六週目
目覚め。
ひかりは自宅のトイレに引きこもり、スマホを握り締め震えていた。
手の中で《セミッション:晴樹に「おはよう」と言う》が表示されている。
「もういや…………死にたくない……こんなのいつまで続くの……」
言葉はかすれ、胸の奥で脈が暴れた。視界の端に、過去の死がコマ送りに蘇る――嗚咽の中で呼吸を失っていく感覚、炎に包まれ溶けた皮膚、ゴミ収集車によってねじ曲げられた脚。
「痛いのは嫌……骨が砕ける音も、肺が潰れる感じも……もうやめて……」
ひかりはソファの縁を握り、指が白くなるまで力を込めた。
「なんで終わらないの……? 誰か、助けてよ……」
《セミッション:晴樹に「おはよう」と言う》
「“おはよう”を言えって? もう何なんの!!私が何をしたっていうのよ!! 」
その呟きを聞いたかのように、蝉仙人がトレイの小窓の隙間から覗き込んできた。
「おいおい、ミッション一個もクリアしねぇまま五周ぶっ潰れるってやってくれてんなぁ。……おまえ、本当に“死にたくない”のか?お前がやっていることは“死にたい奴”のムーブだぜ」
ひかりは喉を震わせた。
「……っ、死にたくない!もう死ぬのは嫌!」
蝉仙人は鼻で笑い、ネックレスを指ではじく。
「なら教えてやる。もともとはな、毎週のミッションを全部こなせばそこでゲームクリア、ループ終了だったんだ。シンプルだろ? だが―――」
翅を一度だけ強く鳴らし、肩をすくめる。
「お前があまりにもサボり倒すからよ。ちょっと荒療治が必要になっちゃってな」
「…………」
「喜べ、ひかり。新ルールだ」
「新ルール?」
「そうだ、お前がどうしようもないクズだから、最終兵器“ポイント制”を導入しま~す!」
「……ポイント制……?」
「そうだ、セミッションクリアで加点。クズ行為で減点。合計の点数が777点になればループ解除。死のループは終わりってわけ。逆に、お前がセミッションに真剣に向き合わなければその週は今まで通り、即・地獄モード。簡単だろ?」
「クズ行為ってなんだよ?」
「おいおい、お前この分野の先生じゃねーか。愛情の放棄、酒、薬、ホスト狂い、自傷行為、嘘、ほかにも色々――やるたび減点だ。わかったか?」
ひかりは青ざめた顔で首を振る。
「そ、そんなの無理……」
「オッケー!オッケー!じゃあ、死ね!好きなだけ死に続けろ!俺もその方が楽でいいや!」
「……」
「あのなぁ、ひかり。お前はこのループに入る前からもうとっくに死んでんだよ。死人が”死にたくない”って言うなら、それなりの覚悟はしてもらわねぇといけねぇんだわぁ」
スマホが震える。
《セミッション:今すぐ晴樹に「おはよう」を言う +10pt》が表示される。
ひかりは画面を睨み、「たった10点……」と呟いた。
「おいおいおい~、貴重な10点だろうが。人生はチリツモだ。信頼も愛情も質より量。どれだけ相手に尽くし、それを続けてきたか。ただそれだけだ。宝くじみたいな一発逆転なんてないんだわ」
ひかりはスマホに目を落としたまま黙っている。
「…………どうだ、やる気出てきたろ?わかったなら、とっとと始めようぜ。へっへっへっ」
翅を震わせて蝉仙人は嗤う。
「さぁ選べよ、夜遊びプリンセス。地獄を味わい続けるかどうかはお前次第だ」
蝉の鳴き声が、真昼のアパートに乱反射した。
――ジィ……ジィィ……ジィィ……
スマホの《現在:0 pt》が冷たい白光を放っている。
ひかりは廊下で立ち尽くし、寝室でブロック遊びに没頭する晴樹の背中を凝視した。
「“おはよう”さえ言えば減点なしなのに……」
唇が震え、足は床に縫い留められたようだ。数え切れない死の記憶が胸を圧迫する。だが――
「言わなくてもいい。減った分はあとで稼げば――」
溜息とともに玄関のドアをそっと開けた。瞬間、振動が掌をくすぐる。
《セミッション失敗:−10pt|現在:−10pt》
一日目/夜/通勤電車
窓に映る自分の顔は、怯えた子どものように強張っていた。恐怖を薄めるようにハイボール缶を持ち上げ、プルタブを引く――乾いた金属音が「チン」と弾け、甘いアルコールの香りが車内にじわりと滲む。正面の中年サラリーマンが眉間に皺を寄せ、視線を向けてきた。
「お姉さん、もう出来上がってるんじゃない?」
「ふん、こんなの水だよ」
