108話 罵声
私が屋敷に戻ると早速執事のコールマンから母のジュリアが呼んでいることを知らされた。
母が屋敷にいるのは本当に珍しいことだ。
恐らく予定を切り上げて、娘の不祥事について問い詰めに帰って来たのだろう。
彼女が気にしているのは、自分の体裁だけだ。
その一つとして、娘が王子の婚約者になったことは自慢だったのだろう。
それが娘の不祥事一つで婚約が破談となれば大問題である。
父親以上に母親が激怒することは容易に想像が出来た。
学園から持ち帰った荷物を全てニアに任せ、私は足早に母の元へ向かった。
母は談話室で一人ワインを嗜みながら、私の帰りを待っていた。
「母上、只今戻りました」
私がそう告げると、母は書けていたストールを巻き付け、長椅子から立ち上がる。
その顔は凍り付くほどの冷ややかな表情をしていた。
私はごくりとつばを飲み込んだ。
「説明して頂戴。なぜ、こんなことをしたの?」
母の手は震えていた。
怒りを抑えきれない様子がわかる。
「申し訳ございません。あまりにも自分の不甲斐なさに嫌気がさしたもので」
「謝ってどうにかなることではないでしょう? あなたはこのヴァロワ家に泥を塗ったのよ? 本当に信じられない……」
母は私の顔も見たくないのか、背を向けた。
私はそれ以上言い返すつもりはなかった。
母の罵声ならいくらでも聞く覚悟はしている。
「もしこれで王子との婚約が破断したらどうするつもり? あなたみたいな恥知らずこの家に置いておくつもりはありませんよ!」
彼女にとって世間体が全て。
悪評となる娘は不要なのだ。
そんなことはずっと昔から知っていた。
娘を生んだことで父が興味を持たないことを知り、母は私に絶望した。
母が私を生んだのは、父の気を引きたかったからだ。
妻は子供を産むことで、自分の存在をアピールする。
この世界の女とはその程度の存在だ。
乙女が楽しむゲームの癖に男尊女卑とは笑える。
彼女の怒りは更に高ぶった。
血走った眼で私を睨みつけ、暖炉の上にあった置時計を私に投げつけた。
「何か答えなさいよ、能無し女! お前なんて産まなきゃよかった。女の子とわかっていたら、産まなかったのに! あんたさえいなければ! あんたさえ生まれてこなければ!!」
この言葉を聞くのは初めてではない。
前世の母も同じような事を洩らしていた。
母親とはなんて身勝手な生き物なのだろう。
私だって産んでくれと頼んでなどいないというのに。
時計が大きな音を立てて、床に落ちるとコールマンが慌てて駆け寄った。
「奥様おやめください! エリザ様がお怪我をしてしまいます!」
「構わないわ! こんな娘、死んでしまった方が良かったのよ。王子の婚約者ではない娘なんていらない!!」
私はどこまでこの母親に憎まれてきたのだろう。
私の存在自体が母をずっと苦しめていたとでも言うのだろうか。
私はもう泣く気にもなれずに、母が満足するまで彼女の罵声を浴び続けた。
暴れ出す母をコールマンが必死に止めに入っていた。
「どうしてあなたはいつもわたくしを苦しめるの? 生まれて来た時からそうだった。あなたを見てもあの人は喜ばない。女の子を産んだわたくしを誰も敬ってはくれない。ヴァロワ家の為に産んだのに、女の子だったばかりに……。あなたはわたくしの疫病神なのよ!」
彼女はそう言って、今度は私に向かって燭台を投げつけて来た。
これはさすがに身の危険を感じて、手で顔を庇う。
しかし、燭台の端が私の額を掠り、血が滲み出ていた。
それを見ても母は動じなかった。
息を切らしながら、般若のような顔で睨みつけている。
もう一つの燭台を投げつけようとした時、コールマンが私の前に立ちはだかった。
「コールマン、どきなさい! あなたがその子を庇うことは許しません!」
