はじめてのワルツ
あんなに綺麗なカーテシーを見たのは、初めてかもしれない。
窓から差し込む柔らかい陽の光が、彼女の蜂蜜色の髪に吸い込まれていくようだった。彼女が顔を上げた時、その気配が、甘い香りを伴ってふわりと舞った。
そうして、お手本のような微笑みを湛え、翡翠の大きな瞳がまっすぐに僕を見る。
「ごきげんよう。レオン様」
僕は、小さく息を呑んだ。
一度だけ瞬きをして短く呼吸を整えると、マナー講師に鍛え上げられた微笑みを浮かべる。
「……はじめまして。セシリア嬢。
あなたにお会いできるこの日を、楽しみにしておりました」
彼女はにっこりと笑む。
完璧な淑女の微笑み。
僕の前に立つ彼女は、僕の婚約者、子爵令嬢セシリア。親が決めた政略結婚の相手であり、十二歳にして“完璧な淑女”と名高い女の子でもあった。
彼女に手を差し出すと、セシリアはそっと指先をのせる。
華奢な指。
ここは我が伯爵家のサロン。両親が見守る中での初対面だ。
僕は彼女を席までエスコートし、椅子に座らせる。ティーテーブルを挟んだ向かいの高背椅子に僕も腰を下ろした。
親たちは離れた席で談笑している。こちらには興味がないんだろうか。
彼女は視線を下げて静かに座っている。
侍女が茶を注ぎ、菓子が並ぶ。
「セシリア嬢、どうぞ召し上がって。気に入ってもらえるといいんだけど。
我が伯爵家の領地で採れた果物を使った菓子なんだ」
翡翠の瞳が持ち上がった。柔らかく細められると、長いまつげで頬に影ができる。
「まぁ……それは素敵ですわ」
彼女は美しい仕草でカップを持ち上げ、口に運んだ。
――本当に十二歳?
――鬼のマナー講師が乗り移っているのでは?
僕の笑顔がひきつる。
セシリアは、フォークでそっと菓子を持ち上げ、その小さな口に入れた。
レースの手袋をはめた手を口元に当てる。
そして、花が咲くように顔を綻ばせた。
「……とても美味しゅうございますわ」
――ねぇ、本当に十二歳?
――完璧すぎて、全然何考えてるのかわからない。
――僕、この子、苦手かもしれない……。
僕は、とりあえず微笑んだ。
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目の前に座る彼は完璧な微笑みを浮かべていた。
わたくしの婚約者、伯爵令息レオン。聡明で、才気あふれる令息として名高い彼。
そんな彼は、ゆったりと、だけど隙のない仕草で菓子を持ち上げると、それを口にした。
胡桃色の髪がわずかに揺れる。
仄かに香る柑橘系の香り。
顔を上げ、わたくしと目を合わせてにっこりと笑う。蒼灰の瞳が、優しく細められた。
「美味しい。
……これはね、檸檬を使っているんだ。後味がさっぱりしているでしょ?
この紅茶のような、まろやかな口当たりのものともよく合う。
セシリア嬢には、気に入ってもらえたかな」
「えぇ、とても気に入りましたわ。
さすが、良いお品のようです」
彼の口角があがる。
逆にわたくしの口端はひきつる。
――本当に十二歳?
――その当主のような貫禄と落ち着きはどこから?
「我が伯爵家の檸檬はお酒にもなるんだ。
美味しいよ。
って、僕はまだ飲んだことがないけどね」
「まぁ」
――軽いジョークまで交えて……。
――この人、化け物では?
ふと、彼が窓を見る。
端正な横顔。陽射しが差し込み、冷たそうな蒼灰の瞳にかすかな熱を与えている。
また正面を向くと、ゆっくりとテーブルの上のカップを持ち上げて、一口飲んだ。
長い指。
先ほど香った柑橘の香りは、菓子ではなくて、やはり彼から香ったのかもしれない。
目が合う。
彼は、甘やかに微笑んだ。
――……本当に十二歳?
