突然の雨に
5話完結の短編小説です
20日(火)零時10分に1話、20分に2話を投稿
その後は水・木・金と3回、零時10分に毎日1話ずつ連続投稿いたします
「うわっ、何で急に降ってくるのよ、四方木君、傘持ってる?」
「いえ、無いですけど」
突然パラパラと音を立てて落ちてきた雨に、久谷冬萌香は炭を流したように重く暗い空を見上げた。横を歩く四方木京一は掌を広げて冷たい雨粒を確認する。
空気の中には埃っぽい匂いの他に、何だろうか? 何か甘い匂いが混ざっている。
ナサラ企画を出たのは5時半を過ぎていた。予定より打合せが長引いたので、会社には久谷から直帰すると連絡しておいた。
その時妙に暗いと思ってはいたが、まさか雨雲のせいだったとは。天気予報を確認していなかったのが悔やまれる。
「噓でしょ…」
雨が地面を叩きつける低い唸りと共に世界が水の中に呑み込まれた。
久谷は慌ててコートの襟を閉じてバッグを頭の上に乗せる。
「…れは…ヤバいで…」
激しい雨音の中から四方木の声が途切れ途切れに聞こえる。
雨の膜を通して振り返ると、四方木はビジネスバッグを頭に当ててはいるが、コートを着ていないので既に哀れな濡れネズミのようだ。
「走るわよ」
10月の冷たい雨は容赦なく襟元を伝い、胸元を冷たい水が流れていく。久谷は既に束になって顔に張り付いた髪を指先で横にどけると走り出した。
「ちょ…と、そっちは方向違い……よ」
「私の家こっちなの、このままじゃ風邪ひいちゃうでしょ」
久谷が走りながら大声で怒鳴ると、口に入り込んだ雨水が微かな甘みを持っているような気がした。
四方木は久谷が言う『私の家』の意味を一瞬理解出来なかったが、走っているうちにその言葉の意味に気が付いた。久谷先輩の家はこの辺だったのか…。
久谷の家は5階建てマンションの3階の一室だった。
「あらまあ、久谷さんずぶ濡れじゃないの…」
「あはは、降られちゃった…」
久谷は廊下ですれ違った年配の女性に笑顔で応え、四方木も軽く会釈をする。
このマンションに住んでいる人なのだろう。彼女の目にはずぶ濡れの2人はどう映ったのだろうか。四方木のことを訝し気に見送る視線が痛かった。
「直ぐ開けるから」
久谷はコートの裾からポタポタと雫を垂らしながら玄関のロックを解除した。足元に水たまりが大きく広がっていく。
「はい、上着はこれに掛けて、バッグはここ」
久谷は玄関の中に四方木を招き入れるとハンガーを手渡した。
そしてコート掛けを玄関の中に移動すると、自分もコートを脱いでそこに掛ける。
上着からもバッグからも水が滴たり、玄関の中はあっという間に水浸しになった。
「はいはい、奥は見ないの。今タオル持ってくるから待ってて」
部屋の中を気にする四方木の様子に、久谷は目の前に掌を差し出して視線を遮る。
久谷は玄関から続く右の部屋から頭にタオルを被って出てくると、四方木に乾いたバスタオルを放り投げた。
「ありがとうございます」
四方木は受け取ったバスタオルで髪の水分を取り顔を拭うが、ワイシャツは冷たく身体に張り付いていて気持ちが悪い。
久谷はタオルで髪の毛の水分をふき取りながら、リビングに移動して暖房のスイッチを入れた。
他人をこの部屋に入れるつもりなど全く無かったので散らかったままだ。とにかく急いで片づけないと…。
久谷は暖房が入ったことを確認すると小走りでバスルームに移動して、湯張りのスイッチを入れた。
「今直ぐに風呂のお湯溜まるから、それまで四方木はシャワー浴びてて。その間に私はちょっと片付けるからゆっくり入ってて」
