ぶん殴るのに丁度いい人(前篇)
第一章 親友
怒りが踊っている。
頭の中で踊っている。
モヤがかかっているそれは、怒りのせいか、それとも焼肉の煙のせいか。
レジカウンターの前で財布を取りだした城戸幸雄は、三万一千五百円という数字の羅列を睨みつけた。瞳の奥に燃えたぎる炎は何もかもを焦がしてしまいそうだった。
「お客様?」という店員の声に驚き、急いで財布を漁り支払いを済ませ店を出る。十二月の寒空の下で放り出され、芯まで冷えろと言わんばかりに突風が吹いていた。
「ちっ……っくそったれ」
ポツリと呟く独り言は誰に届くわけでもなく風に飛ばされていく。価値はない。城戸の言葉には一銭の価値もない。
怒りが踊っている。踊るはずがないそれが踊っている。頭の中で踊らせている。爆発させてはいけない。大人なのだから。
愚痴が止まらない。
「今回もだ、また今回も俺が奢り。前は寿司、その前はラーメン。普通割り勘だろ。何で俺が全部払わないといけないんだ」
城戸の身体は細身であり、誰が見ても大食いをするタイプではないと分かる。それなりの焼肉店でここまで金額が大きくなったのには訳がある。
まだ止まらない。
「ふざけんなよくそデブ。そもそも俺がずっと肉焼いて、全然食べれてないんだけど。それで奢りとか有り得ないだろ」
城戸は焼肉臭い一張羅から煙草を取り出し、凍える手でジッポーライターで火を点けた。肺に素敵な有害物質を押し込むが、気分が晴れない。
止まる気がしない。
「もう何回目だアイツにご飯奢ったのを。貸した金も返してもらってないよな。通報レベルじゃないか? 犯罪者じゃん、警察呼んだ方がいいよなあれ」
第三者からすれば一人でブツブツとボヤいている変質者にしか見えないが、愚痴らずにはいられない精神状態にあった。あまり満たせなかったお腹には、焼肉よりもむかっ腹の方が多い。
気持ちよく煙を吐いて城戸は煙草から手を離した。
心なしか肩が重い。幽霊にでも取り憑かれているのではないだろうかと考えたが、それは絶対にないと確信している。何故かと問われれば、ついさっき携帯で時間を確認した時に液晶に反射した自分の顔を見たからだ。幽霊よりも死人顔をしている。これは幽霊にすら同情されてもおかしくない有様だった。
ようやく自宅であるそれなりに大きいマンションに辿り着き、エレベーターで七階のボタンを押す。ゴウンゴウン、と音を立てて降りてきたエレベーターに眠気を誘われながら、開いたそれに蹌踉めきながら入った。一体化しそうなくらいに壁にもたれかかり、昇っていく四角柱に黙って身を任せていた。
回数表示板を眺めながらモヤがかかった頭の中を整理していた。少しずつ掃除し磨いていき、溜まったそれをクローゼットの中に押し込む作業。いつもの事だった。五という数字が目に入ったところで目を閉じた。そして、大きくため息をつき眠い目をこすりながら再び顔を上げた。まだ五だった。
──あれ、長くないか?
いつまでも辿り着かないエレベーター。表示灯が五の文字でボヤけて止まっているのにようやく気がついた。
「嘘だろ、止まりやがったぞ! 冗談じゃない」
急いで非常用ボタンを押し、繋がった相手にエレベーターが停止した旨を伝えると、機械故障によるトラブルと判明し大至急専門家が駆けつけるとのこと。復旧は三十分、長くても一時間で終わるらしい。
城戸は汚れを気にしながらエレベーターの床にあぐらをかいた。髪の毛を雑に掻きむしり、そのまま重力に身を任せながら頭を垂れた。その表情は怒りを通り越し、呆れをも通り越した言葉に言い表せない何かになっていた。
普段の城戸であれば、こんなトラブルは苦にならない。こういうこともあるよね、と噛み砕いて納得するだろう。
だが、ついさっき起こった悲劇と重なれば話は変わる。金は減り、満腹にもならず、閉じ込められる。
あぁ、全く──
「ついてないわ」
言葉にしたのは城戸ではなく後ろにいた男だった。逃げ場のない空間に放り込まれ、振り向いた時にはかなり近い距離にいた。三十代にも見えるし五十代にも見えるその男の存在は、城戸を素っ頓狂な声を出させるのに十分だった。
「そんな顔をしてんで自分。暇やし私と話そうか」
「嫌です」
今の今まで同乗していたことすら気づいていなかった男と何を話せばいいのか、と動揺を隠せない。城戸の表情からは関わりたくないという感情が、誰にでも汲み取れるほど顕著に現れていた。
冬場なのに麦わら帽子、必要なのか分からない小さなサングラス、上は緑のパーカー、下は七分丈のパンツ、足元は下駄。関わりたくない要素が満載なコーディネートであり、人はここまで残念になれるのかと言いたくなる域に達している。
逃げ場のない空間で不審者と共にするという危険極まりない状況に冷や汗が止まらない。くつろいでいる状態だが、もしものために両手だけは完全に空けていた。
「そんなに警戒せんくてもええよ。なんか悩んでるんやろ、聞かせてくれや悩み。なんてことない、皺の増えた中年に愚痴をこぼすだけや。一人で抱えるより、誰かに擦り付けた方が気楽やで」
「嫌です」
「つれへんなぁ。じゃあ私の悩み聞いてくれへん? いや、聞かんくても勝手に話すわ」
頑なに話そうとする変人を無視して、城戸は携帯を取り出した。特にやることないが、関わりたく一心でホーム画面を意味もなくスライドさせる。少し割れた液晶をなぞりながら時間を潰していた。
聴くつもりはない、しかし聞こえてくるのは仕方ない。聞こえてくるのは肩こりや腰痛、残尿感があるといった年相応の取るに足らない鬱積であった。一面識もない変人の悩みを何故自分が受け止めらなければならないのかと城戸は頭を抱えた。
鍛えるために階段を使えばよかった、そもそも外食なんて行くんじゃなかった、なんならもっと下の階に住めばよかった、と臍を噛んだ。極端な後悔だった。
すっかりその男が支配した空間だったが、突然話を遮るようにバイブ音が鳴り響いた。既に携帯を手に持っている城戸は直ぐに自分ではないと分かった。
「おや、私か」
男はパーカーのフードから携帯を取り出し、嬉々として何か操作しだした。何故ポケットではなくそんなとこに携帯を入れているのか、色々と聞きたいことはあったが気持ち悪さと関わりたくなさが勝っていた。
城戸は、こんな格好をしている変人が弄る携帯の中身に対して、多少の興味が湧いたことに悔しさがあった。
「そんなに気になるんやったら見せたろか?」
「いや、まあ、別に」
「ただのメールやで。友達とのな」
「友達ですか」
「そ。多分こいつのためなら何でもできると思う、そんな友達」
へえ、と適当な相槌を打ち、その男を眺めながら城戸は頬杖をついた。
……こんな変な人でも心を許せる人がいるのか。
