第二話 愛の産物
学校まで続く桜の木は、すっかり花を散らして葉をつけだしていた。坂下灯浬は軽快に立ち並ぶ木々を追い越しながら自転車を走らせていた。今日は五月晴れのような快晴で、降り注ぐ陽光は四月と言えど暑いくらいだ。家から学校までは自転車で三十分ほどだが、校門に近づいた頃には汗ばんでいた。
ぞろぞろと校門へ向かう生徒の中に、頭が一つ分だけ飛び出た広い背中を見つけ、灯浬はペダルを踏むのをやめて人混みの間を縫うようにスゥーッと近づいていく。
「帆澄先輩~おはようございまーす!」
山本帆澄である。帆澄は横に並んだ灯浬に顔を向けずに目だけを動かしてじろっと睨みつけると、
「うわ……」
と呟いた。肩につくほどの長い黒髪をうざったそうにかき上げる。帆澄も今日は暑いのか、額に汗がきらめいた。ブレザーごとまくった腕はスポーツ選手のようによく筋肉がついていた。この逞しい腕からあんな繊細な写真が生み出されているのかと思うと不思議だ。
「好かれちゃったね、ほっちゃん」
ひょこっと帆澄の脇から眼鏡の男子生徒が顔を出す。
「あ、凪先輩!おはようございます!」
羽村凪。下の名前は昨日教えてもらった。今朝の凪は制服のブレザーを脱いでいて、代わりに薄手の白いスクールセーターを着ていた。肌も白く色素も薄い凪が白い服を着ていると、自然光のもとではやけに眩い。
「おはよう、坂下くん。チャリ通なんだね」
さらに爽やかな笑顔が眩しさに拍車をかけた。
「うう、凪先輩、まぶしい…」
「お前、距離感おかしいだろ」
ははは、と笑う凪に対して、帆澄は呆れたように言い捨てる。
「またそういうこと言う。人懐っこくて可愛いじゃん」
すかさず凪はフォローをしてくれた。
「二人とも仲いいんすね。いつも一緒に登校してるんですか?」
灯浬は自転車を降りて二人に並んで歩き出した。
「はあ?」
揶揄されたと思ったのか、帆澄があからさまに不快な声を出す。
「ぼ……俺たち幼馴染なんだよ。家が近所なんだ」
凪が自分のことを「僕」と呼んでいるらしいのは、昨日の時点で既に分かった。何度も「僕」と言いかけて「俺」と言い直していた。別に言い直さなくていいのにと思いつつも黙っておく。
「へー、幼馴染で高校まで一緒なんてすごいですね」
この学校は別に中高一貫ではない。普通の公立高校だ。示し合わさなければ家が近所といえど、なかなか一緒の高校にはならないだろう。凪は灯浬の言葉に「そうかな?」と曖昧な返事をした。
「ねぇ、帆澄先輩ってもう写真撮ってないんですか?」
帆澄はうんざりとした顔を隠そうともせず、ため息まじりに、
「……昨日そう言った」
と言った。
「なんで?」
「なんでってお前。知ってんだろ」
「炎上したこと?」
灯浬がずばり言うと帆澄は苦々しそうな顔をして黙った。
帆澄の写真がバッシングされたのは去年の秋頃の話だ。その問題となった写真こそが、灯浬の心を掴んだ作品だった。
「でもあれって別に先輩悪くなくない?外野が勝手に騒いでただけじゃん」
それはマタニティフォトだった。しかし、幸せだけが切り取られた写真ではなかった。灯浬は去年、この高校の文化祭でそれを見た。まだ暑さの残る九月の終わりだった。
友人達に誘われて来たこの高校は、灯浬の志望校ではなかった。あまり偏差値も高いとはいえない普通の高校だった。
賑わう文化祭の最中、灯浬は友人達とはぐれてしまった。校内で彷徨っているうちに写真部の展示が目に入った。ひっそりとそれは展示してあった。
彩度の低い暗い写真だった。ただスポットライトを当てたように一筋の光が、艶やかな肌の女を照らしていた。母にしては随分幼い顔をしており、灯浬とほとんど変わらないように見えた。背が高くやけに細い女だ。全てのパーツが細長い女は、腹だけを膨らませて睨むように佇んでいた。妊婦自体、あまりまじまじと見たことがなかったが、その体のアンバランスさは奇妙で目を引いた。
梅雨の時期に撮影したのか、満開の紫陽花に取り込まれるようにして佇む女の肌は、雨に打たれているのか雫がしたたっていた。その細い体は羽衣のようなとろんとした布で胸部は隠されていて、紫陽花の茂みと影で陰部は見えることはなかったが、刺激的な写真であるのは間違いなかった。
しかし灯浬が感じたのは性的な興奮ではなかった。
めちゃくちゃかっこいい!!
