一週目
一日目/13:03
開け放した窓から蝉の声が染み込み、ひかりはソファの上で目を覚ました――が、午前中はすでに溶けていた。
胸元には昨夜の尿とシャンパンが乾いた黄ばみ。夢に出てきた“蝉仙人”の小便が現実だった証拠だが、ひかりは鼻先をしかめるだけで立ち上がる。
テレビの通販番組が、最新家電の“母子で安心・自動調理鍋”を軽快に宣伝している。ちょうどその瞬間、画面がザザッと乱れ、実演中の鍋がテーブルから滑り落ちて中身がぶちまけられる映像が一瞬映った。司会者の悲鳴とスタッフの慌ただしい動きがノイズ交じりに流れ、すぐ番組ロゴの静止画に切り替わったが、ひかりはリモコンを取る気力もなくぼんやり眺めていた。
ベランダに出ると、物干し竿には色褪せたTシャツや小学校の体操服が雨ざらしのまま揺れている。生乾き臭が鼻を刺す。
キッチンでは京子がインスタント味噌汁の湯を注いでいた。晴樹はテーブルに突っ伏し、昨夜のままのタブレットがループ動画を光らせている。
「……そんな目で見ないでくれる?」
ひかりが吐き捨てると、京子は黙って味噌汁を2つの茶碗に分けた。ひとつは晴樹の前、もうひとつは自分の前。娘の分はない。
そこからの1週間は、まるで汚水が溢れる排水溝のように、詰まり、腐った日々そのものだった。
――初日の夜。
ひかりは常連客のVIPテーブルを三度回り、閉店後の朝4時にふらつきながら帰宅した。
二日目は昼にATMでリボ枠を3万円増やし、夜には店のシャンパンタワーを手伝って客のグラスを空け続けた。
三日目の夕方。晴樹が熱を出したが、京子にタクシーで病院へ連れて行かせ、自分は平然と同伴出勤し、その後のアフターでは客とホテルへ流れ込み、アルコールをかき混ぜるかのように激しく体を突かれ続けた。
四日目の深夜。酔った客ともみ合いになり、手首に火傷を負ったひかりは、夜明け前に包帯の焦げ臭さを引きずったまま帰宅し、玄関で「ママ、大丈夫?」と声をかける晴樹を素通りして寝室へ倒れ込んだ。
五日目の朝。ドアに家賃滞納の警告が貼られ、固定電話が管理会社の最後通告をけたたましく鳴らし続けた。
六日目の夜。電気代を払えずブレーカーが落ち、暗闘の中で晴樹が泣き出すのを京子が懐中電灯でなだめていた。
まるでカレンダーを汚点で塗りつぶすように、七日間が過ぎた。
一週目/最終日/深夜
路地裏はむっとする湿気と腐った生ゴミの臭いで満ち、歩くたび靴底がぬらついた。ひかりは額を押さえながら舌打ちする。
「クソ、電気も止まるし家賃も払えって……あいつら鬼かよ」
財布の中には小銭が数枚。請求書の束が脳裏をちらつき、胃が逆流するように痛む。背後から呼び込みの男が腕をつかんだ。
「姉ちゃん、もう一軒どう?」
「触るなっての!どうせ“飲み放題三千円”とか言ってボトルで抜くんでしょ。こっちは稼ぐ側なんだよ」
乱暴に振り払おうと身をひねった瞬間、ヒールのかかとがパキンと折れた。
ひかりは「マジかよ!買ってもらったばっかなのに!」と呻き、割れた舗装に足を取られて前のめりに倒れる。
「男も金も全部ロクなもんじゃない……ったく、なんで私ばっか――」
愚痴を吐きながら立ち上がろうとした途端、壊れたヒールが再びぐらつき、体が車道へ滑り出る。硬いアスファルトに膝を打ちつけ「痛っ!」と声が漏れた。
上がった顔を真っ白なヘッドライトが焼きつけ、熱い風圧が肌を突き刺す。
「うそ……待って――!」
言葉より速く、タイヤがスキール音をあげ路面を焦がした。
車は悲鳴をあげ、焦げたゴムの匂いが鼻腔を刺す。ハイビームに照らされた影が巨大な壁となり――衝撃が襲った。
肋骨が折れる鈍い音。空気が肺から弾き飛ばされ、視界が反転する。アスファルトへ叩きつけられた背骨が痙攣し、頭蓋が路面にきしむ。白いヒールは宙を舞い、血の滴が軌跡を描いた。
ひかりの口から泡混じりの血が音もなく溢れる。息を吸おうとしても、気管が折れたストローのように潰れ、肺が悲鳴を漏らした。両脚は感覚がなく、右腕は逆方向へ折れ曲がり、指先だけが痙攣を続けている。
視界の端で、銀色のボンネットが凹み、蒸気を上げていた。運転手の絶叫が遠く反響し、サイレンの明滅がコマ送りで迫る。
「……たす……けて……」
掠れた声をだすも喉が血で詰まり、しゃくりあげるような咳に変わった。鉄とガソリンが混ざった匂いが顔を覆い、肩口から温かい液体が流れ出す。
「ひ~か~りぃ~」
玉虫色のサングラス。腹の出た中年の上半身と、節くれだった昆虫脚。蝉仙人が街灯の陰から現れ、ひかりに近づき、うなだれた顔を覗き込む。
「気分はどうだぁ?ひかり~。七日間おつかれさん。見事なまでのクソみたいな生き方!あっぱれ!!……実に才能だよぉ」
蝉仙人は翅を震わせながら、ひかりの顔の横にしゃがむ。ひかりの視界は二重にぶれ、蝉仙人の輪郭が水面に映るように歪む。
「愛情の“あ”の字もねぇ人生、ついにクラ~ッシュ!痛いか?そりゃあ痛いよなぁ。ほれ見ろ。そこ、骨が飛び出してんぞ?」
ひかりは声にならない悲鳴をあげ、もがこうとするが脚は動かず、折れた肋骨が肺を刺しさらに血を吐かせた。
蝉仙人は楽しげに股間をまさぐり、首を傾ける。
「安心しろ。苦しむのはこれで終わりだ。クールダウンしてやる。感謝しろよ?しゃーなしだぞ」
口笛を吹きながら、蝉仙人は楽しげな様子でひかりに小便をまき散らし始めた。
生ぬるい液体が顔と胸に降り注ぎ、鉄臭い血と混ざり合う。ひかりの瞳が見開いたまま揺れ、次第に焦点を失っていく。
「……うっ…うう……」
「ひかり、これは始まりだ――こんなんで死なれたら、お前の息子も、母親も浮かばれねぇよなぁ。次に向けてきっちりアップしておけよぉ……へっへっへっ」
蝉仙人の嘲笑が遠ざかる。救急隊員の靴音が近づくが、ひかりの意識は薄紙が破れるように剥がれ落ちていった。
こんなにもあっけなく人生が終わるなんて。
まだ何もしていない。
ただ毎日に溺れていただけ。
何のために生まれてきたのか、自分がどうしたかったのかもわからない。
最期に耳に残ったのは、夏の夜を切り裂く蝉の声。
遠い街路樹の梢の向こうで、命の残響が震えて消えていった。
――ジィ……ジィィ……ジィィ……