――完璧すぎて、全然何考えてるのかわかりませんわ。
――わたくし、この人、苦手かもしれないわ……。
わたくしは、とりあえず微笑んだ。
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葉すれの音。
朝方に降った雨の粒が、庭園の花の縁に残っている。風が吹くたびにわずかに位置を変え、時折強く花の香りを舞わせていた。
ガーデンテーブルを挟んで僕と向かい合うのは、セシリア。彼女と会うのはこれで二回目。
彼女の蜂蜜色の髪が、陽を透かしている。
淡い光を庭園の雨粒が弾き、星を散らしたようなきらめきが彼女のドレスに落ちていた。
華奢な指が白い陶器のカップを持ち上げる。
目が合うと、彼女はふわりと笑んだ。
――相変わらず、完璧。
「……こちらの紅茶、初めて頂くかもしれませんわ」
「ふふ。それはね、我が領地でとれる花の香りを茶葉につけてみたものなんだ。
ベルガモットに似てるけど、あれよりも甘くてしっとりしているでしょ?」
「まぁ……。
レオン様はご領地の産物についてもお詳しくて……。素晴らしいですわ」
「将来継ぐものだからね」
セシリアが微笑む。
――今、何考えてるんだろう。
――ぜんっぜん、わからない。
彼女は背後に控えていた侍女に合図を出すと、侍女から美しい紙包みを受け取った。
そしてそれを両手で持ち、僕に見せる。
「こちら……。拙いものですが」
僕の前にそっと置いた。
「貰っていいの?」
「……はい」
彼女はにっこりと笑う。
包みを開けると、ほのかに花の香りが立ち上がる。中に入っていたのは、シルクのハンカチ。我が家の家紋が刺繍されている。
「……これは、君が?」
彼女は少しだけ首を傾げた。
柔らかい蜂蜜色の後れ毛が、華奢な肩を撫でる。
「…………えぇ」
――今の間は、なんだ?
――自分で刺してないのかな。
婚約者に手刺繍のハンカチを贈るなんて、よくあることだ。
――侍女にやらせた……とか?
“完璧な淑女”と言われる彼女が?
……まぁ、本当のところは知らないけど。
「……ありがとう」
彼女は小さく笑んだ後、カップを持ち上げて紅茶を口にした。
――プライドが高そう……。
――ツンとして、可愛げがない。
ため息を飲み込む。
――何を話したらいいか、わからないよ。
――早く終わらないかな。
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帰り、僕は彼女を馬車までエスコートした。
手袋越しの彼女の手。
ほんの僅かな違和感。
セシリアの指先をそっとつまむと、レースの手袋の内側で、薄い布が巻かれている。
――怪我してる。
「……これは」
彼女はパッと手を引いた。
「何でもありませんわ」
セシリアの翡翠の瞳をじっと見るが、いつも通りの穏やかな笑みのまま。
――“淑女”が指先に怪我?
彼女のそばにいた侍女がにっこにこしている。
「お嬢様、頑張られたんですよね」
「……何を?」
侍女の視線は、僕がまだ手に持っていたセシリアがくれたシルクのハンカチへ。
セシリアはふいと視線を馬車に向ける。
「本当に何でもありませんの。
――それでは、ごきげんよう」
彼女はカーテシーをし、扉横に立っていた御者の手を取ってステップを踏んだ。
「……待って」
手を伸ばすが、彼女はちらとそれを見るだけ。
「……ありがとう。ハンカチ、大切にする」
セシリアは、にっこりと笑んだ。
――目が笑っていないんだが?
彼女はそのまま馬車に乗り込んでしまった。
扉が閉められる。
軋む音を立てて走り出し、その馬車の背を、僕は見送った。
「……刺繍で刺したの?