ただただ純粋な関心と疑問だった。よほどの物好きか、彼と同じく変人の部類なのか。どちらにしても興味はない話題なのだが、今日だけは違う。つい今しがたあった焼肉屋での出来事が、城戸の気分をバイ菌のように勝手に害していく。それに関わる話題なら、関心を向けざるを得ない。
「交友関係で何かあったんやろ」
言葉にも出さず関心を振り切ろうとしたが、男の核心をつくと言わんばかりの指摘に二の句が継げない。
「苦労してるんやね自分」
散々自分の悩みを口にしたくせに、自分のしかめっ面一つで哀れまれることに心底腹が立つ。城戸は嫌味ったらしく「そんな変な格好してる人に心配されるほど落ちぶれませんので」と吐き捨てると、男は能天気に笑い出した。
「ごめんごめん、冗談やん。怒らせる気はあったけどね。お、やっと目合わせてくれたやん」
「なんですかそれ。言っときますけど、俺そんなに暇じゃないんですよ!」
「暇やろ」
「……まあ、そうでしたね」
所狭い長方形の何も無い空間でやれることなんて限られている。携帯の充電も少ない。話すくらいしかやることがないのだ。
したがって城戸はなにもしないことにした。やれることが話すことなのであれば、何もしない方がマシだった。警戒を解かずにただただ一点を見つめ、沸騰した怒りの熱を冷ましていく。
しかしそれを許してくれるほど男も甘くなかった。頼むよ教えてくれよ、と頭を抱えて無視を決め込む城戸に男は、念仏のように繰り返し呟いた。この上なく煩わしい奇行に、収まっていた怒りの熱が再び滾り出した。
そして、噴火。
「友達に焼肉屋誘われて行ったら奢らされただけですよ。そんなにお腹いっぱいになったわけでもないのに全額ですよ全額。おかげで様で財布の中身が小銭しか残ってないし。あー、ちくしょう! ただそれだけです。分かったら黙ってて下さい」
タガが外れたように怒りを顕になった城戸の愚痴を、男は白い歯を見せながら黙って聞いていた。憎たらしい表情だった。
無慈悲にも財布が軽くなってしまった後悔や、エレベーターの中で変な人に遭遇してしまった恐怖や、見ず知らずの人に怒鳴ってしまった情けなさ。あらゆる感情が混ざりあって笑いに変わる。怒りを通り越し、呆れも通り越し、言葉に言い表せない何かをも通り越した末にあったのは、壊れたような笑いだった。
「お待たせしてすいません、今救助に参りました」
短かったようで長かった一時間だった。
エレベーターが突然動きだし、扉が開いて救助がやって来た。二人は助かる、泣いて喜ぶ所だ。決して壊れる場面ではない。決して笑う場面ではない。救助隊が困惑する場面ではないのである。
曇り顔を背負った城戸はそそくさと歩き出し、それに続いて「おつかれさーん」と変人も能天気にエレベーターから降りていく。そ颯爽と歩く城戸を引き止め、変人はポケットからメモ用紙を何かを綴った。
「はいこれ」
「何ですかこれ」
「いいから持っとき」
二つ折りにされて紙切れを差し出され、恐る恐る中を開こうとする変人に待ったをかけられた。
「これ見るんは、その友達となんかあってどうしようもなくなった時や。それまで大切に持っておくこと、約束やで」
「いや、ちょっと」
「それじゃあ、またね」
有無を言わさず去っていく変人を追いかけようとしたが、胸元から振動を感じ足を止めた。一回、二回、三回、四回。止まらないバイブレーション、電話だ。
変人の後ろ姿がまだ見える中、胸の内ポケットから携帯を取り出した。液晶に映る名前を見て、城戸は眉間にしわを寄せた。
──戌亥京介から着信のお知らせです。
応答の文字を凝視し、地面に届くかの如く溜息を一つ。ワックスで整えられた髪型を手でグシャグシャに掻き乱す。
もう一度ため息つき──応答。
「よぉ、どうしたー? ついさっき会ったばっかりだろ!」
まるで人が変わったようだった。馬鹿に明るいそれは、先程まで曇り顔だった城戸から出たとは思いもよらない声色。エレベーター内で怒哀楽と目まぐるしく変化し、電話に出れば苛立つ原因を作った人間に対して喜の感情を放っていた。
「おうおう、やっと出たか」
美しいのウの字もないような穢らわしいダミ声の持ち主である戌亥京介は、ギアチェンジした情緒不安定な城戸に脳天気な声を上げていた。
「さっき言うん忘れとったけど、次の飯は明後日でええよな?」
茫然自失。このまま電話を切ってしまおうと暴挙に出ようとしたが、何とか踏みとどまり絞り出した精一杯の返事をした。
「おー」
賛成とも反対とも言えない曖昧な返事だが、城戸の内心は不服一色の猛反対である。さりとて都合よく事が運ぶほど現実は甘くない。
「じゃあ決定や。あと悪いんやけど、また奢ってくれ。また今月奮発しちゃって、金がないねん」
「おーおぉ」
分かっている。どうせ、パチンコと風俗だ。車と腕時計のローンも残っている。何故馬鹿みたいに実もない乱費を重ねて、その尻拭いを自分がしなければならないのか疑問でしかなかった。
しかし、城戸は笑う。
「そういえばよ、この前あった駅前のよ」
「おう、おう!」
無邪気に愛想笑う城戸の姿は酷く痛々しい。多重人格かのように自分のキャラクターを変え貼り付けた薄っぺらい笑顔には、もう限界と言わんばかりに引きつっている。
しかし、そんな表情も電波越しにいる戌亥に伝わるわけがなかった。
「ほんと、苦労してるんやね」
そんな不憫な男の後ろ姿を見て、変人は呟いた。憐れみの目だった。
*
ドライブデート。そう呼ぶにはあまりにも男臭い。大人数でも楽々と乗車できる広い車内に男二人と、文句なしに寂しくてならない。
運転席で腕時計を確認しながら車を走らせる戌亥は、後部座席にて携帯を弄っている城戸を鋭い目で睨みつけた。
「お前のせいで遅刻やんけ。折角の温泉巡りが台無しや。あーあ、遅刻のせいで迷ったわ──って聞いてんのかお前!」
「ごめんって、俺が朝弱いの知ってるだろ。ていうか遅刻は知らねーよ俺のせいにすんな。それより着いたら起こしてくれ」
「ふざけんなお前、俺の近くで寝れると思うなよ。あらよっと!」
「わあぁ!?」
後部座席に真横になった城戸の体が宙に放り出され、少しだけ転がり車の床に落ちていく。故意的な急ブレーキによって車の床に収まってしまった城戸は、仕返しと言わんばかりに戌亥の整えられた髪の毛を雑に掻き乱した。「馬鹿止めろ、運転中やぞ!」と半狂乱になる戌亥に対し、城戸もちょっかいを出しながら笑っている「よいではないかよいではないか」
その笑顔に不純物はない。
強がっているわけではない。我慢してるわけでもない。無理してるわけでも、引っ込みがつかなくなってるわけでも、芝居を打っているわけでもない。
城戸が笑っている。心の底からの笑顔で。
「それにしても細い道やな。ホンマにこの辺に温泉あるんやろうな?」
