ここは?
久谷冬萌香はぼんやりと目を開けた。クリーム色のユニットバスの天井に付いている水滴が今にも滴り落ちて来そうだ。
しまった! 久谷が身体を起こした勢いで湯が壁に当たり、ドブンと低い音を立てた。
どのくらい寝ていたんだろう? そう思って洗面器に置いたタオルに手を伸ばすが、タオルが…、無い。
まだ頭がはっきりしていない…。
仕方なく髪の毛を纏めていたタオルをほどき、身体の水滴をぬぐいながら風呂のドアを開けた。洗濯機の上に着替えとバスタオルが…、あれ?
洗濯機の上には何も置かれていなかった。床の上に置いたはずの服を入れたカゴも見当たらない。
まさか、四方木の奴が妙な気を利かして…、と考えたが目の前の景色は不思議な違和感を醸し出していた。何かが違う。
久谷の背中を冷たいものが伝った。
大まかには自分の部屋の脱衣所のはずなのだが、なぜか小物の配置が違う。洗面台のコップも自分のものではない、
棚に置いてあるタオルも自分の記憶と違う気がするが、着替えも見当たらないとなるとここは仕方が無い。久谷は1枚のバスタオルを取り出すと身体に巻き付けた。
そっと脱衣場のドアに手を伸ばすと、ドアは音も無く開いた。…掛けていたはずのカギが掛かっていない。
細目に開けたドアから廊下を覗くと、リビングの方からは聞きなれない音楽が流れてくる。
久谷は確信した。ここは自分の部屋ではない。緊張のあまりバスタオルの胸元をぎゅっと握りしめた。どうして…。
その時廊下の向こうに人影を確認した久谷は、慌てて脱衣場のドアを閉じた。その勢いでドアはバンっと大きな音を立てる。まずい、絶対に気付かれた…。
ドアの内側からノブを力任せに握りしめる久谷の手は、小さく震えていた。
「…先輩、……ですか…」
「……」
四方木は仕事から帰るとPCからVチューブの動画を流し、コーヒーメーカーをセットした。仕事から帰った時のいつもの日常である。
その時、ふと四方木は部屋の中に自分以外の気配を感じた。バスルームの方から何か聞こえたような気がする。…空き巣? まさかな…。
四方木は足音を忍ばせるように移動すると、壁際からバスルームの方を覗き込んだ。
髪の長い女性と目が合う。女性の髪は濡れていて、今しがた風呂から出たばかりだとでもいうようにバスタオルを身体に巻き付けていた。
え? 四方木の思考が止まり、身体が固まった。まさか…。
女性が慌ててドアを閉めたのが目に入る。
四方木の心臓は早鐘を打ちながら飛び上がった。慌ててバスルームに駆け寄ると、風呂の湯の匂いの中に微かな甘い香りが溶け込んだような湿った空気が辺りを漂い、ドアの向こうに先ほどの女性の気配を感じる。
「…先輩、久谷先輩ですか…」
「……」
四方木はドアを軽くたたいた。
「そこに居るのは久谷先輩ですよね。四方木です、いったい今までどこに…」
カチャリと小さな音がして隙間が開くと、怯えた表情の久谷先輩が外を覗いていた。
「俺です。四方木です」
「…本当に四方木君なの?」
目の前で四方木と名乗る男は、久谷が知っている四方木とは別人のようだった。
四方木はビジネスマンに良くある清潔そうに見える髪型、いわゆる中肉中背の好青年だったはず。それなのに今目の前に居るその男は浅黒く日に焼けた顔にスポーツ刈り。黒いTシャツの中の身体は筋肉質で、久谷が記憶している四方木より一回りは大きく見えた。
「…ここはどこなの?」
「安心してください、先輩の家ですよ。今まで一体どこに行ってたんです。とにかく今服を持ってきますから待っていてください」
四方木は久谷を安心させるように微笑むと、慌てた様子で何処かへ向かった。
「痛てっ」
遠くから四方木の声が聞こえ、何かにぶつかった音がする。
「先輩の服はここに入っていますすから」
四方木は段ボール箱を抱えて戻ってくると、脱衣場にそれを置いた。
久谷は何か遠くのものを見ているような目で、その段ボール箱を見下ろす。自分の服がこの段ボールの中?
「それじゃ、着替えたらリビングに来てください」
四方木が脱衣場のドアを閉めるのを、久谷はぼんやりと見送った。
段ボール箱はしっかりテープで留められていたが、そのテープの上に『封』と書かれた別のテープが張られている。
戸惑いながらそのテープを剥がすと、中には丁寧に畳まれた自分の服が入っていた。そして半透明のプラスチックケースの中に、自分の下着が整然と並べられているのを見て、久谷の顔は恥ずかしさで赤くなった。
この際考えることは後にしよう。
久谷はまだ濡れている身体の水分をバスタオルで拭き取り、髪の毛から水が滴らない程度にタオルで乾かす。とりあえず下着を着けて、自分の部屋着に着替えると少し落ち着いた。
鏡の中の自分はいつも通りだが、周りの様子はいつも通りと言うわけではない。
洗濯機や備え付けの棚などはそのままだが、記憶通りなのはそれだけ。洗面台に置いてある自分の化粧道具はどこにも見当たらなかった。
洗面台の横にあるドライヤーを手にすると、久谷はそのスイッチを入れて温風を髪に当てる。
頭では理解しても、感情が追い付いてこない。この部屋に住んでいるのは私ではない…。
それにしてもどうして四方木君がここに居たのだろう?
久谷がちょっと緊張しながらリビングに向かうと、先ほど流れていた音楽は止まっていて、コーヒーの香りが漂っている。
「そこに座ってください」
四方木と名乗っていた男がカップにコーヒーを注ぎながら久谷に座るように促した。
部屋の中央に敷かれた毛足の長い濃い緑色のラグの上に、小さな丸いテーブルが置かれている。四方木はコーヒーの入ったカップをテーブルの上に置くと、壁際に置いてあったクッションを久谷に差し出した。
久谷は言われたままクッションに腰を下ろすと、リビングを確認する。
タンス、冷蔵庫、電子レンジには見覚えがある…。というよりは確かに自分の物だ。カーテンもこの部屋を借りる時に新調したものなので間違いない。
「それで一体何があったんですか?」
向かいに腰を下ろした四方木の言葉の意味が解らず、久谷はじっと四方木の様子を観察した。
「本当に四方木君なの? 私の知っている四方木はもっと華奢な感じがしていたはずなんだけど」
「あれから随分経ちましたからね…」
「あれから…?」
どういうことなのか理解できない。私はさっき風呂に入って出てきたばかりなのだ。その間に何があったというのだ。
「先輩はまさか…」
四方木はちょっと考え込んでから口を開いた。
「先輩、今日は何日ですか?」
「えーっと、11月15日よね」
「いえ、今日は9月11日です」
四方木がテーブルの上にスマホを置置くと、その画面には9月11日という日付が表示されていた。
「9月……」
久谷の言葉はそこで止まり、助けを求めるかのように四方木の顔を見上げた。
「先輩は2年以上行方不明だったんですよ」
「え?、私が…、行方不明?」
その瞬間、久谷は自分の周りの時間が止まったかのような気がした。