妊婦の女にそんな感情を抱くのは初めてだった。
女が湿った長い髪の隙間から突き刺すような瞳を覗かせている。子を守る獰猛な動物と対峙している感覚に陥った。
心臓が高鳴った。体温が上がっていくのを感じた。初めは被写体の女に惚れてしまったのかと思った。しかし、そうではないことにすぐに気づいた。灯浬はその写真自体に魅了されたのだ。その写真パネルには『母胎』とタイトルがついていて、『1年3組 山本帆澄』という名札が貼ってあった。
灯浬は帰ってからすぐにその名を調べた。彼のSNSを発見して夢中になって全ての写真を見た。そのどれもが灯浬の心に刺さった。
まるで彼の写真自体に恋をしてしまったように、新たな写真が投稿される日を待ち侘びた。新たな写真が更新された日は恋人に会えたかのように心が弾んだ。
芸術など今まで何も興味がなかった。それが却って、帆澄の生み出す写真に唯一無二の運命めいたものを感じて、灯浬はたちまち帆澄の世界に心酔していった。
彼の写真を見ていると一人宇宙に放り出されたように孤独で静かだ。それでいて何か優しいものに包まれている気がした。いつしかその創造主に思いを馳せるようになった。
言葉の少ないSNSでは、帆澄が女性なのか男性なのかさえ分からなかった。一体どのような人物なのだろう。何を思ってこんな写真を撮っているのか?
帆澄に会いたい。
しかし、灯浬が心を奪われたその写真は、後日インターネット上で攻撃の的になってしまった。
「誰が悪いとかそういう問題じゃない」
帆澄の言葉で灯浬はハッと我にかえった。帆澄の言葉は妙に滑らかで、まるで用意されたセリフを読み上げているようだった。もう何度もそう言ったのかもしれない。他者に、あるいは自分に。
「でも…」
と灯浬が言いかけたところで、
「うるせぇな。この話終わり」
と打ち切られてしまった。
そもそも炎上したのは外野のつまらない言動のせいであり、延焼したのは被写体の女性がアンチコメントにいちいち反応していたせいでもある。
帆澄が撮影した妊婦はインフルエンサーのモデルの女で、元々彼女はその美貌と傍若無人な振る舞いでファンとヘイターが半々にいた。積極的に調べたわけではない。灯浬は他人の意見などどうでも良かった。勝手に情報が流れてきたのだ。だから、詳しく全てを知っているわけではないけれど。
「っていうか、映ってた人の方も悪かったと思うけど」
なんとなく納得がいかず、独り言のように灯浬が言うと、帆澄は恐ろしい形相で灯浬を見た。灯浬は反射的にやばいと思ったが遅かった。
「お前なあ!」
「あっ!!」
肩口を掴まれて灯浬は帆澄と向き合わされた。はずみで自転車を離してしまい、けたたましい音を立てながら倒れた。幸い誰にもぶつからなかったが、道行く生徒が一斉に視線を向けてきた。
「あ~~ストップストップ。みんな見てるよ、ほっちゃん」
ガルルと獣のような唸り声が聞こえそうな帆澄を取り押さえながら、凪は言う。
「昼休みにさ、部室来たら?俺たちそこでご飯食べてるから」
「えっ、いいんですか!絶対行きます!」
灯浬は自転車を起こしながらケロっとした笑顔を向けた。実際灯浬は別に何も気にしてなかった。自分は間違ったことを言ったつもりはない。
「げー!!最悪!!」
叫ぶ帆澄を引っ張るように凪は昇降口の方へ向かっていった。灯浬はそれを見送ってから、まだ遠巻きに見ている生徒達から逃げるように駐輪場に向かった。
昼休み。灯浬は自分のお弁当を持って部室に向かった。変わらずドアには模造紙に写真部と書かれた貼り紙が貼ってある。
引き戸には窓がついていて中の様子が見える。灯浬は入る前にそっと覗いてみた。
「……………」