「そもそもこんなに雪が降ってるのに温泉なんて入っていいのか? あったとしても冷めてるとか。嫌だぞ俺、冬の山で温泉と勘違いして川に入って凍え死ぬとか」
「大丈夫やって、その時は俺も死ぬからよ」
「何が大丈夫だよふざけんな。やっぱりさっきの草津温泉に行こうぜ」
呑気に無駄口を叩きながら視界の悪い雪の道を迷わないよう車を転がす。
するとタイミングを見計らったかのように降雪の勢いが増し、戌亥はワイパーをHIに切り替え物怖じせずにばく進していく。
「おい頼むぞ、安全運転」
「安全性を求めるんやったらシートベルトせぇ。お前それで警察に見つかったら、俺が減点されんねんぞ」
「へー。まあバレないようにするって」
「頼むわホンマに」
戌亥の忠告を無視した城戸はおもむろに鞄を漁り始め、慣れた手つきでカーナビの液晶を操作していく。CDプレイヤーに既に入っていたディスクを抜き取り、自分が持ってきたアルバムを差し込んだ。
車内に充満する女性アーティストの歌声が戌亥の耳に突き刺さり、少しだけむず痒くなる。そのなんとも不自然に甘ったるくぶりっ子のような歌声と共に、女子中学生の恋模様を描いたような歌詞によって城戸のテンションは上々になっていく。
どのような楽器が使われているのかも分からないピコピコ音、強面を携えた無骨な車からはあまりにも不釣り合いな音楽だった。
戌亥はCDケースを手に取り裏表紙を見た。柔らかそうなフォントとともに、二次元の女の子たちが笑顔でマイクを握っていた。キャピキャピ系だった。
「で、今回は何のアニソンなん?」
「知らないのかよお前マジか! 今期で一番盛り上がってるラブコメの劇中で流れる、アニメの歴史に残ると言っても過言ではない神曲だぞ。円盤も今年一番売れてるし、今度声優のイベントが武道館でやること決定したし。音楽配信サービスで既に五千万再生されてるのに知らないとか、お前結構世間知らずなんだな!」
捲し立てるアニメ談義に戌亥は笑みを浮かべた。
「その辺の界隈は疎いわ。アニメとかお前に紹介されたやつ以外は小学生以来ほぼ見てへんしな。あ、ちょっと前に見た鬼倒すやつは見たで。あれはおもろかったやんな!」
「俺それ見てないな」
「はぁ? あれは確か世間賑わせてなかったっけ」
「みんなが見てるやつは見ない主義なんだよ。それを見たら負けかなって」
「なんやそれ!」
戌亥はダッシュボードを開け、城戸が抜いてそのままにしたCDをケースに入れた。ガシャガシャ、と音を立てて雑に収納しているCDを手でかき混ぜ、無作為に二枚のアルバムを手に取った。一枚目はブルーバックに白い文字でアーティスト名とアルバムタイトルが書かれてるだけのシンプルでありながら存在感があるCDで、二枚目はモノクロの世界に誰もが目を奪われる世界樹が聳え立つ神秘的なジャケットデザインだった。
その二枚のアルバムを手渡された城戸だったが、そのCDを開けることもなく裏表紙を眺めた。酷くつまらなそうな面持ちだ。
「王道の音楽やったらこんな所やろ。世間知らず言うんやったらそれくらい知っとるやろ」
「知らないね。俺こういうの興味ないっていつも言ってるじゃん」
「何がそんなにアカンの? たまには聞いてみろって。滅茶苦茶良い曲多いねんで」
興味ないものは興味ない。貰ったCDを直ぐに返却し、今かかっているアニソンのラストサビに差し掛かり、城戸は目をつぶり耳を集中させていた。その傍らで「ちぇー」と口を尖らせる戌亥は、少し落ち着いた降雪を見てワイパーをINTに切り替えた。
未だに視界が悪く道は更に細くなる。
「ちょ、この車はこの道行くのは無理だろ。ていうか何でお前独身なのに、こんな大きい車持ってるの?
」
戌亥の所有し今運転しているこの自動車は七人も乗れるミニバンであり、成人男性が二人乗ってもお茶の子さいさいどころか、むしろ寂しく感じてしまうほどの大きさだ。
戌亥は得意げに口を開いた。
「かっこいいやろヴェルファイア。高かったけどずっと欲しくて去年やっと買えたねんで。身体も顔もごつくて最高や!」
「分かんねーな。オラオラ系が乗ってるタイプだろこういうの」
「俺はこれが好きやねん。まあ感性が子供で止まってるお前には分からへんやろうな」
「なんだとこの野郎!」と、再び戌亥の髪の毛に茶々を入れていく。口では慌てふためき抵抗する戌亥だが、車体を動かす手元のハンドルは恐ろしく穏やかで冷静だった。まるで生まれた時からそれが備わっていたかのように、手足の如く車を操っていく。
城戸が推すアニソンの曲目も終盤に差し掛かり、雪が映える夜景を駆け抜けていく。休憩を挟みながら車を走らせて八時間以上。振り積もった雪で分かりにくいが、ようやく駐車場らしき場所にたどり着いた。
車から飛び降りた城戸は身震いをして、肺に入っていた透明な気体を白く染めて吐き出した。
「なんだかんだ無事に着いたな。ありがとう、運転してくれてよ」
「ん? あー、おう。ほいっ、タオル」
「おう!」
戌亥からタオルを貰い、少しだけ距離のある温泉まで人目も気にせず悠々と闊歩する。関西圏から飛び出して八時間という長旅の末にたどり着いたここは、流石に期待せずにはいられない。
明日は休みだ。明後日も休み。明明後日も休む。贅沢にも有給を三日連続取得した城戸は、性根までじわじわと腐らせていく仕事の存在を頭の隅まで追いやり、なんなら外まで放り出す。苦痛を追いやった城戸の頭の中には、京楽という感情しかない。
視界が雪とは別の何かで覆われていく。当惑しながらも飽くなき欲望が体をつき動かし、全てを洗い流すことが出来るであろうオアシスを思わせる天然風呂を求める。湯気で視界が白み源泉が見えないが、そこはかとなく肌で感じていた。嫌な予感も感じていた。
「着いたな」
「いやいや、え? 着いたけど何も見えないじゃん」
濃密な闇の中から、微かに硫黄の匂いがする。川特有の激しく流れる音も聞こえる。携帯のライト機能で、簡易的な脱衣所と温泉に入る際のマナーが記してある看板が確認できた。
人間の肉眼では限界がある。どれだけ目を凝らしても、どれだけ頑張っても、どれだけ努力しても、 見えないものは見えない。人間というのはそういう生物であり、仕方のないことなのだ。
だが、諦めが悪いのもまた人間である。
「そんなこともあろうかと思って、こういうのを用意したで!」
戌亥はネコ型ロボットのようにポケットをまさぐり奇っ怪な道具を取り出した。
「懐中電灯か。それにしても何だこの大きさ」
「滅茶苦茶明るい懐中電灯や。十万ルーメンも出るんやって」
「うん、何だよルーメンって」
聞き馴染みのない単位に眉を顰めた城戸は、渋々その規格外な懐中電灯を受け取った。渡したと同時に、戌亥は懐からもう一本の同じ懐中電灯を取り出した。
