新しい生活
「落ち着いて聞いてください。先輩はあの日風呂に入った後、出てこなかったんです。警察にも来てもらって探したんですけど、結局見付かりませんでした」
「そんな…」
自分が行方不明になっていた…? だって私、今その風呂から出て来たばかりなのに…。信じられない話なのだが、四方木の肉体的な変化は、実際にそれだけの時間の経過があったという事実を久谷に突き付けた。
「それじゃ、ここは…」
「ここは先輩の部屋だったところです。俺が借りない場合には部屋を空けて、他の人に貸すと言う話で。先輩が戻った時に何もないと困るだろうから、俺に住んで欲しいと管理人さんから言われたんです」
なるほどと久谷はやっと納得が出来た。そうか、それで私の部屋の様子が変わっていたわけだ。2年間も四方木が住んでいたというなら、変化があるのは当然の事だ。
「そうなんだ…」
久谷はぼそりと呟くと、目の前に置かれているコーヒーカップを口元に運んだ。
「もう少し詳しく説明してくれる? 仕事とかどうなってるの?」
「僕の方は1年ほど前に退職しました。今はスポーツジムでインストラクターの仕事をしています。先輩は体調不良で退職したことになっています。あまりに急だったんで色々噂は出ましたけどね」
そう言う四方木は、なんとも言えない微妙な表情をしている。きっとすんなりは行かなかったのだろう。
昨日まで元気に働いていた女性社員が突然挨拶も無しに出社しなくなる。何も言われないほうがむしろ不自然だ。四方木の退職も私の失踪が関係しているのかもしれない。
そしてその後、1人で私の家を守り続けてくれていたんだ…。
久谷の心にチクリと痛いものが刺さった。
「ごめんね…」
ポロリと久谷の目から大粒の涙が零れ、コーヒーカップの中に落ちた。
久谷は慌てて掌で涙を拭い上げ、くしゃくしゃになった笑顔を四方木に向ける。
「ごめんね、私先輩だったのに、私のせいで嫌な思いさせちゃって…」
「先輩は何も悪くないですよ。俺は今の仕事に変わって良かったって思ってますし。元々体育系だったんで身体動かす方が性に合ってるんですよ」
「そうだね、今の四方木のほうが恰好いいよ。成長したね」
「成長したんですかね」
「四方木君、今幾つなの?」
「25ですね」
「ハハハ、お風呂に入っている間に抜かれちゃったんだ」
「そうみたいですね」
少し笑うと緊張が溶けてきたような気がする。
「先輩、お腹空いてますよね。僕も夕飯まだなんです。外に食べに行きましょう。奢りますよ」
四方木がパンっと膝を叩いて立ち上がった。
「そうね、お腹すいたわ」
実際の時間経過はともかく、久谷にしてみれば仕事から帰ってお風呂に入った後何も食べていないことになる。
四方木は寝室のクローゼットの中から、『春秋用』というラベルが貼られた段ボールを取り出した。
「ところでこの『封』っていうのは一体何なの?」
脱衣場に持ってきてもらった段ボールもそうだったが、この箱にも『封』と書かれた不思議なテープが張り付けてあった。
「ああ、それですか。服は妹に頼んで箱詰めしてもらったんです。そうしたら俺が勝手に開けないようにって上から貼ってったんですよ」
「四方木君、妹居たんだ…」
これで一枚ずつ下着を畳む四方木の姿を思い描かずに済むと、久谷は心の中でホッと胸を撫で下ろした。
久谷は臙脂色の薄手のコットンセーターとジーンズに着替え、ベッドの横に置かれているドレッサーのカバーを静かに取り外した。化粧道具は何事も無かったかのようにそこに在った。
薄めの化粧を施し、口紅を引く。お気に入りの白い百合の飾りが付いた髪留めで髪を纏めて久谷は寝室のドアを開けた。
「お待たせ」
四方木が振り返ると、そこには自分が知らない久谷が佇んでいた。
四方木の知っている久谷先輩はいつもビジネススーツ。仕事が出来る颯爽としたビジネスウーマンのイメージだった。しかし今目の前に立っている久谷は先輩ではないとても可憐な女性になっていた。
「どうしたの、変な顔して。あ、いつもと違って驚いたんだ」
「いや、変わるものなんですね」
ちょっと照れて誉め言葉が出てこない。
「何よ失礼ね。普段はこういう恰好なのよ」
四方木の反応を勘違いして、プクっと膨れた久谷の表情に四方木は混乱した。記憶では仕事上の先輩だった彼女が、今は掴んだら折れてしまいそうな華奢なイメージの年下の女性になっていた。
「それでどこに行くの?」
「ああ、そうですね…。和食、イタリアン、焼き肉…、何がいいですか?」
