 管弦の音が穏やかに鳴り、花びらを舞わせる。

 

 二人の、はじめてのワルツ。

 これからきっと、何度も踊る。


 だけど今日、この時のことを、

 二人はいつまでも忘れないだろう。



 

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― 新着の感想 ―
可愛い二人にほっこりしてしまいました。 静かな時間が流れているようで、なんだかいいですね。 読ませていただきありがとうございました。
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