奇行。こんな物を用意しなくても昼間行けばよかった話。それのみならず、少し前に通った温泉街に寄っていれば今頃は、舌をうならせるであろう料理を片手に酒をあおっていただろう。
何故こんな懐中電灯を二本も持っているのか、と問いたくなったが疑問点が多すぎて逆に冷静になる。そして、城戸はこう思った。
……そうだ、戌亥は元々こんな奴だったな。みんなが箸を使うのに慣れ始める頃、戌亥はナイフとフォークをマスターするような奴だった。奇想天外でいつも他の人が進む少し斜めを行く……だからこそ面白いこともあったな……。
戌亥の合図と共に懐中電灯の電源を入れた。規格外の明るさにヘッドの部分が灼熱になっているだとか、冷却ファンが全力疾走でうるさいだとか、誰か知らない人見られたら通報されるのではないかといった気がかりや問題はあった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
──おお、ヤバいわ。
──ほわぁあ、凄い。
この星と相まった雪景色の前では、どうでもいい。
城戸は間抜けな声を漏らし、戌亥は白い歯をこぼした。
雪が積もっても聳え立つ生真面目な大木達にスポットライトを浴びせる。無数の星々が煌めく寒空の下、緩やかに流れる水面が美しいステージを反射させる。湯気が吹き出て騒いでいる。まるで、この温泉も寒空の中、暖かい息を吐いているかのようだ。
「ほらな城戸。来て良かったやろ?」
「……そうだな」
疲労はある。眠気もある。
しかし、それ以上に喜びがある。
懐中電灯を地面に置き、簡易的な脱衣所にて服を全て取っ払った。肌を刺すような冷たさの中、生まれたままの姿にタオル一枚を身につけた一糸纏う姿は、第三者が居合わせれば痛々しくて見てられないだろう。
「よっしゃ! いっせーのーで、で飛び込もうぜ!」
「え、大丈夫か? 向こうの注意書きに飛び込み禁止って書いてたけど」
「誰か人が居ったらの話やろ。そういえばお前って、車も自転車も人も通らん赤信号とか待つタイプやもんな」
「でも、浅瀬やったら危ないし」
「大丈夫大丈夫、堅いんやって、ほら行くで!」
「……おう!」
戌亥に押されるがまま、腰に身につけたタオルがどこかに行ってしまわないよう左手で境目を力強く握った。極寒に見舞われガチガチに冷えてしまった赤い手は、タオルをしっかり握れてるか分からないほど感覚が無くなっている。
もう自分のあるべきラインも壊れた。
「いっせー」
待ち遠しい。今すぐにでも目の前の快楽に堕ちていきたい。だが、まだ焦らす。
「のー」
息を整える。こんなに待ち遠しいと思ったことはない。
滑らないよう気をつける、なんて事も思わないくらい無邪気に走った。
「で!」
飛ぶ。
大地から身を投げ出し、オアシスに飛び降りた。ギュルギュルと騒がしく鳴り響く懐中電灯に熱がこもり、積もろうと雪を溶かしていく。温泉にも雪は積もらない。
ばしゃーんだとかドボンだとかザブーン、と水泳競技である飛び込みのように気持ちよく出来ればどれだけ良かったか。素人の不格好な飛び込みは、まるで水面に拒絶され平手打ちをされるかのようなバチンっ、と派手に痛々しい音だった。
──ふはは。
思わず笑いがこみ上げてきた。肉が喜んでいる。ここまでの苦労を労るのように、頭のてっぺんからつま先まで自然が染み渡っていく。驚くほど澄んでいる煌めいた水面下に、揺らめく戌亥の姿を確認できた。自分を笑わそうと変顔してるのが、何となく分かった。
その時、城戸の頭の中で今日の出来事が恋人同士が行うテニスのラリーのように緩く反芻していた。長い旅だった。
眠たい。
ああ本当に──来て良かった。
*
「何で俺が言った業務やってねーんだ! まさか出来ないとか言わねーだろうな! 資料を印刷するだけなのに何で出来てないの? こんなもの猿でも出来るぞ」
「違います。そもそもその資料はかなり先の商談で使うものであって、優先することが他にもあると思いますが?」
「言い訳してんじゃねーよ、ほんっとに使えねーな! だからお前はいつまでたってもいらねー存在なんだよクソゴミ無能が!」
よくもまあこんな罵詈雑言が出てくるもんだな、と城戸はバーコード頭の上司による暴言の雨嵐を、右から左へ受け流している。そのあっけらかんとした態度に上司は更に憎悪を滾らせていた、血管が切れそうな勢いだ。
昭和の世代に取り残された分かりやすいパワハラ上司であり、未だに昔の価値観が罷り通ると思っている可哀想な存在だ。パワハラをする姿の証拠を押え上層部に告発することは簡単だが、この上司は運が良かった。現在務めている社員にパワハラを摘発するような正義感のある人間が居ないこと、更に言えば定年退職も近く数年後には消えていく存在なのだ。わざわざ告発するなんて時間も労力も、くたびれたオヤジに使うのは勿体なかった。だから今こうして城戸は、時間が勿体なく見に余らないお言葉を軽く受け流している。みっともなくヒステリーに喚く上司の矛先は城戸から社員大勢に「お前らは本当に駄目なんだよ!」と八つ当たりになり、次第に「そもそもこの会社自体がダメなんだよ、俺らが若い頃は……」と企業体制批判と過去の栄光を引きずる自分語りが始まってしまった。まともに相手するだけ無駄だ。
……タバコ吸いたい……はぁ、帰ったら何しよう……、たまには自分で夕飯作ろうかな、いつまでもコンビニ弁当じゃ味気ないし不健康だし、よし決めたスーパーに行こう……そういえば最近、映画見れてないな……動画配信サービスも会員抜けようかな……何も見てないのに月々千円は結構痛いしな……退会するのもアリだな……あ、でもいざ何か見たいってなったときまた入会するのもなー、まあレンタルビデオでもいいかもな、ビデオデッキないけど……ところで、最近歯が痛いんだよな……歯医者行くのも気が引けるよな、怖いとかじゃないけど……そういえば来週、欲しいと思ってたゲームの発売日だな……楽しみだな、楽しみといえば夕飯だ……何を作ろうかなぁ……。
「おい城戸、聞いてるのか!」
……ささくれが気になるな。
「お前、俺が怒ってやってるのに無視とはいい度胸だな!」
あ、終わってた──と考え事をしていた城戸は上司の怒りが有頂天になる様子を、観葉植物を眺めるかのようにしていた。観察五十八年目、もう直ぐ完全に枯れるだろう。
もう中身のない説教に構うほど暇ではなくなった城戸は、その上司を差し置き資料作りを再開した。こんなにも分かりやすく反旗を翻す男に上役が逃がすわけがなかった。
それからも長々と説教が続いた、いったいいつ仕事をしているのかと問いたくなるほど無駄な時間だった。流石に城戸は席を立ち上がり、ずっとしている軽蔑の眼差しを改めて横にいるハゲに向けた。
