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110話 母

チェックアウトギリギリの時間でホテルを出ると、玄関前に母の両親が立っていた。


彼らは複雑な表情で私を迎え入れた。


自分の娘がやらかしたことだからと、面倒は母方の祖父母が見ることになったのだ。


母の実家は父の実家と違い、それほど裕福ではない。


年金暮らしの二人に高校生を一人養うのは難しいだろう。


母は母で、父の実家から離婚を言い渡され、慰謝料を請求されているので、私にお金を送る余裕などなさそうだった。


だから私はここでも歓迎されない子供だった。


大学進学を諦めて、すぐにでも働きに出ることも考えたが、祖父母がそんな私を不憫に思ったのか、老後の資金から多少大学費を貸してくれることになった。


私はその言葉に甘え、進学を決める。


私立だったが奨学金をもらい、一人暮らしを始め、それなりの生活を送っていた。


足りないお金はバイトで稼いで、寝る時間なんてほとんどない生活をしていたけれど、それでも楽しい一時だった。


幸せってどうして長くは続かないのだろう。


いつものように大学から家に帰って、バイトに行く準備をしていた時、突然家のベルが鳴った。


何気なく玄関を開けると、そこには母がいた。


もう何年も会っていない母。


母の実家にいた時にも一度も顔を出さなかったのに、今頃何の用があって現れたのだろう。


私は警戒しつつも、母の話を聞いた。


母は手に持っていた磯辺焼きを見せ、笑って話しかけてくる。


「あんたこれ、好きだったでしょ? 一緒に食べましょう」


この時、追い出しておけば良かったんだ。


わかっていたのに、私は母を迎い入れてしまった。


心のどこかで昔のように母が接してくれるのが、嬉しかったのかもしれない。


母は私の部屋に入り、もの珍しそうに見渡していた。


父の実家にあった私の荷物は無造作に段ボールに詰め込まれ、母の実家に着払いで送られてきた。


それ以外のものは全て処分されたと聞く。


母も裁判以外では父には会っていないようだった。


あれからは兄からも業務連絡以外はない。


「一人で暮らしてるのね。偉いわ」


母は感心したように言った。


自分のしたことなんて忘れているように、穏やかな表情だった。


「今更、何しに来たの?」


私は母の真意が知りたくて、仏頂面で聞いた。


「何しにって、あんたの顔を見に来たんだよ。元気にしてるかなって」


「そんなのばあちゃんちにいた時は一度だって会いに来なかった癖に、今更?」


母は全く動じないのか、袋から磯辺焼きを取り出し、机に置いた。


「あの時は母さん、忙しかったんだよ。あんたには悪いことしたと思ってる。兄ちゃんにも迷惑かけたしね」


私は今こそ、今までの恨み辛みを言ってやろうと思っていたのに、いざ母親を目の前にすると言葉が出てこなかった。


今までの事実が全部嘘なんじゃないかと思えるほどだ。


「……私、父さんの子じゃなかったんだよね。なんでずっと黙ってたの?」


これは私の聞ける精一杯の言葉だった。


母は手を止め、息を整えて答えた。


「そうね、口に出さない方がお互いの為だと思って。知らなかったら知らなかったで平穏に暮らせるでしょ?」


「平穏って……。それを壊したのは母さんじゃん」


「だから、悪かったって言っているじゃない。でも、母さんも耐え切れなかったのよ。あの人、口を開けば母さんが、母さんがってマザコン夫にはうんざり。なんで私が赤の他人の母親にそこまでしてやらなきゃならないのか、わからないもの」


母は自分のしてきたことに反省など一つもしていないようだった。


「じゃぁ、何? 私の事ばらしたのもと父さんやばあちゃんへの腹いせだったわけ?」


「そんなこと言っていないじゃない。あれはあまりにもあの人が酷いことを言うから、口が滑っただけよ。ねぇ、そんなに母さんを責めないでよ。悪いのはあの人たちなんだから」


「あの人たちって……」


母は自分のしてきたことを何も悪いと思っていないのだろうか?


父や祖母に酷い目にあったなら、こんなことも許されてしまうというのだろうか?


