エピソード 3
ー 大学一年六月 ー
「ここの席、いいかな?」
声の方を向くと、知らない女の子が立っていた。僕の二つ隣の席を指差している。
「どうぞ」
僕は一言答えると、携帯電話に目を向けた。
講義開始まであと五分。
だだっ広いこの講堂は棚田のように席に傾斜がついていて、彼方遠くに黒板が見える 。入学直後はいかにも大学の講堂という雰囲気にテンションも上がったものだが、入学して三ヶ月も経つと、その有り難みも薄れていた。
一般教養のこの講義を真面目に聞いている人間が、果たして何人いるのだろうか。後ろの方じゃ出席カードを提出したら突っ伏して寝ている奴もいるし、遊んでいる奴もいる。
僕は頬杖をついてこの退屈な時間をどう乗り越えるか考えていた。
「ねえ。オカベ君・・・だよね?」
僕は不意に名前を呼ばれて驚いた。
さっき声を掛けてきたこの女の子は僕のことを知っているらしい。僕は全然思い出せなくて少し焦る。茶色く明るい髪は軽くパーマがかかり、肩の下のあたりまで伸びている。大きい瞳に薄い化粧。黒のシャツは体にピッタリとくっついて、体の線を強調していた。僕はいつもの教室を思い出し、記憶を探ろうとする。
「私、カワサキトモミ。同じクラスの」
「あぁ・・・」
名前を言われても全然わからない。それが表情に出たのかカワサキトモミは「私あんまり大学来てないから」と言った。
「お願いなんだけど、この講義のノート貸してくれない?ほとんど出てなくて困ってるの」
初めて話す人間にノートを貸してと言ってくることにも驚いたが、もう六月なのに授業にほとんど出ていないことにも驚いた。
「別にいいけど。この講義が終わったら貸すよ」
「ありがとう。来週この時間に返すね」
カワサキトモミはノートの切れ端に携帯電話の番号を書いて僕に渡してきた。
「念のため」
僕はそれを受け取り、シャツのポケットにねじ込んだ。
いつの間にか教壇には教授が立っていて講義を始めている。横を見るとカワサキトモミは腕を突っ伏して寝ていた。
なんだか変な女の子と関わってしまったな、というのがトモミに対する第一印象だった。
そして翌週、トモミは講義に現れなかった。それどころか、その翌週も来ることはなかった。