「おい、どこへ行く!」
「一服ですよ。仕事に集中出来ないのでね」
「何だと! 俺の指導が業務の妨げになるってそう言いたいのか」
「自分でも自覚があるようで」
動物園にある猿の檻の前かと勘違いするほど喚き散らす上司だったが、城戸の耳にはもう既に蚊帳の外だった。
階段を踏みしめる度に、頭をノックされるような痛みに襲われた。至近距離であれだけ叫ばられたら頭痛くらいにはなるかと溜息をついた。呆れ果てた感情と解放された安堵の感情が混ざりあった複雑な溜息だった。
歩を進め徐々に上司の怒鳴り声が小さくなっていくが、喫煙所である屋上に着いてもまだ何となく聞こえてくる。幻聴だと信じたい。城戸は、今日の帰りにでも耳栓を買おうと決意した。定年間近である男の癇癪ほど見るに堪えないものはないな、鼻で笑いながら箱を指で軽く叩き煙草を一本取り出した。口に煙草をくわえながら火をつけようとしたが、何故かいつも自分の懐に入れてるジッポーライターが消えていた。
──嘘だろ。
冷や汗が止まらない。煙草を乱雑に椅子に置き、喫煙所を飛び出した。もう一度自分の身につけている服のポケットを弄るがやはりない。
階段を駆け下りようとしたその時、優しい笑みを浮かべた男がジッポーライターを片手にそこにいた。
「先輩、落し物ですよ」
城戸にとって直属の部下にあたる有田は誰にでも優しく信頼も厚い、仕事も完璧でおまけに顔も二枚目という紛うことなき良い男である。出世コース間違いなしである有田にとって、城戸の落し物を見つけるなんてお安い御用と言わんばかりにジッポーライターを渡してきた。
「悪い有田、見つけてくれてありがとう」
「お、感謝してします? そんなら煙草一緒に吸いましょうよ。一本おまけでください」
「しょうがないなぁ」
と言いつつも、城戸の顔はニヤけていた。可愛い後輩には煙草一本どころかご飯を奢りたくなるし、仕事も手伝ってあげたい、とそんな衝動がある。頼れるところはしっかり頼れて、甘えれるところはしっかり甘えれる。理想の後輩とはこういうものなんだろうと、つい先程の上司と自分の差を見せつけられるようだった。
そのまま二人で喫煙所に赴き、城戸が箱から煙草を一本取り出し有田に差し出すと「ありがとうございます先輩!」とイケメンスマイルで受け取った。拾ってくれたジッポーライターで煙草に火をつけ、肺にニコチンを取り込んだ。不快や焦りといった煩わしい気分が、こめかみからドロドロと抜けていくのを感じる。
「それにしても、何かあったんですか?」
「いや、そりゃ何かあっただろあのハゲ。何かなかったらあんなに怒らないって。俺の予想だけど、家庭に居場所がないんだろうな。奥さんとか娘に煙たがられて家に居場所がないから、会社でストレス発散してるんだ。会社で味方居なけりゃ、家庭でも味方が居ないってお前、天涯孤独とか笑えるな」
「笑えますけど、その事がじゃないですよ」
城戸のまくし立てた上司の悪口にクスリと笑いながら、有田は真剣な眼差しで煙を大きく吸って吐いた。
「城戸先輩の事ですよ」
「俺か?」
「気の所為だった申し訳ないんですけど、休み明けからちょっと変です。なんというか、気が沈んでるというか滅入ってるというか、落ち込んでるように見えますよ。有給使って友達と温泉巡りに行ったんですよね。そこで何かあったんですか?」
「あ────、ね」
言葉が詰まった。別に隠してたつもりではなかったが、表に出ているとも思っていなかった。ただいつも通り洒洒落落と仕事に勤しんでいたつもりだったのだが、できる有田の目には城戸の様子が妙ちくりんに映っていたのだった。
何かあったのか──あった。それはもう、不愉快この上ない何かがあった。
城戸は重く閉ざそうとする口ゆっくり開いた。
「有田はさあ。飲み会で隣の席の奴らが騒がしかったどうする?」
「例えばの話ですか。まあ五月蝿いなぁ、って思うくらいですね」
「だよな。隣の部屋まで行って胸ぐら掴まないよな普通」
「……そうですね」
「車の長旅で色々あったんだよ。真夜中の露天風呂に入ったりパワースポットに寄ったりして、まあ良かったんだよ。でも、二日目に泊まった旅館で起こったんだよそれが」
城戸はもう一本煙草に火をつけた。
「しっぽり飲んでたんだよ俺たちは。そしたらまあ隣が宴会してたのか知らないけど騒がしくてな。無視すればいいだけなのに、泥酔したそいつは怒鳴り込んで行ったんだ。それから胸ぐら掴むは暴言吐くはで滅茶苦茶。尻拭いは全部俺だ。幸い向こうは優しくて許してくれたけど、既に寝てるそいつの横で俺は謝って謝って謝り倒してな。起きたら何も覚えてないしよ。そこから何始めたかというと、その散々迷惑かけた団体客の女を口説き始めたんだ。本当に有り得ねぇよ。そこからはいつものようにその友達の嫌なことばっかり目に付いてよ。ありがとうは言わないし、店員には横柄な態度だし。あ、悪い──ちょっと愚痴言ってしまって」
「いいですよ全然、全部吐き出してくださいよ」
「いや、大丈夫。今ので少し落ち着いた」
有田は「そうですか」と呟くと、それ以上に何も聞かなかった。聞くべきではないと思ったからだった。そんな気遣いをしてくれる大切な後輩に、こんな空気にしてしまった城戸はハンドルが取れるくらいに回して話題をねじ曲げた。
「そういえば、有田って煙草吸ってるイメージないよな。人柄的にお前みたいなやつ吸わなそうだし」
「そんな風に見えますか? まあ別にそんな依存してないんで禁煙しようと思えばできますけどね」
「そうなのか。いつから吸い始めたんだ?」
「二十歳の頃ですね。大学に煙草吸ってる先輩がいたんですけど、滅茶苦茶カッコよかったんですよね。その人の真似して吸い始めました」
「だよな。成り行きはどうであれ煙草始める理由なんてカッコつけたいだけだよな。たまにストレスが〜、とかウダウダ言って誤魔化してる奴いるんだよ」
「あははっ、間違いないです。ちなみに、先輩が吸い始めたきっかけはなんですか?」
「そうだな。もちろん、ストレス解消のためにな! あとそれから健康的にも良いって聞いたしね」
「本当は?」
「次元に憧れたから!」
第三者が見れば本当に冷めた目で見るであろうくだらないノリに、二人だけが静かに笑った。
そこから他愛もない話が続いた。芸能人の不祥事だとか、遠距離恋愛してるだとか、自分のペットだとか、最近胃もたれするといった数分後にでも忘れそうな不毛な会話をだらだらと続けている。中身なんてない。頭なんて使わなくていい。特段盛り上がっているわけではないが、さっきの上司の説教に比べたら至福過ぎる時間だった。
根元まで吸った城戸は、少し名残惜しそうに火種を潰しスタンド灰皿に投げ捨てた。デスクワークで彫刻のように固まった肩と首をゆっくりと回していく。