まるで昨日を再現したかのように、帆澄と凪は同じ場所で同じ体勢で座っていた。帆澄は窓際に椅子を寄せてだらしなく座っていたし、凪は少し離れた場所できちんと背筋を伸ばしてお弁当を広げていた。会話をしている様子はない。ただ穏やかな春の光が静かに二人を包んでいた。そこには、図書館のような美術館のような静謐ともいっていい空気が漂っていた。入るのを一瞬躊躇った。なんだかこのまま二人をじっと見ていたい気持ちになる。同時になぜだか切なくなる。
しかし貴重な昼休みを潰すわけにはいかない。灯浬はドアをノックした。
「お疲れ様でーす」
灯浬が入ってきた瞬間に静止していた動画が動き出すように空気が流れた。
「あ、いらっしゃい。どこでも座っていいよ」
「二人ともいつもここでお昼食ってんですか?」
灯浬は滞った空気を混ぜ返すようにガタガタと音を立てながら、適当な椅子に座った。
「うん、そうだね。一年生の時から大体そうかなあ」
うーん、と考えながら凪は言う。
「友達いないの?」
灯浬のツッコミに一瞬シーンとなる。しまった、失言をした、と慌てると同時に、
「お前ってさ、毎回毎回、喧嘩売りに来てんの?」
不機嫌そうな声が横から飛んでくる。帆澄を見ると袋からパンを出してむしゃむしゃ齧っていた。なんだか肉食獣が餌を食べているような食べ方だ。
「まあ、大体合ってるんだからいいじゃん……」
大体合ってるのかと灯浬は心の中で苦笑する。
帆澄が近寄りがたいのは分かる。でかいし、目つきも態度も悪いし、ぱっと見怖い。そして、凪も凪で穏やかではあるが、聖人のような独特な雰囲気が漂っていて近寄りがたいのだ。
そもそもこの二人には、なんとも言えない密やかな空気感がある。入り込めない二人の世界を築き上げているように感じるのだ。
幼馴染と言っていたが、こんなに濃密な空気が出るだろうか?と灯浬は不思議に思う。
「それよりさ、ほっちゃんと話したいんでしょ?ここでなら好きにどうぞ。殴り合いになっても見つからないし」
凪が笑顔で物騒なことを言い出して、灯浬は箸から卵焼きを落としそうになる。
「べ、別に俺、帆澄先輩を怒らせようとなんて思ってませんから!」
「その割には俺の地雷ガンガン踏んでくんじゃん」
パンをコーヒー牛乳で流し込みながら帆澄は言う。
「違います!むしろ帆澄先輩は俺の推しですから!憧れ!俺も帆澄先輩みたいに写真撮ってみたい!」
気づいたら席を立って熱弁していた。さすがの帆澄も気圧されたのか、黙っている。凪はそんなやりとりをにまにましながら眺めていた。
「……お前、何が撮りたいの?」
おもむろに帆澄が尋ねた。
「えっ?」
「空が撮りたいとかその辺の猫が撮りたいとか色々あんだろ」
「もちろん人ですよ人!帆澄先輩みたいに人が撮りたいです!」
「…………」
帆澄は食べるのをやめて、じっと灯浬を見た。けれど自分と目が合っているように思えなかった。なんだか自分の心の奥底に焦点を合わせているようで落ち着かない気分になった。
「なんで?」
帆澄は灯浬を試すように問う。まるで尋問だ。ここで帆澄の気に食わない回答をしたらカメラを教えてもらえないかもしれない。
「なんで人が撮りたいんだよ」
なんで?なんでだろう。ただ、漠然と帆澄のように人物写真が撮ってみたいと思っていた。
帆澄がカメラを通して何を見ているのか。
見てみたい。知ってみたい。感じてみたい。自分の中に帆澄の何が刺さっているのか。
だから、
「帆澄先輩の見ている世界を俺も見たい」
「…………」
帆澄が少しだけ息を呑む音が聞こえた。
「なにそれ」
と帆澄は今度は視線を逸らした。いつもの不機嫌そうな表情がわずかに和らいだ気がする。
(照れた……?)