四方木は心の動揺に気付かれないよう、慌てて荷物の確認をする。
「えーと、焼き肉行きたいけど、今日は重いかな。軽くイタリアンがいい気がする。四方木君は?」
「それでいいですよ、近くに新しい店が出来たんです。久谷さんが風呂に入っている間にですけどね」
2人で向き合って笑い合う。とてもいい瞬間に思えた。
「お酒はどうしますか?」
「そうねワイン位なら…」
普段なら食事時にお酒を飲む習慣の無い久谷だが、今も心の底には鈍い色をした不安を感じている。少しお酒の力に頼りたい気がしたのだ。
レストランは商店街の一角の小さな店で、ほぼ満席になっていた。新しくできた店と聞いていたのだが、暖かい色の照明の中に古く見える木材を多用し、調度品も趣のある物が揃っているので昔からここに存在しているかのような雰囲気を醸し出していた。
談笑する客席の声に混ざる食器の触れ合う音、そして調理場から聞こえてくる雑多な音が妙なハーモニーを奏で、程よいアルコールとお腹がいっぱいになった幸福感が久谷の眠気を誘う。
「久谷さん、大丈夫ですか?」
四方木の呼び掛ける声に反応する久谷の顔は赤く、目はトロンとしていた。
「それじゃ帰りますよ。久谷先輩ってこんなにお酒弱かったんでしたっけ」
「何言っているのよ。弱くなんて無いわよ…」
そう言って立ち上がった久谷の足元は覚束ない。
「先輩、立ってください」
道路に座り込んだ久谷の手を四方木が引くが、久谷は動かない。
「しょうがないですね」
四方木は久谷の手を自分の肩に回させると、久谷を負ぶることにした。ちょっと人目が気になるが、この距離でタクシーと言うわけにもいかない。
おんぶをするなんて中学の時以来だろうか。怪我をした小学生の妹を迎えに行った時以来だ。
久谷先輩の意識が飛んでいるからいいようなものの、どこを触っても柔らかい女性の身体に触れるというのは精神衛生上よろしくない。特に背中に当たる柔らかいものにどうしても意識が行ってしまう。
「久谷先輩、着替えないとだめですよ」
久谷は構わないでと言うかのように四方木を追い払うしぐさをすると、ベッドの上に倒れ込んだ。
ベッドの上で眠りこける久谷を見下ろして四方木はため息をつく。
「そんな無防備に寝てると襲っちゃいますよ」
四方木はそう言いながら久谷の身体を抱き上げ、ベッドの中央に移動させると掛け布団を掛けた。気持ちよさそうに眠る久谷の顔を確認すると、電気を消して静かに寝室のドアを閉じる。
四方木はシャワーを浴びてから寝ようと、バスルームに向かった。服を脱ぎ、ドアを開けると既に湯船にはお湯が満々と張り、微かな甘い香りが漂っていた。
いつスイッチを入れたのだろう、そう思ったが、それ以上は深く考えずにシャワーで軽く体を洗うと湯船に浸かった。
四方木はゆっくりと肩までお湯に浸かると目を閉じ、大きく息を吐いた。明日も忙しくなりそうだ。
久谷はいつものように気持ちよく目覚めた。時計は…、7時を過ぎていた。ヤバい! 急がないと遅刻する。
棚の上の目覚ましを確認しようと目をやるが、目覚ましが見当たらない。
うわっ、服を着たまま寝ている。何があったんだ。
起き上がった途端頭痛が久谷を襲った。頭[ruby=いた]痛[/ruby]ぁ。
そこでやっと思い出した。夕べは四方木に連れられて、イタリアンレストランに行ったのだ。そうだ、もう会社に行く必要は無いんだった。
それにしても帰った記憶が無い。これはマズい。何があったか思い出せないが、四方木に謝らなければならないのは間違いがなさそうだ。
寝室のドアを開け、リビングを覗くが四方木の姿は見えない。
「四方木君」
呼んでみるが返事は無い。
そもそも四方木はどこで寝たのだろう。ベッドを久谷が取ってしまったことは間違いなさそうだった。
久谷はトイレで用を済ますと手を洗って廊下に出た。そこで初めて暖かく湿った空気が漂い、そこにふわりと甘い香りが混ざっていることに気が付く。
その香りを嗅ぐと『昨日』の雨の記憶が一瞬で蘇った。ズキンと、心臓が跳ね上がり、冷たい汗が噴き出す。
「…四方木君、中に居るの?」
久谷が脱衣場のドアをノックするが、中からの返事は無い。
脱衣場のドアをそっと開けると、奥のバスルームに電気が灯いているのがガラス越しに見え、カゴには四方木の着ていた服が無造作に入れられていた。
「四方木君…」
恐る恐るバスルームのドアを開けると、溢れ出す湯気と共に甘い香りが鼻を衝く。誰も入っていないはずの湯がトポンと音を立てて大きく揺れた。




