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第1話 猛獣と調教師

──その写真を見た時、稲妻が体をぶち抜いたような気がしたんだ──




  ファインダーの中で君に触れる




 ゆるやかな四月の陽光が白い廊下に降り注いでいた。坂下灯浬(さかしたとうり)は、まだ終業を告げるチャイムが鳴り終わらない校内を勢いよく走っていた。教師に見つかったら間違いなく咎められるスピードだ。校舎の二階に届くまで育った木々は日差しに照らされ、灯浬の頬と廊下に木々の影を映し出した。風で木々が揺らめくたび、影絵のようにそれは踊る。綺麗だと思った。白い光と灰色の影が織り成す世界は、こんな古びた校舎の床さえも美しく彩る。ああ、それを残せたなら……。灯浬は高鳴る胸に手を引かれながら、廊下を走った。



「こんにちは!初めまして!入部します!」

 

 どんな時も元気に挨拶、そして笑顔!と教え込まれた灯浬は、小さい頃から従順にその教えを守りながらすくすく快活に育った。良く言えば素直、悪く言えばバカと揶揄されたものだが、コミュニケーションにおいては強すぎる武器だった。今日この日も灯浬は初めて訪れる場所にも関わらず、『写真部』と模造紙で適当に書かれた教室のドアを少しも物怖じせずに元気いっぱい開けた。


「えっ……」


 道場破りのような勢いで入ってきた灯浬に、椅子に座って本を読んでいた眼鏡の生徒が驚いたように顔を上げた。来訪者など予期していなかった。なぜなら今年度の部活動はまだ開始しておらず、新入生には入部届の用紙も配布されていない。

 部室にいたのは二人だけ。一人は今まさにぽかんと口を開けて灯浬を見ている眼鏡をかけた男だ。色素が薄くてあか抜けないが、無害そうだ。

 もう一人は肩先まで伸びた髪が印象的な随分と体格の良い男だった。彼は椅子にふんぞり返り、長い足を持て余しているかのように机に乗せて眠りこけている。灯浬が来たことには気づきもしないようだった。

 写真部の部室はあまり使われていない教室特有の埃っぽい匂いが立ち込めている。机と椅子が適当に置いてある他は、備品が入っているだろう棚が一つ置いてあるだけだ。ノートパソコンと埃をかぶった一眼レフだけが『写真部』たらしめているものだった。

 四月の柔らかな光が眼鏡の男と長髪の男を穏やかに包んでいた。入学式が終わって幾日も経っていない学内は、まだ浮き足立って落ち着かない空気が絶えず流れている。しかし、灯浬はこの空間だけ遥か昔から時が止まっているように感じた。秘密の部屋に来てしまったような罪悪感、場違い感が急速に灯浬を襲う。それほどまでにこの空間は密やかな空気が充満していた。いや、厳密に言えばこの二人からそんなただならぬ空気が醸し出されていた。


「…………」


 その空気に飲み込まれ、しばらく何か神聖な絵画を見ているかのように灯浬は呆けた。だが、本来の目的を思い出し我に返る。

「あの…写真部…ですよね…」

 灯浬がおずおずと口を開くと、呆気に取られていた眼鏡の男も慌てて席を立った。

「えっ、えーと、一年生…?なのかな」

 眼鏡の男は入り口に突っ立っている灯浬の前に立つ。目の前に立たれると印象よりも随分背が高い。少なくとも灯浬よりも高かった。二年生だろうか、三年生だろうか?

「部活紹介のオリエンテーションは明日のはずだけど。なんでうちに?」

 眼鏡の男はやんわりと尋ねる。優し気な顔つきと同様に声と口調も優しい。急に風穴が開いたように部室からどこか入りがたい空気が消えていく。灯浬は肩が軽くなるのを感じた。

「あの、部長さんですか?」

「ぼ…あ、俺たちは二年生だよ。部長は別にいるけど部長含めてほとんど幽霊部員なんだ。一応毎週金曜日が部活動の日なんだけど、俺たちは無意味にここにいることが多いんだよね」

 ははは、と誤魔化すように笑う。

「俺は羽村(はむら)。あそこでふてぶてしく寝てるのは山本」

 と冗談めかして羽村が言った瞬間、灯浬は


「山本っっ!!」


 と叫んだ。羽村が驚いて後ずさった。

「どうしたの…?山本のこと知ってるの…?」

 急に叫び出した灯浬に羽村はビビる。この時、羽村は灯浬のことをだいぶヤバイ不思議ちゃん来たと警戒していた。

「やま、山本って!!山本帆澄(やまもとほずみ)ですか!?」

「えっ、う、うん…?そうだけど」

 口角泡を飛ばす勢いで灯浬が迫ってくるので羽村はそーっと距離を取る。そんなことには気づかず灯浬は顔を赤らめて興奮していた。なぜなら、灯浬はずっと。去年からずっと、


「あの、俺、山本帆澄の…!!」

 

