黒影の英雄と王都の混乱
王都は、不穏なざわめきに包まれていた。騎士団庁舎の一室では、壁にかけられた古地図に、ピンが次々と打たれていく。北の辺境、南の山間部、東の森近く……。どのピンも、共通して「魔物による襲撃」と、そして「謎の剣士による解決」を示していた。
「またか。今度はファルム村か」
騎士団長が忌々しげに呟く。彼の周囲には、腕を組んだ副団長セイラをはじめ、名だたる騎士たちが重苦しい顔で報告書を睨んでいた。
「報告によれば、Bランク級のグリフォンを一撃で仕留めたとか……。目撃者によれば、漆黒の影が閃いたかと思えば、瞬く間に魔物は絶命していた、と」
若い騎士が震える声で報告する。騎士団員たちの間には、期待と不安、そしてわずかな恐怖が混じり合った空気が漂っていた。普段彼らが頼りにしている魔導機械、例えば魔力式の探知機や自動防御システムは、こういった突発的な魔物出現にはほとんど役に立たない。人々は、その機械がもたらす便利さに慣れきってしまい、有事の際の脆弱さに苦しめられていた。町の通りでは、魔物襲撃の噂がまことしやかに囁かれ、人々は不安げな表情で互いの顔を見合わせ、時には悲鳴にも似た言葉が飛び交う。「うちの親戚の村も襲われたんだ」「このままじゃ、食料も尽きちまう」といった具体的な被害の様子が、ひしひしと伝わってくる。
「“黒影の剣士”……か。一体何者なんだ」
誰かが呟いた。その言葉は、騎士団員の誰もが抱く疑問だった。神出鬼没で、確かな実力を持ちながらも、一切の痕跡を残さない。だが、その報告の断片が、副団長セイラの脳裏にある男の面影を過らせた。地味で、無口で、そしてとてつもない剣の腕を持つ、あの追放された男の。
その頃、王城の一室では、リュミエル王女が焦燥に駆られていた。机の上には、各地から届けられた「黒影の剣士」に関する報告書が山と積まれている。どの報告も、まるで同じ筆者が書いたかのように似たような内容だった。 「突然現れ、影のように消える」「漆黒の斬撃」「信じられないほどの速さ」……。
リュミエルは、指先で報告書の一節をなぞった。彼の姿が、ありありと脳裏に蘇る。あの、地味で、だが誰よりも優しかった彼の姿が。
「……まさか」
彼女の胸が、ドクンと大きく跳ねた。あの時、ジークを庇えなかった後悔が、今もなお胸を締め付ける。あの時、自分がもっと強くあれば、もっと力があれば、彼は追放されずに済んだのではないか。そんな自責の念が、彼女を苛んでいた。
報告書を読み進めるほどに、その確信は強まる。剣の才能、影に潜む能力、そして何よりも、彼の「存在感の薄さ」が、この「黒影の剣士」の噂とあまりにも合致していた。
窓の外では、王都の街並みが広がる。忙しなく人々が行き交い、魔力で動く掃除機が埃を吸い取り、自動で動く露店が商品を並べている。平和に見えるこの日常の裏で、辺境では人々が苦しみ、そして、あのジークが戦っているのかもしれない。
リュミエルは、握りしめた拳を震わせた。唇から、か細い声が漏れる。
「……ジークなの?」
それは、問いかけというよりも、確信に近い呟きだった。彼女の瞳には、希望と、そして再び会えるかもしれないという淡い期待の光が宿っていた。