「母さんだって人間なの。我慢しきれない時もあるのよ。あの時もそうだった。結婚した時から、あっちの両親とは暮らしたくないって言ったのに、私の言葉なんて聞いてくれなかったし、会社だって辞めたくなかった。なのにお義母さんが無理矢理、息子の為に当たり前のことだって。それが嫁の勤めだろうなんて言ってきて、我慢の限界だったのよ!」


「……だから、浮気したの? そんな理由で他所の男の子供作ったって言うの!?」


私は机を叩き、大声を上げた。


母は酷く驚いていた。


「本当は産むつもりなんてなかった。あっちにも家庭があったし、あんたが出来たって言っても喜ばないと思って。だけど、妊娠した直後、お義母さんにばれちゃって、あの人の子って言うしかなかったのよ。下ろすなんて選択、なかったの! だから私は腹をくくって、あんたをあの人の子として育てようと決めた。あの日まであの人たちだって疑わなかったじゃない」


「そういう問題じゃないよね! いきなり実はあなたの子じゃないって言われたら誰だって怒るよ!! どうして産むと決めた時からその事実を墓まで持っていこうとは思わなかったの?」


「思ったわよ。思ったから、ずっと黙っておいたんじゃない。けど、あの人がうるさいから。私はずっと、ずっと我慢してきたのに、母さんの事誰もわかってくれないのが悪いのよ!」


ここまで来て、他人の所為かよと叫びたくなった。


いろんな言葉で自分を正当化しているけど、やっていることは最低じゃないか。


自分は弱いから、そんな風にして逃げてもいいと思っている。


なら、その被害者である私はどう受け止めろというのだろうか。


そんな中途半端な理由で生まれて来た私はどうすればいいというのだろう。


「もう、この話は辞めましょう。喧嘩しに来たわけじゃないもの。母さん、あんたに頼みがあって来たの」


「頼み?」


急に話を中断して来て、頼みとはどこまで図々しいんだと思った。


「あなた今、ここで独り暮らししているのよね? 一人はお金がかかって大変でしょ? 母さんもまだ借金も残ってるし、実家には帰れないし、一緒に暮らさない? 二人で暮らした方がお金もかからないし、家事も料理も母さんがやる。あんたもその方が楽でしょ?」


私はその提案に驚愕した。


今の今まであんな話をしていたというのに、この世に及んで今度は一緒に暮らそうなんてどの口が言っているのだろう。


「ふざけないでよ! 母さんは兄ちゃんの家にいたんじゃないの? 一緒に暮らすなら兄ちゃんと暮らせばいいじゃない!」


「無理よ! だって、あの子には恋人がいるんだもの。母さんみたいなこぶつきがいるって知ったら、彼女にフラれちゃうでしょ? そんなこと、あの子にさせられないわ」


「なら、わたしならいいわけ? 兄ちゃんがダメになったら私に頼るの?」


「そうじゃないわよ。でもあんたは女の子なんだから、彼氏が出来たら彼氏と同棲すればいいでしょ? そしたら、母さんは一人で暮らすから大丈夫」


何が大丈夫なのかと聞きたかった。


どこまでこの女は身勝手なのだろう。


「私が母さんと暮らすわけないじゃん! 母さん、私にどんなことしてきたかわかってるの? 私、この数年間ずっと苦しかった。母さんの実家にいた頃から肩身が狭かったし、私は居場所を失ったのよ!?」


私が激怒する様子を見て、母は驚いていた。


なぜ、母は私が今までの事を怒っていないと思っていたのだろう。


こんな目に合わされたら誰だって怒るはずだ。


「ちょっと、そうやってすぐ感情的になるのはあんたの悪い癖よ。短気は損気なんだから、大人になったのならもう少し冷静になりなさい。もし、母さんがもっと早くあの人たちにあんたのこと話していたら、幼い頃からあんたは肩身の狭い思いをしなくちゃいけなかったのよ。あんたたちももういい大人だし、事実も受け止められると思って話したのに……」


「話したって口から出ちゃっただけでしょ? どこまで無責任なのよ! 信じられない!!」


私がわかりやすく母を批難すると母の形相が一気に変わった。


私を睨みつけ、全ての汚点が私にでもあるような目を向けた。


「なんで私がそんな言われ方されなきゃいけないの? 私はあんたを生んでやったのよ? こんな恨み言を言われるなら、産まなきゃよかった。あんたは兄ちゃんとは違って使えない娘だったし、あんたがお義母さんを怒らせるたびに私は嫌味を言われ続けた。あの人も娘の癖に可愛がりもしなかったし、いいことなんて一つもなかった。自分ばっかり被害者面しないでよ。あんたの所為で母さん、ずっと辛かったんだから! 兄ちゃんはあんなに母さん想いなのに、どうしてあんたはそんなに自分勝手なのよ!!」


自分勝手?


私が?


兄さんも私に言った。


母さんを苦しめているのは私だって。


なら、なんで私を生んだの?


なんで、私はこの世に生まれて来たの?


そんな疑問が心から溢れて来る。


同時に涙が込み上げて、止まらなくなった。


母はそんな私を見て呆れ、磯部焼だけおいて帰っていった。


その日はもうバイトも行く気にもなれず、暗い部屋でただ縮こまっていた。

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