なんとなくこちらも恥ずかしくなって、灯浬は照れ隠しに言葉を探す。
「…………あー、あの…先輩は?なんで人を撮っていたんですか?」
同じことを返してみた。
「人間が好きだから」
帆澄は即答した。1+1=2、と当然の摂理を言うように。今度は灯浬が息を呑む番だった。
『人間が好き』
とても真っ直ぐで誠実な響きだった。
「でもなんでも撮れるわけじゃない。俺が好きな奴しか撮れない。だから、お前が俺をどう思ってるか知らないけど、別にすごい奴じゃな…」
帆澄はまた、元の不機嫌顔に戻ってつまらなそうに語り出す。しかし、灯浬は帆澄が言い終わらないうちに、
「帆澄先輩の写真見た時、世界が変わったんです!なんだろう、なんていうか、なんかすげー!って!」
とまくし立てる。だって、そのことを伝えたくてここまで来たのだ。帆澄の写真が大好きだ、と伝えたくて。
「それに!!愛があった!!」
突然飛び出した『愛』という単語に、帆澄と凪はぎょっとする。灯浬でさえも自分で言ってぎょっとする。
『愛』なんて言葉、いまだかつて口にしたことがあっただろうか。けれど、勢いに任せて出た言葉じゃない。本当にそう感じていた。
帆澄が撮っていたもの。好戦的な妊婦、病床の老婆、疲れ果てているような中年の男……どれも単純に綺麗なものを綺麗に写しているわけではなかった。目を向けないもの、背けたくなるもの、そこに美しさを見出していたような気がする。
いつも帆澄は写真を通してこちらに訴えていた気がする。
『どうだ、人間は美しいだろう』
「帆澄先輩の写真には愛がありました!」
灯浬の中で『人間が好きだから』と言い放った帆澄が急速に腑に落ちていく。
ああ、この人は人間が本当に好きなんだ。
人間愛、きっとそれが帆澄の写真の根源なのだろう。
灯浬は何か大きな謎がするするとほどけていくような気持ちになった。
それにしても、なんというくさいセリフを言ってしまったのだろう。さすがの灯浬もこれ以上は言葉を紡げずに固まる。帆澄も呆気に取られたように固まっていた。
「ふっ…」
と吹き出すような声が沈黙の部屋に響く。
「あはははは」
笑いだしたのは凪だった。
「すごいね、坂下くんってほっちゃんの写真よく見てる」
凪はどこか愛おしむような目で灯浬を見た。子を褒める親のように。
「そ、そうですかね」
灯浬はいたたまれなくなって、へへへと照れ笑いをして誤魔化した。
「はぁ……。そんなに熱く語ってもらって悪いけど、俺はもう」
灯浬は帆澄の言葉を遮る。
「俺、帆澄先輩の写真もっと見たいです!」
帆澄の写真はもうどこにもない。インターネット上にある帆澄の写真は全て帆澄が消してしまった。元々、彼は有名だったわけではない。単に趣味で写真を撮る一般人に過ぎない。あの炎上したマタニティフォトが一人歩きしただけで、被写体も有名人を撮っていたわけではない。
だから、数多に無断転載されてしまった渦中の写真以外、見られなくなってしまったのだ。誰かに勝手に盗まれて悪意で上げられた帆澄の写真は見たくなかった。
灯浬はあの事件が起きて以来、帆澄の写真を見ていない。それが悔しくて、まるで恋人と引き離されたように狂おしくて、灯浬はこの高校を受験した。もっと上を目指せるのに、という周りの大人たちの言葉を振り切って。
「………………」
帆澄は長いこと黙っていた。パンを全て食べ終わり、プラスチックの袋を丁寧に畳んだ。それから窓を見た。空に雲はほとんどなくて、太陽光は教室に静かに降り注いでいた。
そして、灯浬を見た。まだ少年らしいつるりとした幼い灯浬の頬を陽光が照らす。産毛がきらきら光っていた。瞳もきらきら輝いていた。灯浬の熱量は確かに灯浬を輝かせていた。
帆澄は灯浬の頭から爪先までを見た。まだ真新しい上履きは汚れなどなく白かった。
視線を灯浬のくりっとした栗鼠のような瞳に戻す。そして帆澄は言った。
「じゃあお前を撮るから服を脱げ」




