そして、終わりへ
マンションから出て、タクシーに乗った瞬間、俺の体から力が抜けた。
雪が激しく降り始め、窓ガラスに白い粒が付着して視界をぼやかしていた。
好は俺の隣でスマホをポケットにしまい、静かに息を吐いた。
彼女の頰は冷たそうに赤く、目が少し疲れたように細くなっていた。
「亮さん……お疲れ様でした」
好の声は低く、優しかった。
俺は窓の外をぼんやり見ながら、頷いた。
「…ああ。好…ありがとうな」
「いえ、私は…大丈夫です」
多分、あの男の顔は一生忘れられない。
もちろん、一生許すこともないだろう。
タクシーのエンジン音が低く響き、車内は暖房の熱気でむっとしていた。
俺の胸はまだざわついていて、山田の青ざめた顔と、美香さんの涙が頭から離れなかった。
復讐は終わったはずなのに、満足感はなかった。
ただ、重い石が一つ胸から落ちたような、安堵と虚無の混ざった感覚だけ。
家に帰ると、凛はリビングのソファで待っていた。
彼女の目は腫れたままで、腹をさする手が止まらなかった。
俺たちが入ってくると、凛はゆっくり顔を上げた。
表情は疲れきっていて、唇が乾いていた。
「…どうだった?」
俺はコートを脱ぎながら、簡潔に話した。
男の土下座、慰謝料の約束、妻の崩壊。
凛は目を伏せ、指を膝の上で絡ませていた。
彼女の肩がわずかに震え、息が浅くなっていた。
「…そっか…本当にごめんなさい」と、声は小さく、罪悪感が混ざっていた。
好が凛の横に座り、優しく言った。
「これでとりあえずひと段落です。今は会社を辞めることと…お子さんのことだけ考えてください」
凛は頷き、涙を拭った。
「会社の人にどう伝えるか凛に任せる。辞めるにあたって理由も聞かれるだろうし、その時に正直にいうかどうかは」と、俺は伝えた。
会社にだけはと言っていたが、奥さんがどう行動するかもわからないし、いずれ何らかの形で会社にバレる可能性はある。
それでも俺はできるなら真実を伝えてほしいとは思っていた。
部屋の空気が重く、誰もが昨夜の出来事を引きずっていた。
◇
翌日、俺は会社でぼんやりしていた。
やばい…な。最近連日こんな感じである。
同僚の声が遠く聞こえ、ヘッドセットから漏れる音が耳障りだった。
すると、好が隣からコーヒーを差し出してきた。
「亮さん、休憩しましょう」
休憩スペースで 彼女の指が温かく、目が心配そうだった。
「考えても仕方ないです。ひとまず今に集中しないと…」と、そう言われた。
俺はカップを握りしめ、窓の外の雪景色を見た。
「…そうだな。考えても結果は変わらないし…。でも、これで一つ、終わったんだ」
好は微笑み、俺の手を握った。
その感触が、俺の心を少し軽くした。
一方、凛は会社に退職を連絡したらしい。
上司——あの男——は会社に来ていないらしい。
そして、真実を人事に伝えると「了解しました。とりあえず、しばらく育児休暇で申請します」と言ってくれたとのこと。
そして、好が凛の隣に座り、背中をさすった。
「私、サポートしますから」
凛は好を見て、小さく頷いた。
二人の視線が交わり、微かな連帯が生まれていた。
10日の待ち時間は、長く感じた。
毎朝、俺は会社でぼんやりし、昼に好のコーヒーで心を落ち着かせ、夜に家で3人の沈黙に耐えた。
凛のつわりは悪化し、吐く音が夜中に響くようになった。
彼女の顔はさらにむくみ、腹をさする手が止まらなかった。
好は凛のために食事を作り、栄養ドリンクを買ってきて、静かに支えた。
俺はそれを見て、胸が痛んだ。
好の優しさが、俺の罪悪感を増幅させる。
「亮さん、凛さんを気遣ってあげて」
好の言葉が、耳に残った。
ある夜、俺は凛の部屋を覗いた。
凛の声は弱々しく、何かを懇願するように呟いていた。
リビングで好が待っていた。
彼女は俺を抱きしめ、耳元で囁いた。
「結果が出るまで、待ちましょう」
俺は好の背中を抱き返した。
この待ち時間は、俺たちの関係をゆっくり変えていくようだった。
結果の連絡が来る日が、近づいていた。