「そろそろ戻りますか」
「おう、先に行ってるな。あ、ライター見つけてくれてありがとうな。本当に助かった」
「いえいえ、お易い御用ですよ」
そして戻ろうとしたところで、ふと城戸の頭に疑問の芽が顔を出した。特に深い疑問ではない本当に些細なことなのだが、すんなりと流すには靄がかかる。
「あのさ有田、ライター拾った時に真っ直ぐ俺のところ来たよな。何で俺の私物だって分かったんだ?」
ここの会社で煙草を吸ってる人間が何人も存在している中、ただの落し物である名前も書いてないライターをピタリと自分だと当ててきた件に疑問を持たざるを得なかった。
すると有田は、至極当然とばかりに城戸の胸ポケットを指さした。
「模様ですよ模様。先輩が使ってるジッポーライター、なんか独特ですもん」
あー、と声を漏らした城戸は改めて懐からライターを取り出し眺めた。
いやらしいほど金ピカな表面に経典が記され、その裏にはこれでもかというほどの怒り狂ってる般若の面が描かれていた。有田は独特と言葉を濁したが、簡潔に言うと趣味が悪いのだ。そんな品のないライターを使ってる人間を一目でも見れば、誰の持ち物かなんて一目瞭然であった。
「だよな。本当に趣味悪いよな。こんなライター、どこで売ってるんだよマジで」
「貰い物ですか?」
「ああ。誕生日にくれたやつ」
城戸は鼻で笑った。
そして頭に一人の男が浮かんできた。隣の部屋に怒鳴り込んで胸ぐら掴むような、そんな男のことが。
「ま、それだけだから。ありがとうな」
「いえいえ」
それじゃあ、と言い残し城戸は屋上から出ていった。
そんな姿を眺めながら、有田は大きく煙草吸い込んだ。そして、灰皿に投げ捨てて大きく息を吐いた。
「──そんなに焦るんやね」
ポツリと呟いた誰にも届かない言葉が、空へと飛んでいった。白い煙と共に。
2章 悩みの種
「なあおい。聞いてんのかお前、何俯いとんねんゴラァ!」
戌亥の怒声がファミレス中を覆っていた。家族連れから学生まで数多くの視線が集まる状況下で、アルバイトと思われる若い店員が謝罪の言葉とともに米つきバッタっている。嫌にフォームが綺麗なのを見ると謝罪のプロと見て取れた、かなりやり慣れてるな。
そんなことを思いながら、目立つ渦の中心で城戸は頭を抱えていた。
「何時間待ったと思ってんねん馬鹿たれが! なんやその態度」
「もういいだろ戌亥。すみません大丈夫です。僕達はもう大丈夫ですから」
「大丈夫ちゃうわ。え、何? 俺言ってること間違ってる? 俺たちの貴重な時間が無駄になったねんで。どういう教育してんねん。ちょ、もうええわ。お前じゃ話にならん、責任者呼べや!」
「おい、もういいだろって」
事の発端は休日に昼飯でもどうだとファミレスで集まったことだった。城戸はスパゲティとスープ、戌亥はハンバーグのセットメニューを頼んだのだが、待てど暮らせどそれが来ることがなかった。気配もなかった。一時間程の雑談を重ね、流石に不審に思い店員を呼ぶと注文が通っていなかったのだ。
確かに戌亥の言ってることは間違いではなく完全に店側の落ち度なのだが、人間誰しも間違いはあり絶対はない。その上、その店員の名札を見ると研修中と書かれている。入って一ヶ月もしていないアルバイトなんてミスして当たり前だ。その上の上、二人のこの後の予定も特にない。急ぎの用事はないのである。こんな出来事は怒鳴り散らすほどのものではないのだが、沸点が低い戌亥はどうしても許せないらしい。
同席してる以上、知らぬ存ぜぬで通せるわけもない城戸はテーブルに突っ伏していた。店中の人が声を潜めこちらを瞥見する中「頼むからやめてくれ」という城戸の声も、怒声を繰り出す本人に聞こえるはずもない。
やがて店長らしき人が現れ、アルバイトと共に必死に頭を下げている。その光景にとりあえず納得したのか、戌亥はようやく椅子に座り早く飯を持ってこい、と吐き捨てた。
……何をそんなに怒っているんだろう。ここの飯の代金だって、どうせ俺が払うんだからお前関係ないじゃん。一銭も払わないのに何でそんなに怒れるんだろう。
口には出してない。だから、伝わるわけもない。
「お待たせ致しました。こちらミートソーススパゲティのランチとデミグラスハンバーグのランチです。スープはセルフサービスですので。あとこちら、サービスのコーヒーとポテトフライでございます。本当に申し訳ございませんでした!」
凄い早口だった。急ピッチで作られた出来たての料理、心なしか量が多い気がする。サービスして量も増やしたからもう文句を垂れてくれるな、とその対応に胸の内が分かる。
間違いなく厄介な客と認定されている。
「ほらな城戸。言ってみるもんやろ得したで」
「いやいや、ちょっとは周りを見てくれよ」
「そんなことより食おうぜ。はい、フォーク」
ピンときていない戌亥に城戸は苛立ちを覚える。怪訝な視線を向けられている事が何故分からないんだろう。
フォークを受け取った城戸は、目の前に運ばれた大盛りのミートソースをズルズルと啜り、フライドポテトを鷲掴みにしてリスのごとく頬張った。
「……」
「何だよ」
「いや、別に」
城戸は一呼吸置いた。
「なあ戌亥、とりあえずマナーは守ろうぜ。店の中で大声出すのはアレだろ。疲れるしよ」
「そんなことないで、これでも俺結構喉強いから」
「他のお客さんもいるしさ。もうちょっとなんというか節度をわきまえるというか」
「いやいいやろ、俺たち客やし」
城戸は一瞬言葉を失った。
衝撃。ガツン、と頭に固いもので叩かれたような感覚がした。金槌だろうか、レンチだろうか。何れにしても頭の部品が飛んでいくような威力だった。有り得ない発言をし超然とした態度でいる目の前の男に、城戸は恐怖感を覚えた。
客だから店員を怒鳴ってもいい。利用しているから暴言を吐いてもいい。金を払ってるからなんでもしていい。そんなことはないし、あっていいはずがない。確かに店員は不手際をやらかしたが、大人ならゆとりを持って見逃すのが常識的ではないだろうか。注意するにしても、事を荒立てず警鐘を鳴らすべきだろう。
居心地が悪すぎる中、城戸は肥満も驚きの早食いで「先に出とく」と言い残し早々に店から飛び出した。会計を済ませて戌亥も残し、ファミレスから少し離れたベンチに座り込んだ。まだ寒い季節だが、手に持つ分厚いモッズコートを羽織るのも忘れていた。ただただ少し遠い景色を眺めていた。
怒りが踊っている。
脳みそをどこかへ投げ捨てた。頭の中でアナログテレビのような砂嵐が吹き荒れる。思考を放棄した城戸は、瞬きすら忘れている。眺めている眺めていない、何も見えていない。必死に抑え込んだ。爆発させたくない。感情と身体がバラバラだ。心を無心に。虚無。無機物。