「…っるせーなぁ!!」


 ドスの利いた低い声と共にガンっと机を蹴飛ばす音が部屋中に響く。

「ひぃっ」

 突然の暴力的な音と声に、灯浬は兎のようにピョンと跳ねた。羽村はすかさず灯浬に背を向けると、つかつかと山本の方に歩いていく。そして、

「バカ」

 と言いながら山本をノートで叩いた。スパーンと。ハリセンで叩いたような軽快な音が鳴った。

「へ!?」

 灯浬は、おっとりとしていそうな羽村の暴力行為におののく。

「いってぇーな!!」

 山本は再び怒鳴るが羽村は慣れているのか怯まない。それどころか、山本を叱る。

「モノとヒトに当たるなっつってんだろ!」

「人が寝てるのにぎゃあぎゃあ騒いでうるせーんだよっ」

「寝起き最悪とか子供かよ。眠いなら家帰って寝ろよ」

「今、姉貴とガキが家にいてうるせーんだよ」

「だから、お前の家に赤ちゃん二人もいたら可哀想だから僕がお前の面倒見てやってんだろ」

「はぁ!?」

「はいはい、よちよち、静かにしましょうね~」

 羽村は雑に山本の頭を撫でた。山本の長い髪がぐしゃぐしゃになる。殴り合いの喧嘩にでも発展するのではないかと思ったが、どうにもじゃれているだけのように見える。いや完全にじゃれているだけだ。もっとも山本の方は本気で怒っているようであるが。

 強面で体躯の良い山本が、一見なよっとした羽村に良いようにあしらわれている。灯浬は二人のやりとりを見ながら、なんだろう、何か既視感がある、この構図、なんだっけ…と頭をぐるぐる回転させた。そしてついに、

「も、猛獣と調教師…」

 と思い至った。

「はぁ!?」

 灯浬のつぶやきに山本は凄む。

「ひぇ…」

 灯浬は亀のように首をすくめた。

 

 羽村は再び椅子に座ると、灯浬にも椅子を勧めてきた。山本は羽村の隣で相変わらず横柄な態度で長い腕と足を組んで座っているので、圧迫面接をされている気分になる。ちらっと山本を見るが、随分凶悪な人相をしている。まるでヤンキーだ。ただでさえ図体も態度もでかくて怖いのに、吊った目をさらに細めて射るように灯浬を見てきた。圧迫面接改め尋問されている気分だ。

 しかし、気圧されている場合ではなかった。灯浬は呼吸を整える。この『山本帆澄』に灯浬はずっと会いたかったのだ。


「バカがごめんね。えーっと、なんだっけ?入部希望なんだっけ?」

 山本の隣にいると、羽村の柔和な態度と相貌がさらに際立つ。なんだかちぐはぐな二人だなあ、と灯浬は思う。しかしやりとりを見るだに二人は仲が良いようだ。それもかなり。

「誰がバカだ」

「まだ入部届も配られてないでしょう?最初からうちに入るって決めてたの?」

 羽村は山本を無視して話を進める。灯浬は息を吸うと

「あの、俺、去年、山本先輩の写真見ました!ここの文化祭で…!」

 と告げた。それだけで全て伝わると思ったのだ。実際、羽村も山本も顔色が変わった。強張ったと言ってもいい。


 去年の文化祭。山本帆澄の写真。それは、その写真は……。灯浬は次に言う言葉をまとめる前に山本は突然すくっと立ち上がった。立ち上がるとさらにでかく見える。


「……カメラはもう止めた」

 

 山本はそれだけ告げて部室から出て行ってしまった。鞄も携えていたのでここには戻らないつもりらしい。


「えっ?」

 

 灯浬は部室のドアがしまるのを呆然と見ていた。

「えっ!?」

 説明を求めるように今度は羽村の方を向いて言う。何が起きたのかわからない。何を言われたのかも。

「ごめん、ほっちゃん……えーっと、山本は不器用でさ」

 羽村は困ったように笑った。ほっちゃん。というのは帆澄のあだ名なのだろう。


 山本が消えた部室は急に色を無くしたようだった。いや違う。雲が出てきて太陽を隠したのだ。電気をつけていなかった教室は途端に薄暗くなる。

「君は山本のこと知ってたの?」

 羽村が尋ねる。翳った室内では羽村の白い肌が妙に血色悪く映った。

「去年、文化祭でここに遊びに来て。写真を見ました」

 灯浬は去年のことを思い出す。灯浬は去年の九月にもこの場所にいた。何げなく立ち寄った写真部の展示。そこで人生が変わるほどのものを見た。

「そう。じゃあ、その後のことも知ってる…?」

 羽村が視線を落として尋ねた。なんだか肌寒い。気温まで落ちたような気がする。太陽が隠れた夕方は彩度がない。温度がない。モノクロで静かだ。

「……知ってます」

 灯浬は静かに答えた。


 山本帆澄。彼は昨年、とある作品に多くのバッシングを受けたアマチュアカメラマンだった。

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