「奥様、どうかおやめください。このような事をしても何の解決にもなりません」
コールマンは必死で母を止めた。
しかし、母が聞く耳を持つとは思えない。
「憎いのよ! この子が憎いの!! いつもいつもいつも私の足を引っ張って。可愛くない、可愛くない、可愛くない!! 王子との婚約が決まってやっとこの子を産んだ甲斐があったと思った。お腹を痛めて、苦労して産んだ子なのに、不幸しか呼ばないんだもの。生まれた時から一度だって可愛いなんて思ったことはない。それでもこの家の為に役に立つならいいと思って来た。けど、なんで自分からそれを壊す様な事をするのよ! そんなに婚約破棄したいなら、一層死んでくれたら良かったのに――」
その言葉を聞いた瞬間、コールマンがジュリアに向かって頬を叩いた。
従者が主人に手を上げる事などあってはならないことだ。
この瞬間、コールマンは何を考えているのだと思った。
「コールマン、お前ぇ!!」
ジュリアは打たれた頬を手で抑えながら、コールマンを睨みつけ叫ぶ。
すると、コールマンは膝をついて首を垂れた。
「もし奥様が私に命を持って償えとおっしゃるのなら、それに従いましょう。しかし、どうかこれ以上あなた様の娘に心無い言葉を浴びせるのはお辞めください。どんな事情で生まれて来たにせよ、エリザ様はヴァロワ家の血を受け継いだ、後継者のお一人です。大事なご息女をこれ以上無下にはなさらないでください」
「なぜ、あなたまでこの子を守ろうとするの!? どうしてあなたもエマもこの子がそんなに大事なのよ!? ヴァロワ家の血を受け継いでいるから!? 私はよその家の女だから蔑ろにするとでも言うの!?」
コールマンは何度も首を横に振った。
「そのようなつもりはありません。ジュリア様も我々の大事な主。蔑ろにした覚えはありません。それでも我々は、ヴァロワ家の一族の方々を守る責務がございます。きっとエマもこの場におりましたら、同じことをしたでしょう」
コールマンはそういって苦笑した。
母は何も言う気が怒らなくなったのか、机に置いていたワイングラスを手に取って寝室へと戻っていった。
外で見ていたニアが入ってきて、慌てて私の怪我の手当てをした。
気が付くと私の身体は震えていた。
もう母の罵声など慣れていたと思っていたのに、実際浴びせられるとここまで感情が溢れて来るのだなと感じた。
悲しいとは違う感覚だ。
情けない。
不甲斐ない。
自分の価値を感じられない感覚になる。
母が私を愛していないのは知っていた。
母親だからと言って全ての母親が子供を愛しているとは限らない。
苦労して産んだ子でも愛せない母はいくらだっている。
けれど、それを面と向かってぶつけられた時、自分はどんな気持ちでいればいいのかわからなくなるのだ。
私はぐっと唇を嚙みしめた。
こんな私にこれから幸福なんて訪れるのだろうか。
生まれる度に思う。
どうして自分は生まれて来たのだろう。
望まれてもいないのに、愛されてもいないのに、必要とされていないのに、なぜ世界に存在するのだろう。
その疑念が拭い去れない。
それでも私にはエマがいたから、立ち上がることが出来た。
生きてもいいのだと思った。
本来のエリザが殺された時、この母親は何を思ったのだろうか。
彼女が癇癪もちで精神的に不安定な理由もわかる気がした。
彼女はずっと誰かに助けを求めていたのだ。
愛されたい。
救われたい。
認められたい。
存在を許されたいと。
それなのにうまくそのことが表現できなかった彼女は悪者として処分される。
こんな終わり方はないだろうと思えた。
しかし、今の私が命を救われたからと言って幸福な未来があるとは限らない。
床に座り込んだ私は、何を思えばいいかわからないまま茫然としていた。