吐き捨てるように言い、ぎこちない苦笑いを浮かべた刹那、ポケットのスマホが震えた。
《アルコール依存 :−50pt|現在:−60pt》
「依存? こっちは自力で立ってるっての」
画面を睨みつけ、残りの酒を一気に流し込む。
二日目/19:07/同伴、銀座の寿司店
指名客のタク兄が大トロを皿に置き、「姫、景気づけに」と日本酒の入った徳利を差し出す。
「見てて」
徳利の口を咥え込み、そのまま上を向くと、彼女は数秒で空にした。
「ほら、瞬殺」
《過剰飲酒 −20 pt|現在:−80pt》
二日目/23:53/店のバックヤード
客を見送った後、残ったボトルをラッパ飲みするひかりを店長が制止する。
「もういいだろ、限度超えて飲んでも体壊すだけだ」
「限度があるのは客のカード枠だけ」
淡々と答え、空ボトルを棚に転がす。
《勤務規律違反:−10pt|現在:−90pt》
三日目/翌3:02/トイレ
胃液と酒が混じったものを便器に吐き出すたび、耳元でスマホが悲しく震えた。
《自己管理放棄:−15pt|現在:−105pt》
「ポイントより胃のマイナスをどうにかしてよ……」
三日目/翌4:34
口座残高はゼロ。拓海に〈1万でいい、すぐ返す〉とLINEするも既読のまま返事は来ない。
「ケチ。愛どころか金も貸してくれないなんて」
《他人への金銭依存:−20pt|現在:−125pt》
四日目/14:40
テーブルに家賃の督促状が置かれていた。京子が腕を組み、無言で視線を送ってくる。
「今月は無理って言ったでしょ!」
怒鳴り返した瞬間、晴樹の貯金箱が目に入る。ハンマーで叩き割ると、床に転がった五百円玉が鈍く光った。
「投資だよ。ママファンド」
晴樹は驚きで声も出せずに立ち尽くす。
《子どもの金銭横領:−20pt|現在:−145pt》
五日目/17:56
玄関を開けると、晴樹が高熱で布団に沈み、京子が氷枕を取り替えていた。
「39度もあるの。病院へ……」
「知るかよ。私だって熱あるし」
イヤホンを差し込み、音量を最大に上げる。
背後で晴樹の弱々しい「ママ……」がかき消えた。
《母親責任放棄 :−30pt|現在:−175pt》
六日目/翌1:26/拓海のセカンドマンション
室内を彩るLEDが虹色の輪を描き、カウンターにはテキーラショットがずらり。
テーブルの片隅には粉で汚れたクレジットカードと「利息一日7%」と殴り書きされたメモ――拓海は震える手でひかりに手の平を差し出す。
「ブースターもあるぜ、ひかり。飲めば宇宙よ」
「もうどうなったっていいわ」
虚ろな笑みとともに差し出された錠剤。ひかりはもう数を数えられなくなった手でそれを受け取り、舌に転がす。追いかけるように濁った琥珀色の液体を一気に流し込むと、胃の奥で火がはぜた。
瞬時に心臓が早鐘を打ち、耳の鼓膜が内側から膨らむ。次の瞬間には鼓動が奈落へ落ち、膝から力が抜けた。手足の感覚はゴムのように遠のき、冷たい汗が背骨を這う。喉は砂を飲んだように渇き、舌の裏に酸っぱい唾液が滲んだ。
視界が万華鏡のようにねじれ、LEDの色が音になって押し寄せる。ひかりは壁に後頭部を打ったが痛みの位置さえ掴めず、せり上がる吐き気と笑いが同時にこみ上げた。
「ほら、宇宙だろ?」
拓海の声が遠近を狂わせながらこだまする。
《違法薬物接種:−100pt|現在:−275pt》
「ほらね、ポイントなんて――」
ひかりは自分の手の平が開いたまま握れなくなっていることに気づき、言葉の続きは闇に溶けた。
最終日/19:21/雨の歌舞伎町
ひかりは傘も差さずにネオンの滲む路地をふらつき、口の端から薬とアルコールが混ざった唾液を垂らした。胸ポケットのスマホが震える。
《現在:−275pt|地獄モード:確定》
「は……? 確定? ……なにが……」
頭上では骨組みだけの高層ビルが、クレーンの作業灯に白骨のように浮かび上がっている。夜勤の工事現場から甲高い金属音が響き、巨大な鉄梁が鎖に吊られてゆっくり旋回していた。
そのとき、クレーンオペレーターの怒号が雨風にまぎれて飛ぶ。チェーンが一本、乾いた破裂音を立てて外れた。鋼材がバランスを崩し、空中で不穏な弧を描く――。
足元の水たまりが赤色灯を映して震えた。警報より速く、数トンの鉄骨が鎖を引きちぎって一直線に落下する。
ドオオオオオオオンッ!!!!
