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二週目

一日目/13:29


化学薬品の匂いも、サイレンの残響もない。ひかりは自宅のソファで跳ね起きた瞬間、息をのみ、胸元に手を当てた。


「……っ、痛くない?」


昨夜――銀色のボンネット、折れ曲がる肋骨の鈍痛、鉄とガソリンの臭い、血泡で塞がる喉、視界を切り裂く救急灯――その生々しい感覚が脳裏を稲妻のように走る。


ひかりは恐る恐る胸を押し、肋骨の上を指でなぞる。折れるどころか、擦り傷ひとつない。腕を回し、足を動かす。痺れも骨の軋みも感じない。ソファの革が体温でべたつく感触すら鮮明だ。


「うそ……昨日、車に――」


手の平を凝視する。血の跡もガラス片もついていない。頬を爪でつねると、確かな痛みが走った。


テレビの通販番組がやかましく鍋の宣伝をしている。最新家電の“母子で安心・自動調理鍋”。鍋の中身がぶちまけられ、悲鳴と慌ただしいスタッフの様子。


(前に見たやつじゃん……何なのこれ……)


窓の外からは、事故の現場で聞いたのと同じ、耳を切るような蝉の鳴き声。



生きている――それは間違いない。


けれど、どうして? ひかりの鼓動が早鐘を打った。


ポケットのスマホが震えた。非通知。


メッセージは一行だけ。



《セミッション:晴樹に「おはよう」を言う》



「は?セミッション?」


動悸を抑えようと深呼吸するが、昨夜の激突感覚は確かに体に残っている。夢じゃない――けれど傷ひとつない。


背後で晴樹が「ママ?」と顔をのぞかせたが、ひかりは手を振り払う。


「タブレット見てろよ!」


結局、その週もミッションを一瞥しただけで店と酒とホストをはしごし、晴樹とは一言も交わさないまま日々を溶かした。スマホには非通知の警告が雪崩れ込み続けたが、全て黙殺した。



七日目/最終日の夜/『Club Amethyst』更衣室


ひかりは手首の火傷をファンデで隠しながら愚痴を垂れた。


「ほんとクソみたいな客ばっか。ミッションだか知らないけど、朝からガキに“おはよう”言うくらいならボトル抜くほうが金になるし」


客のシャンパン、同伴の焼肉、日本酒の利き酒――胃に流し込むほど記憶が薄れ、スマホの通知音だけが遠くで鳴る。《セミッション》は無視したまま、未読が増え続けた。


日付が変わるころ、ひかりは店の非常階段前のドアの床に座り、ストロング缶を1本空け、さらに眠剤を一握りのみ込んだ。


「蝉だか何だか知らないけど、どうせなんも起こらない……私はこのまま落ちてくだけ……」


ふらつく体で非常階段のドアを押し開き、夜風を吸う。鉄製の踊り場から見える街灯がまるで星のようだ。


「私の人生なんて……落ちても誰も拾わない……」


錆びた手すりに片手をかけた途端、鉄とコンクリを留めていた溶接が“ベキッ”と裂けた。頼りにした支点が外れ、手すりがガタンと大きく外側へ傾く。


「えっ!?」


ひかりは、ぐらつく手すりを本能で掴み直した――が、その瞬間、鉄管は「ゴリリッ」と嫌な断裂音を立てて根元からもぎ取られた。赤茶けた錆が粉雪のように舞い、支えを失った彼女の体は、重力に引きちぎられるように踊り場から空へ放り出される


「いやっ!!」


冷えた夜風が刃物のように頬を切り裂き、視界が急激に縦へ伸びる。頭の中で秒針が爆発的に早回しになり、眼下のコンクリートがむき出しの牙を向けて迫ってきた。


――ガンッ!!!!


脳の奥で果実が潰れるような湿った破裂音が弾けた。衝撃で鼓膜が収縮し、世界はくぐもった圧縮音だけを残して遠ざかる。血の膜が視界をじわじわ染め上げ、街灯の灯が赤い水中花のように滲みながらぼやけていく。


全身の骨が一瞬で氷のように固まり、次の瞬間には粉々に砕けたかのような痛覚が津波のように押し寄せる。耳鳴りだけが命綱のように細く長く続き、やがてそれさえも闇へ溶けた――。



転落音をかき消すように、翅音が降ってきた。


「おお、ずいぶん派手に落ちるもんだなぁ。お前の人生と一緒でとことんまで落ちるってか?」


蝉仙人が非常灯の下に立ち、ひかりのぐったりした腕をつま先でつつく。


「頭が空っぽのお前でもお気づきの通り、お前は今、1週間をループしている。死んで、戻って、また死んで、また戻ってってな。…………そういやぁ、通知来てたろ?セミッションってメッセージ。あ、ちなみにミッションじゃなくて、セミッションだかんな。ハイセンスだろぉ?」


ひかりは口を開くが、喉に血が逆流し、赤い泡が漏れるだけ。


「残念だなぁ、お前がセミッションをシカトするからこんなことになるんだわ。ってか、おい、聞いてるか?」


「…………」


「鳴き声どころかイビキもかけねぇ。死ぬのは良いんだが、アドバイスをくれてやっているんだから反応くらいしてくんねぇと」


蝉仙人は股間をまさぐり、面倒臭そうにため息をついた。


ひかりは目を開ける力もなくなり、視界が暗くなっていく。


「ダメだこりゃあ。二週目、終~了~。ってことで、クールダウンしよっか。次こそちゃんと鳴くんだぜ」


視界の端で、スマホが光った。


《セミッション失敗》の赤文字が滲む。




――ジィ……ジィィ……ジィィ……


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