……いや、まさかね。彼女がそんなにどんくさいとは思えない」
踵を返す。
ハンカチを見つめる。
――やっぱり花の香りがする。
茶葉につけた花とも、庭園の花とも違う香り。
僕のブーツが石畳を打った。
かすかな音。
少しだけ、いつもより音が軽く感じた。
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伯爵家の図書室。
天井まで届く書架。
臙脂や紺の背表紙が整然と並び、金の文字がかすかに陽の光を弾いている。
細長い窓から差し込む昼の日差しは、光の層となって静かに部屋を満たしていた。
窓際の机を挟んで、わたくしと向かい合って座っているのは、レオン様。
彼と会うのは今日で三回目。勉強会という名目でただ本を読む。
ページをめくる音だけが、落ちている。
ちらと正面の少年を見た。
机に肘をつき、少しだけ姿勢を崩して本を開いている。
胡桃色の前髪が影を作り、蒼灰の瞳を灰に沈めていた。
静かな空気。
まるで湖面のよう。
視線がゆっくりと持ち上がり、目が合う。
レオン様は淡く、笑んだ。
――今日も、完璧な紳士の微笑み。
彼がゆっくりと口を開く。
「……何を読んでいるの?」
「詩集です」
「……そう」
彼は小さく笑んでから、視線を本に戻した。
少年にしては、静かすぎる。
――今、何を考えてるのでしょう。
――ぜんっぜん、わからないわ。
「あ」と小さく彼の声がこぼれた。
レオン様の瞳を見ると、彼はにっこりと笑う。
「……先日のハンカチ、ありがとう」
ポケットからハンカチを取り出し、わたくしに見せた。
「ちゃんと、大切にしているよ」
わたくしが反応する前に、ハンカチがしまわれる。
――うわぁ……。持ってるんだ……。
――律儀にも程がありますわ。
笑みの仮面を被った。
「お礼のお花、受け取りましたわ。とても素敵でした。ありがとうございます」
彼が笑う。
どこか大人びた表情。
――レオン様は完璧。
苦手なものなど、ないのでしょうね。
ため息を飲み込む。
「……あなたは苦手なことはありませんの?」
――あ、つい、聞いてしまったわ。
彼は少しだけ整った眉を歪めた。
「……ダンスかな」
――乗馬もお出来になると伺ったのに、まさかのダンス?
――嘘ばっかり。
「ふふ」
レオン様の微笑みが固まる。
「……そうだよね。
君みたいな淑女は、刺繍もダンスもできるんだろうね」
――あっ。
もしかして、ダンスが苦手って本当のことだったのかしら。
だとしたら、笑ってしまったのは失礼だったわ。
――今のは、わたくしが悪い。
「……苦手ですわ」
「え?」
蒼灰の瞳がわずかに見開かれる。
わたくしは、ポケットにしまっていたハンカチを取り出す。
彼の前でそっと広げた。
本当は人に見せるつもりのなかった、ハンカチの内側。
“L”
歪んで不格好な、レオン様のイニシャル。
よく見ると、血の跡が残っている。
「汚してしまって……。その上、歪だし……」
レオン様から視線を逃がしてハンカチを見つめたまま、ため息を吐いた。
「これがわたくしの実力です。先日お渡ししたハンカチも、半分ほどは侍女に手伝って貰ったのです……」
視線を感じるが、顔を上げる勇気はわたくしにはない。
「あなたは完璧な紳士だと言うのに、わたくしは……」
――人に手伝って貰ったハンカチは、やっぱり渡すべきではなかったわ。
「それ、ちょうだい?」
目を見開く。
「え?」
顔を上げると、レオン様は腰を浮かせて、わたくしの手からハンカチを抜き取る。
彼の柑橘系の香りがふわりと立ち上がった。
「まさに血と涙の結晶だね。素敵じゃないか」
レオン様が目を細めて笑う。
彼の瞳に光が差し込んで、星を散らしたように輝いていた。
つい、口端が緩んでしまう。
「何を仰るの。変な人」
わたくしが笑うと、レオン様がわたくしの瞳を柔らかく見つめる。
不思議と、目をそらそうとは思えなかった。
風が吹いて、窓枠が小さくカタリと鳴っていた。
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昼間のガーデンパーティ。
会場の奥から、楽団の音色が響いてくる。
白に塗られた小ぶりのガーデンテーブルがいくつも並んでいた。
緑のダマスク柄の布地が貼られた木製の椅子には、ご婦人たちが座り、会話に花を咲かせている。
広場では、ダンスを踊ってる紳士淑女もいた。
あちこちに飾られた花々が、彩りを添えている。
僕の隣に立つセシリアは、いつもよりも少し華やかな装いだった。髪より少し濃いパールオレンジのドレス。装飾はあるが、どこか静かで、上品な彼女によく似合っていた。
「セシリア嬢は、相変わらず背が高いな」
貴族子女の輪の中にいた一人が、急にそう言い出した。
――はぁ?