轟音とともに地面が跳ね、鋼材の角がひかりの左肩をえぐった。骨が砕ける鈍い感触が全身に閃き、ひかりは咄嗟に倒れ込んだ鉄骨へ右腕を絡ませるようにして上半身をかろうじて避けた。胸郭は圧迫され、呼吸が細い笛のように擦れるが、まだ意識は途切れていない。
肺がつぶれかけた痛みの中、耳鳴りが雨音に混ざる。スマホはぬかるみに転がり、その画面を蝉仙人が拾い上げた。
「マイナス275?おめでとさん。ほんっとうにお前、どうしようもねぇな」
《セミッション失敗》の赤文字が雨粒の下で瞬く。
ひかりは鉄骨にもたれたまま、血の味を噛みしめるように唇を舐めた。
「ポイント制を甘く見てたんだろ?どうせ何とかなるって思ったんだろ?だけどな――なんともならねぇよ。お前はこのまま永遠に死に続けるしかない」
「……助け……て……」
声は掠れたが、確かに言葉になった。まだ会話できる―それが彼女自身にも小さな驚きだった。
蝉仙人は肩をすくめ、にやりと笑う。
「助けねぇよ。助けられるのはお前自身だけ。誰もお前なんか救わない」
雨は血と混じって排水溝へ筋を描く。鋼材の下でひかりは歯を食いしばり、震える指をわずかに動かした。
「ひかり~、お前の息子はどれだけお前の愛を欲しがってるかわからねぇのか?」
「……私だって…………どうしたらいいか……もうわからない……」
「わからない?上等だぁ。じゃあ教えてやる。お前が他人に愛をねだる限り、一生欲しいものは手に入らねぇ。愛は与えてなんぼ――いい加減気付けよ!!」
蝉仙人は鼻息荒く続ける。
「お前の入れ込んでる拓海って糞ホストは何をしてくれたよ!!ああ??結果、お前はこうして野垂れ死んでんじゃねぇか!それが答えだろうがボケカス!」
「……もう……死にたくない……」
「ああ?それ、何回言ってんだ?前も聞いたわ。本気じゃねぇ奴の戯言なんざに付き合っているほど暇じゃねぇんだわ」
「……やる……ミッション……次は……」
蝉仙人は濡れた羽をぶるりと震わせ、スマホを高く掲げた。
「ほう?口じゃ何とでも言えるんだわ。いいかげん覚悟を見せろ!目を覚ませ!この先も息子と生きたいなら、残された道は“お前がやるしか”ない!!」
蝉仙人の語気は珍しく強かった。しかし、すぐに冷静になり話を続ける。
「だがなぁ――もうこれ以上お前の甘えに付き合ってるわけにはいかねぇんだ。俺だって次の仕事があるからな。お前が次のターンでセミッションに向き合わず、糞みたいな真似を続けるっていうならそのまま本当に死んでもらう。まぁ、俺にとっちゃあどうでもいいことだからな。というわけで、次が最後。ループは終わりだ」
「…………もう……やり直せないの?」
「当たり前だ!このドアホ!いつまでも甘えられると思うなよ。――さっ、くだらない話はこれくらいにしてクールダウンと行こうか」
言葉は雨と共に胸へ突き刺さる。ひかりは鉄骨に押し潰された左肩をずるりと引きずり、右手だけで体を起こそうとした。肺は焼けるように痛み、視界の端が暗い渦を巻く。
(もう嫌だ。死ぬのが怖い。けれど、生き続けるのも怖い)
(私なんかが愛を与えられる?いや、与えなければ何も変わらない)
葛藤は赤黒い水たまりのように足元で揺れる。踏み出せば沈みそうだ。だが、踏み出さなければ――また同じ地獄が巡るだけ。そして、そのチャンスは次が最後。
「……やる。……次こそ……」
小さく零した決意は、雨音と蝉仙人の小便に紛れて自分にしか聞こえなかった。けれどその瞬間、砕けた肋骨の奥で、まだ消えきらない心拍がひとつ強く打った。
――ジィ……ジィィ……ジィィ……