思わず飛び出してしまった城戸だったが、この動揺が治まるのも時間の問題だった。
……分かってる、いつもそうだったから。大体こうしていれば、いつの間にか治まるんだ。
「お兄さん、横いいかい?」
白む逃避から横槍を入れられ、一気に現実へ引きずり戻される。ビデオテープがギュルギュルと音を立て巻き戻しをするように意識が戻った城戸は、突然のしゃがれ声を出した主を見た。
その老婦人は、城戸の横に座り大きく息を吸って大きく吐いた。それは鬱々たるものではなく、心地よい疲労感に浸っているようだった。散歩の途中なのかは知らないが、自分とは大違いだなと城戸は再び意気消沈としていた。
老婦人が城戸のほうを振り向いた。
「お兄さん元気ないねぇ。この寒さにやられたんかいな?」
「まあそんなとこです」
「あ、ちょっと待ってね。私がね、いいもんあげるから」
この感じ久しぶりだな、とノスタルジックだかノスタルジーだかノスタルジアみたいなのを感じながら城戸は横目で鞄を漁る老婦人に視線を移した。やがて自分の手を勝手に持っていき、それを上に置き握らせた。子供の頃によくあったまんまだ。
そして一言。
「はい、ゼリーちゃん」
「あれ?」
城戸は上擦った声を漏らした。
関西特有のコミュニケーションツールとして知らないおばちゃんが飴をくれるのが往々にしてあるが、手のひらに収まった寒天ゼリーがその通例に待ったをかけていた。まさか自分がちゃん付けで呼ばれると思っていなかったのか、その寒天ゼリーは具合が悪いかのごとく紫だった。巨峰味だ。
「こういう時は飴じゃないんですか? いや、嬉しいんですけどゼリーちゃんなんて聞いたことないですよ」
「飴ちゃんはちょうど切らしてんのよ。ま、飴もゼリーも同じようものでしょ。知らんけど」
多分違う気がする。
「それより、お兄ちゃんこの辺の者じゃないね。どっから来たん?」
「父の転勤で関西に来たのは十二歳くらいですね。それまでは東京に住んでたので関西弁じゃないんですけど、まあこっちに来てからの方が長いですね」
「へぇ、シティハンターやね」
「それを言うならシティボーイですね」
危うく始末屋に間違われるところだった城戸は、その不毛な会話にどこか心地良さを感じていた。それからも味のない会話が続き、やれネギが一番安いスーパーはどこか、やれ携帯のカバー選びで五時間家電量販店にいた、やれ梟を散歩させてる人がこの辺にいるといった無駄のない無駄話に、城戸の心の炎症はかなり治まっていた。主婦が世間話をする理由がようやく分かった気がする。
少しだけホームシックになってきた城戸は、そのユーモアたっぷりの老婦人に思わず口が動いてしまった。「あのっ!」と自分の想像していた声量よりも倍の音が出た。
しかし、続きがない。言おうか言うまいか揺れ動くその鈍い判断が、まるで釣られた直後の魚のように唇を引きつらせ痙攣させていた。今までこんなことを思ったことがないからだ。家族にはあった。後輩にもあった。先輩にもあった。だが、知らない人に悩み相談なんてしたことがない。何故してみたいと思ったのかは城戸自身も分かっていなかった。
不思議な時間が漂っている。独特な間だ。自分が何かを言おうとして止まっているのだから、とその状況に城戸は焦りと冷や汗をかいた。動悸も早くなる。焦れば焦るほど太陽も顔を出さないこの冬空のように頭が真っ白になっていく。
「待つよ」
砂嵐が失せた。ホワイトアウトした視界が散っていく。
「どうせ私は暇やからね。何か言いたいことあるんやろ? 待つよ」
さっきもそうだった。城戸の現実逃避していた白い世界を老婦人の一言が晴らした。なにか特殊の能力でも携えいるのかと勘違いしそうになった。もう障害物はない。
城戸は重たかった口を軽々しく開いた。
「友達と分かり合えないんです。常識がないというか、理性がないというか。ついさっきもファミレスで注文が取れてなかっただけで倒れそうになるくらい怒ったんです。確かにこっちは悪くないんですけど、店中に響くくらい叫ぶのはどうなんだよって感じで。これだけじゃなくてご飯行っても金は払わないし、いつも喧嘩腰だし、女にはだらしないし」
色々と溜まっていたのが湯水のごとく溢れ出てくる。水を得た魚のように達者になった口元に驚き、思わずチャックを閉めた。危険信号が出た脳に罪悪感が広がり、それに押しつぶされそうになる。急ブレーキをかけた城戸は噤んだ口を開き「まあ、そんな感じです」と歯切れ悪く話を打ち切った。
そんな城戸の姿を見て老婦人は笑った。クスリと微笑むような笑いだった。
「若いねぇ、清々しいくらい。私もそんなん考える時期があったね。あれ、あったっけ?」
まるで遠い過去を見るかのような表情をした老婦人は、鞄からメモとペンを取り出し何かを記し始めた。ペンを走らせる最中老婦人に「で?」と問われ、不意をつかれた城戸は「はえっ?」という間抜けで情けない声をこぼした。
老婦人はジロリと擬音が付く蛇のような鋭い目付きで、城戸を注視し眼鏡を押し上げた。
「あなたは、その子と友達やめたいの?」
心臓が跳ねた。
そして老婦人は続ける。
「あなたは、それをやめて欲しいって言ったのよね?」
鼓動が早くなる。確信に触れられた。目の焦点が合わず、見る必要もない足元を必死に凝視していた。返答することも忘れて。
そんな必死に冷静を装うとしている城戸の姿を見て老婦人は走らせるペンを止めてため息を吐いた。それはまたマイナス的な意味合いではなく、わがままでどうしようもないけど愛おしい子供や犬を見るような、そんなため息だった。
動揺しぼやけてる城戸の視界から現れたのは、さっき老婦人が書いていたメモをちぎったものだった。
「一つ、言わなくても分かる人。二つ、言ったら分かる人。三つ、言わないと分からない人。四つ、言っても分からない人。今のところ、あなたの友達は三つ目の言わないと分からない人か四つ目の言っても分からない人のどっちかよ。なぜなら、あなたが本音を言ってないからね。本音を言わなければ関係はこのまま進む。十年二十年と何も変わらず、友人という肩書きでね。だけど、そこからもう一歩進むためには──多分、自分でも分かっているんじゃないかしら?」
……分かっていた。目を逸らしてきただけで、ずっと分かっていた。何をどうすればなんて一番自分が分かっていた。
「でも仕方ないの。これは相性の問題で対処のしようがないの。自分と完全に一致した感性の人間なんて、この世に存在しないんだから。言っても分かり合えないことなんてザラなのよ。人間関係なんて妥協の連続よ。友達だって、恋人だってね。でも、パズルみたいにピッタリはまんなくてもいいのよ人間は。少しずつ擦り合わせて、お互いの納得いくラインを見つけていくのが友好関係のあるべき姿じゃないかしらね」
