限界
夜中、俺はリビングのソファで目を閉じていたが、眠れなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
凛の涙、震える肩、必死に「頑張るから」と言っていた声。
全部が、胸の奥でぐるぐる回っている。
俺は天井を見つめ、ただ息を吐くしかなかった。
すると、廊下から足音がした。
小さく、ためらいがちに、凛がやってくる。
彼女の目は真っ赤に腫れ、頰に涙の跡が残っていた。
ネグリジェの裾を握りしめ、肩を小さく丸めている。
妊娠がわかってから、彼女の体は明らかに変化していた。
顔は少しむくみ、歩き方も重たげだ。
ただでさえメンタルがブレやすい時期にもう…耐えられないもんな。
「……亮」
声が震えていた。
凛は俺のすぐ横に座り、布団の端を掴んだ。
「もう……頑張れない。この生活、耐えられないよ……」
俺は言葉を失った。
凛は俺の腕にすがりついてきた。
指先が冷たく、震えが伝わってくる。
「離婚して。お願い……もう、いいから。
この子も……産まないから…!!」
その言葉に、俺の胸が締めつけられた。
凛の目には、諦めと疲れと、深い後悔が混ざっていた。
必死に「妻」を演じようとしていた彼女が、とうとう限界を迎えた。
俺は一瞬、過去の凛を思い出した。
新婚の頃、狭いキッチンで二人並んで料理を作っていた夜。
凛が「亮、味見して」とスプーンを差し出してきたときの笑顔。
「……凛」
俺が何か言おうとした時、好が起きてきた。
凛を見て小さく息を飲んだ。
「凛さん……大丈夫ですか?」
好は立ち上がり、凛の肩にそっと手を置いた。
優しい、でも冷静な声だった。
「休んでください。今は無理に決断しなくていいですから」
凛は好の手を振り払おうとしたが、力が入らなかった。
そのまま、俺の胸に顔を埋めて泣き始めた。
「亮……ごめんね。私が全部悪いのに……あなたを傷つけて……でも、もう一緒にいられない」
好は黙って凛の背中をさすっていた。
俺はただ、凛の髪を見つめていた。
一瞬だけ、愛しかった頃の感情が蘇った。
でも、それはすぐに冷たい現実で押し潰された。
「…わかった、凛。判断は任せる」
俺は低い声で言った。
凛の体が、びくりと震える。
凛は俺の胸から顔を上げ、ぼんやりとした目で俺を見た。
涙が止まらない。
好が静かに言った。
「凛さん、今日はもう休んで。明日、また話しましょう」
凛はゆっくり頷き、よろよろと立ち上がった。
俺は彼女を支えようとしたが、手が止まった。
凛はトイレに向かった。
ドアが閉まる音がした。
しばらくして、中から吐く音が聞こえた。
激しい、苦しそうな音。
つわり…だろうか。
俺は耳を塞いだ。
でも、聞こえてくる。
凛の弱々しい声。
その呟きが、静かな夜に響いた。
俺は目を閉じ、ただ耐えた。
もう、何も言えなかった。
◇
翌朝、会社に行っても頭はぼんやりしていた。
コールセンターのフロアはいつも通り賑やかだった。
俺はデスクに座り、パソコンを起動させたが、仕事が手につかない。
好が隣の席から声をかけてきた。
「亮さん……大丈夫ですか?」
彼女の声は小さく、周りに聞こえないようにしていた。
俺は曖昧に頷いた。
「あぁ…大丈夫」
好は眉を寄せ、静かに言った。
「そうですか……。今日、凛さんに何か持って帰りましょうか?妊娠中は栄養が必要ですから」
俺は答えられなかった。
午前中のミーティング中も、凛の泣き顔が頭から離れなかった。
昼休み、弁当を食べようとしたが、箸が止まる。
凛が昨夜作った残りの生姜焼きだった。
味は変わらず美味しかったが、胸が苦しくてほとんど喉を通らなかった。
午後、好が俺のデスクにコーヒーを置いてくれた。
「亮さん、ちょっと休憩しましょう」
俺は好と社内の休憩スペースに移動した。
彼女は俺の隣に座り、優しく手を握ってきた。
「あの状況で頑張り続けるなんて、やっぱり普通じゃないですから。それでも凛さんが一緒にいたいなら私は続けるべきだと思います。辞めることはいつでもできますから」
俺はコーヒーカップを握りしめたまま、ぼんやりと窓の外を見た。
外は灰色の空。
「俺……本当に正しかったのかな。好と一緒に暮らすって決めた時、こうなることは何となくわかっていた」
好は静かに微笑んだ。
「亮さんが幸せになるために、私はここにいます。これからもいますから」
その言葉が、重く胸に刺さった。
夕方、帰宅すると家は静かだった。
凛は寝室で横になっていた。
好がキッチンで夕食の準備をしていた。
「亮さん、おかえりなさい。今日は私が作りますね。凛さん、つわりで動けないみたいなので」
俺は頷き、寝室を覗いた。
凛は目を閉じ、腹をさすっていた。
顔色が悪く、唇が乾いている。
俺はドアを閉め、リビングに戻った。
好が俺の背中に寄りかかってきた。
「亮さん……今日は、私の番です」
俺は答えなかった。
ただ、静かに目を閉じた。
「…ごめん。今日は無理」
この生活は、まだ始まったばかりだ。
でも、すでに壊れ始めていた。