隣を見ると、彼女の柳眉がほんのわずかに寄る。
彼女は確かに僕より、少しだけ背が高い。特にヒール靴も履いているから尚更だろう。
「女性は小さい方が可愛らしいと言ってたぞ」
――その愚か者はどこのどいつだ?
セシリアは視線をそらして、いつもの“淑女”の微笑みをつくっていた。
「ねぇ。
僕らの年齢では、女性の方が成長が早いんだよ。習わなかった?」
貴族少年は、僕を見た。
――あぁ、思い出した。子爵家の次男だったかな。
“子爵家の完璧な淑女”セシリアを僕に取られて、悔しいの?
君と同格の家柄では、彼女が一番だものね。
彼は口端をわずかに歪めて、僕とセシリアを見比べている。
“今は”僕のほうが確かに小さいけど、
――だから何?
「仮に彼女がずっと背が高くたって、それが何なのかな。
彼女が美しくて眩しいなら、そう言いなよ。
……素直じゃないね、君」
貴族少年は眉を歪めた。
隣のセシリアは不思議そうに僕を見ている。
僕は彼女に向き合い、手を差し出した。
「美しい方、ダンスを一曲、いかがですか?」
セシリアはわずかに目を見開く。
そして視線を下げて、少しだけ頬を染めた。
「……喜んで」
僕の手に、彼女の華奢な指先が添えられた。
――少年、よく見ろ。
彼女は僕を選んだんだ。
セシリアが、視線を上げる。
澄んだ翡翠の瞳に、僕が映っている。
僕が微笑むと、彼女も微笑んだ。
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ダンス広場へ向かって歩きながら、わたくしは小声でレオン様に問いかける。
「……苦手なんじゃなかったのですか?」
彼は、片頬だけ小さく膨らませた。
――そんな子どもみたいな表情もするのね……。
「苦手だよ」
蒼灰の瞳がまっすぐにわたくしを見る。
「だから頑張ってるんじゃないか。
あいつに腹が立ったでしょ?
……僕もだよ。
だからね、見せつけてやるんだ」
「……まぁ」
――まるで、子どもだわ。
いや、わたくしたちはまだ子どもでしたわ。
腹は……少し立ちましたけれど、もうどうでもよくなりましたわ。
ダンス広場。
夜会よりも気楽な雰囲気。
音楽が、楽しげに庭園の花々を揺らしている。
向かい合って、互いに一礼。
――初めて踊るのね。
なんだか、緊張するわ。
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互いに一歩寄り、手を伸ばしかけてレオンが固まる。
「レオン様?」
セシリアが彼の瞳を見ると、レオンはふいと顔をそらせた。
――そうか。腰に手を添えなきゃいけないんだ……。恥ずかしいな。
レオンはつばを飲み込み、意を決したようにセシリアを引き寄せた。
思いのほか力強くて、彼女が一歩よろけかける。
「……ごめん」
慌てて謝ると、視線が交わった。
「……いえ」
――花の香り。やっぱりこれは、セシリアの香りだったんだ。
レオンの頬がわずかに赤らむ。
セシリアの頬も染まった。
――レオン様の柑橘の香りが、いつもより近いわ。
二人して、目をそらす。
音楽に合わせて、ゆっくりと足を動かし、幼い二人は踊り始めた。
また視線がからみ、互いにそらす。
レオンは、胸のうちで、一生懸命リズムを数えた。
セシリアが少しだけレオンに顔を寄せる。
「アン・ドゥ・トロワ。アン・ドゥ・トロワ……。
なんだ。レオン様、お上手ではありませんか」
レオンは慌てて背をそらして顔を離す。
その時、ステップを踏み間違えた。
「……ほら! 君のせいで間違ったじゃないか」
セシリアは少しだけ不敵に笑ってから、クスクスと少女らしく笑った。
レオンは、笑うセシリアを見て、彼もまたクスクスと少年らしく笑った。
風が吹いた。
管弦の音が穏やかに鳴り、花びらを舞わせる。
二人の、はじめてのワルツ。
これからきっと、何度も踊る。
だけど今日、この時のことを、
二人はいつまでも忘れないだろう。




