凛との夜
ルームシェア二日目の朝は、意外と静かだった。
キッチンから、フライパンの音が聞こえてきた。
俺がリビングのソファで目をこすっていると、凛がエプロン姿で立っていた。
カウンターに並ぶのは、唐揚げと卵焼き、野菜の煮物。
「亮……おはよう。…弁当、作ったよ。」
凛の声は少し上擦っていた。
目元に薄いクマができているが、髪をきちんとまとめ、珍しく気合が入っていた。
俺はテーブルに座り、箸を手に取った。
「…おはよ」
唐揚げは熱々で、鶏もも肉のジューシーな食感が口に広がった。
懐かしい味だった。
「…うまいな。やっぱり」
一言言ってから、後悔した。
凛の肩が、わずかに緩んだ。
彼女は小さく息を吐き、俺の横に座った。
「最近、作らなくてごめん。これからは……ちゃんとやるから」
その言葉に、俺の胸が疼いた。
凛はまだ、諦めていない。
この異常な生活の中で、必死に「妻」を演じようとしている。
すると、好がキッチンの隅で、静かにコーヒーを淹れているのが見えた。
彼女は微笑みながら、凛に言った。
「凛さん、料理上手ですね。ぜひ今度教えてください」
凛は好をちらりと見て、曖昧に頷いた。
唐揚げを噛むたび、過去の記憶がフラッシュバックした。
よく週末、二人でスーパーに行き、食材を選んで、仲良く作ってた事があった。
「亮の好みは全部覚えてるよ」と、凛はいつも言った。
あの笑顔が、今の凛の横顔と重なる。
でも、今は違う。
妊娠の影と、不倫の傷が、すべてを変えてしまった。
もしあんな事がなければ…幸せだったのかもしれない。
何も…知らなければ。
職場へ向かう電車の中で、俺は弁当箱を握りしめていた。
凛の「ちゃんとやるから」という言葉が、耳に残る。
後悔が、じわじわと胸を蝕む。
許せないはずなのに、なぜか哀れで、愛おしくて、けど少し苛立つ。
そんな矛盾をずっと抱えていた。
◇
夜、帰宅すると、家の中は静かだった。
今日は凛の番の日。
好はリビングで本を読んでいた。
凛の姿はないので、すでに寝室で待っているはずだ。
「亮さん、おかえりなさい。夕食、温めますか?」
好の声はいつも通り穏やかだった。
俺はこれから…凛と寝るというのに特に何の感情もそこから見えなかった。
「いや、いい。自分でやるわ」
そうして、ご飯を食べて、シャワーを浴びて、歯を磨いて、そして…寝室へ向かった。
ドアを開けると、真っ暗な部屋で凛がベッドの端に座っていた。
白いネグリジェ姿で、髪を下ろしている。
その横に座ると、懐かしい匂いがした。
すると、凛の方からキスをしてきた。
いつぶりだろうか、こんなのは。
彼女は俺の胸に顔を寄せ、囁いた。
「エッチなことも……頑張るから。もう、受け身じゃないから。私、変わるから……」
その言葉に、俺の体が固まった。
凛は俺の寝巻きのボタンを外し、もう一度唇を重ねてきた。
確かに積極的だった。
高校の頃の出会った頃の必死な感じ。
彼女の手が俺の背中を這い、ベッドに押し倒そうとする。
でも、俺のあれが反応しなかった。
凛の肌は温かく、柔らかかったのに、心が追いつかない。
凛の目が、わずかに潤む。
「亮……どうして…私…頑張ってるのに…」と、暗い中でも涙を流しているのがわかった。
「そんなの…俺も分からない」
言葉が詰まる。
凛の体が、俺の上で震え始めた。
不倫の罪悪感と、妊娠のプレッシャーと、この異常な生活の中で、必死に「妻」を取り戻そうとしている。
それが、俺の胸を抉った。
体は熱くならず、ただ冷たい罪悪感だけが広がる。
そう、こんな気持ちでは昂るわけもなかった。
「ごめん、凛。今日は……疲れてるだけだから」
俺はそう言って、体を離した。
凛はそのまま泣きながら、シーツを握りしめた。
必死に声を出さずに、肩を震わせる。
俺は寝室を出て、リビングへ行った。
好は本を閉じ、静かに俺を見上げた。
彼女は何も言わなかったが、何かを察していたようだ。
「大丈夫です。時間はありますから」
好の呟きが、部屋に響いた。
俺はソファに座り、頭を抱えた。
やっぱり、もう無理なんだ。
もう俺たちにやり直しなんて…無理なんだ。
俺はそっと目を閉じた。




