辺境の村と最初の災厄
王都を追放されたジークは、はるばる辺境の地、静かなる村デルタへと辿り着いた。この異世界の片隅にあるその村は、王都の喧騒とはまるで無縁の、時の流れが止まったかのような場所だった。草木が風に揺れる音、小川のせせらぎ、そして時折聞こえる鳥のさえずりだけが、この地の存在を主張していた。ジークはそこで、誰にも気に留められることなく、農作業を手伝う日々を送っていた。
彼の日常は、朝露に濡れた畑の土を耕し、作物の成長を静かに見守ることに費やされた。漂う微かな土の匂い、汗が背中を伝う感覚、そして夕焼けに染まる空の色。これこそが、彼が求めていた「静かな暮らし」だった。村の人々は、彼を奇異な目で見ることもなく、ただ一人の勤勉な若者として受け入れてくれた。時折、村の子供たちが彼に懐いて、使い古された木製の鋤や鍬を見上げながら、「ジーク兄ちゃん、これどうやって使うの?」と無邪気な質問を投げかけてくることもあった。彼は、そんなささやかな交流の中に、これまで知らなかった温かさを見出していた。
だが、そんな穏やかな日々は、突如として破られた。
その日の午後、突如として空を覆う巨大な影が村を襲った。轟、ドドドドドドッ!と地を揺るがすような羽ばたきの音が響き渡り、空気が震える。村人たちの悲鳴が上がる。 「ドラゴンだ! Bランク級の!」 誰かの絶叫が、恐怖を煽る。その巨大な影の主は、黒く輝く鱗に覆われたドラゴンだった。禍々しい咆哮が村中に響き渡り、古びた木造の家々がミシミシと音を立てる。ドラゴンの吐き出す熱風が畑の作物を焼き焦がし、その鋭い爪が土を深く抉っていく。村人たちは、なすすべもなく逃げ惑うばかりだ。彼らが普段使っている、簡単な手回し式の灌漑ポンプや、風力で動く製粉機のような機械は、この巨大な脅威の前では全くの無力だった。魔物によって生活を脅かされるという、生々しい現実がそこに広がっていた。
ジークは、畑仕事で汚れた手をきゅっと握りしめた。彼の心の中で、静かな怒りが燃え上がる。この平穏を、この安寧を、誰にも邪魔させはしない。
彼は人々の混乱に乗じ、その影の中に潜り込むようにして、音もなく姿を消した。彼の地味なスキル、「影潜り」は、彼自身を闇に溶け込ませ、存在感を完全に希薄にする。まさに、彼のためにあるような能力だった。ドラゴンが再び咆哮を上げ、その巨大な影が村の中心へと迫る。その瞬間、ドラゴンの足元から、漆黒の斬撃がスゥッと放たれた。それは、まるで影そのものが形を得たかのような一撃だった。
ゴオォッ!という断末魔の叫びと共に、ドラゴンの巨体が大きく傾ぐ。ジークはすでにドラゴンの背後に回り込み、その巨体を支えるようにそびえ立つ建物、そう、この村独特の、周囲の山から切り出された石材と、この地の植物から精製された特殊な接着剤で造られた古くからの集会所の影に隠れていた。そこから放たれた、見えざる剣筋が、ドラゴンの弱点を的確に貫いたのだ。
ドラゴンは、わずかな呻き声を残して、そのまま大地へと崩れ落ちた。その衝撃で土煙がブワッと舞い上がり、辺り一帯を覆い尽くす。煙が晴れる頃には、そこには巨大な魔物の死骸が横たわっているだけだった。
村人たちは、呆然と立ち尽くしていた。何が起こったのか、理解できない。しかし、その光景を偶然、ただ一人、村の少女エナが見ていた。畑の奥で、咲き誇る太陽のキノコを摘んでいた彼女は、土煙の合間から、漆黒の影が閃くのを確かに見た。そして、その影が、まるで最初からそこにいなかったかのように、闇の中に溶け消えるのも。
「……見た、私、見たよ! 黒い影の剣士が、ドラゴンを倒したんだ!」
エナの震える声が、静寂を破った。最初は誰も信じなかった。しかし、そこに横たわるドラゴンの死骸が、現実を物語っていた。あれほど恐れおののいたBランク級のドラゴンが、一体、誰によって倒されたのか。
「黒影の剣士」。
その日を境に、辺境の村デルタから、謎の英雄の噂が広まり始めた。ジークは、そんな村の喧騒をよそに、再び影の中に溶け込み、誰にも気づかれることなく、静かに畑へと戻っていった。彼はただ、この静かな日々が続くことを願っていた。