久谷は戸惑った表情の四方木をバスルームに押し込むと、バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。ドアの取っ手に手を置いたまま大きく息を吐いて心の中で叫ぶ。
「クッソ、片付けだぁ!」
久谷はびしょびしょの服を脱ぐと、足元に落ちているスウェットを拾い上げた。
バスルームの中だとはいえ、ドアのすぐ向こう側に久谷先輩がいる状態で服を脱ぐような事になるとは…。気恥ずかしい気持ちを覚えながら四方木はネクタイを引き抜き、ワイシャツのボタンを外す。シャツが身体に張り付いていて脱ぎにくい。
どこに置けばいいんだ…
「洗濯機の前にかごが置いてあるでしょ、脱いだ服はそこに置いておいて。着替えは後で持って行くから」
外から久谷先輩が声を掛けてくる。四方木の様子を確認しているかのようなタイミングだ。
…見られてる? 訳ないよな…
脱いだパンツからも水滴が滴っている。洗い場で軽く絞ってからかごに入れ、ズボンを上に置いて一応隠す。
髪を洗って全身に熱いシャワーを浴び、ホッと一息ついたところでふと疑問が頭を過る。久谷先輩の家と言って付いてきたのだが1人暮らし?
先ほどチラリと覗いた感じでは、それほど広そうに見えなかった。おそらくここは1人暮らし用のマンションだ。そうなるとこれはマズいのではないだろうか? 既にすれ違った小母さんにも2人が部屋に入るところを見られている。
カチャリと脱衣場のドアが開く音がした。
「着替え、洗濯機の上に置いとくから使って」
「あ、ありがとうございます。すぐに上がります」
悩んでいる場合ではない。久谷先輩も冷え切っている筈だ、早く上がらなくては…
四方木は湯船から出ると、タオルを絞り、身体の水分を急いで拭き取って風呂場のドアを開けた。洗濯機の上にグレーのスウェットとバスタオルが置いてあった。
スウェットを確認するとサイズは男性用? 先輩が着るには大きすぎるような気がする。その下にエスニック柄のトランクスまで用意してある。久谷先輩の物ではないだろうから、やはりこれは彼氏の物と考えるべきなのだろうか…。
1人暮らしではなく、2人で住んでいる家なのかもしれない。
いいのだろうか…
ちょっとためらいがちにそれらを身に着け、脱衣場のドアを開けると既に部屋のなかはエアコンで温まっていた。
「着替えは…」
聞かないほうが良かったのかもしれないが、四方木は久谷先輩をの姿を見ると思わずその言葉を口にしてしまった。
「ああ、気にしないで。それ兄が置いて言ったやつだから…」
なるほどと、四方木はホッとする。
「お腹すいてるでしょ、そこのテーブルにカップラーメン置いてあるから好きなの選んで食べて」
白いリビングテーブルの上には何種類かのカップラーメンが置いてあり、隣には電気ポットが用意してあった。
「うー寒ぶ! 私もシャワー浴びてくるから。…覗いたら殺すからね!」
「覗きませんって!」
久谷は四方木に意味深な笑顔を向けると、パタパタとスリッパの音を立ててバスルームに向かった。
脱衣場のドアのロックを掛け、鏡の中のスウェットを脱ぐ自分の姿を見ながら久谷は自問する。
仕方が無かったとはいえ、四方木を家に連れて来て良かったのだろうか…。
四方木の事は入社した時から面倒を見てきて、人柄もよく解ってはいる。素直な良い子で、仕事も出来る。しかしプライベートの四方木のことは一切知らない。
パンと頬を叩くとブラのホックを外す。今更何を心配しているんだ。会社に居る時のように毅然とした態度でいれば何も問題は無い。一休みしたら傘を持たせて追い出せばいいだけじゃないか。
久谷がバスルームのドアを開けると、立ち込める暖かい湯気が久谷の身体を包む。外で雨に濡れた時と同じ甘い匂いがフッと香り、湯船の湯は静かに揺れていた。