「……そうですね」
「あなたの気持ちは分かる、本音を言えない理由もなんとなくね。恐れないで、なんて無責任なことを言うつもりはない。ただ、ふとした拍子に激動する時が来るわ。きっとよくない形で、必ずね。自分でも分かってるんじゃないの? もう導火線に火がついてることを」
城戸自身もその予兆はしていた。あの感情がありえない行動をしているのだから。ただ、それで今まで凌いできた。破裂しないようにと。爆発しないようにと。
「悩めばいい。精一杯悩んで絞り出して感情むき出しになったそれが答えよ」
すると老婦人は立ち上がり太陽も顔負けの満面な笑みで口にした。
「ま、知らんけど」
関西人特有の投げっぱなした言葉は、ひどく適当でひどくサッパリしていて責任がなかった。呆然としている城戸をよそに「それじゃあね」と立ち去っていく。
その老婦人の後ろ姿はどことなく気品を感じさせ、相応に歳を重ね生きてきた貫禄がある。ベンチで項垂れてる男の悩み事なんて浅いと達観したような口ぶりで、積み上げてきた階段の一番上から見下ろしていると城戸は感じた。まるで本当に、太陽のよう。
そして少し前にエレベーターで出会った妙ちくりんな老年男性を思い出した。どちらも嫌なことをつついきたのだが、前回のと比べると今回の老婦人は間違いなく城戸の背中を押してくれていた。歩んできた道が違うだけであそこまで変わるものなのか、と人生の怪奇さを感じていたその時だった。
「おい城戸!」
後ろから声をかけられ振り向くと、複雑な表情を携えた戌亥が遠くの方から歩いてきている。ただ、城戸には裸眼でそれを認識できなかった。それほど微かに見える豆粒サイズの戌亥に、どれだけ大きい声を出しているんだと城戸は鼻で笑った。やがて目の前にやってきた戌亥は、城戸の頬を引っ張りこねくり回した。
「お前何やってんねん、高速で食って出ていきやがって。一緒に来たのに飯だけ一人ってなんやねん、どういう状況や。全然おもんなかったわ馬鹿たれ!」
「悪かったって。おい、俺のほっぺで遊ぶな!」
何故自分が謝っているのか分からない。ここだ、ここしかない。と、城戸は呼吸を整え眉をひそめた。心臓がうるさい。平常心を装いなんでもないふりをするが、荒れる息がそれはないだろうと示していた。
「どうした?」
流石におかしいと感じた戌亥は、焦燥感に駆られ過ぎてる城戸の姿に首を傾げる。
ここしかない、ここしかないんだろ。ここから一歩踏み出すにはここしかないのだ、と覚悟を決めた。長年抱えてきた痛苦や蟠りを吹き飛ばし、真っ白なキャンバスに改めて二人で彩って行こう。
そして城戸は、勢いよく戌亥の顔を見た。
「……」
……あぁ、ダメだこりゃ。
表情。その表情で城戸の決意が傾いた。ずっとそうだったから。見知らぬ人が現れ背中を押してくれた。コミックの世界だったら、それをきっかけに主人公は変化を起こし、物語は良い展開に流れていくだろう。だが、現実の人間はそう単純にできていない。自分という人間はそう単純にできていない。こんな程度の知れたきっかけでは──
「いや、なんでもないよ」
人は直ぐには変われない。
「そっか」と何も考えてないし悩んでなさそうな戌亥は駐車場に歩みを進め、城戸も追いかけて隣に並んだ。城戸の表情は雲一つない笑顔を持っていた。まるで何かを安堵したかのように。
怒りが踊っている。
いつもそうだった。
こうしていると、時間が解決してくれるのだから。
変化のない日常はまだ続く。
城戸は、太陽から目を逸らした。
*
新年を迎えた次の日の一月二日、正月休みであることから城戸は実家に帰省していた。冷たい街東京といっても全部が全部大都会という訳ではなく、閑静な住宅街も多く存在している。どちらかといえば今住んでいる場所の方が騒がしい気がする。そんな静けさや景色を思い起こしながら牛のように歩いていた。
今晩はすき焼きをするというのに一番肝心な肉を買い忘れるという緊急事態が起こり、忘れた張本人である素っ頓狂な母親から何故かおつかいを頼まれた城戸は、少し納得のいかない表情をしていた。暇だったから別によかったが、久しぶりに羽を休ませれる環境でのまさかのお願いに不満があった。家族に甘える、我儘という不満が。
携帯から伸びたケーブルが顔まで登り、その大きな物体は頭まで被さり両耳を塞いでいた。赤いヘッドホンだ。流れる曲はプロとは程遠い、名前も知らないような素人のカバー曲だった。有名な動画投稿サイトで投稿された曲を、機材どころかマイクすらチープな代物で勝手に素人が歌ってみているような、そんな音楽。だが城戸は、こういうのでいいんだよと言わんばかりに音量を最大にし浸っていた。
それ故に聞こえなかったのだ。後ろから声をかけられていることに。
「あ、あのー」
聞こえてない。
「あ、あれ? おーい!」
まだ聞こえてない。
曲が切り替わり次の曲に入ろうとしたところで、後ろから肩を叩かれてようやく気づいた。
城戸は、突然の肩に手を置かれて身震いをした。それは、知らない人に声をかけられて驚いたのではなく、社会人にて最も恐ろしい言われている上司からの肩叩き。咄嗟にクビを宣告されると思った城戸は、紛れもなく日本の歯車として社畜の一途を辿っていた。
振り向くとそこには上司ではなく、一人の女性が立っていた。セミロングにうねりが入った茶髪で目は一重ながらパッチリとしており、すれ違う男を目を引くであろう美女がいた。蠱惑的だ。
「もしかして城戸さんですよね?」
城戸は思った。何故この美女は自分のことを知っているのか、そして何故自分はこの美女を知っているのか。その疑問の種は、記憶を掘り返せば簡単に解消した。
「えーと、あ、あれだ。確か戌亥の彼女の……すずこさん?」
「りょうこです。青葉涼子」
城戸の頭の中で微かなズレが生じた。二人が対面で喋るのは初めてで、お互いがお互い戌亥を通して写真で見たことがある関係だった。そして戌亥が彼女の話題を出す際に「すずこが〜すずこが〜」というように名前を出していたのだが、実際にりょうこと名乗っている。大きくため息を吐く青葉の反応を見たところ、恐らく戌亥は彼女の名前をわざと間違えているらしい。あだ名か何か知らないが、その二人だけのノリを第三者に持ってきたら駄目だろう、と城戸もため息を吐き頭を抱えた。
急いでヘッドホンを鞄にしまうが、その光景を青葉は感心するように眺めていた。
「本当だったんだ」
「え?」
「いや、なんでもないです」
改めて目の前に佇む彼女の存在に疑問点が多くなる。辺りを見渡し景色を確認するが、何も変わっていない。決して大阪ではない、大都会東京の住宅街だ。
色々と聞きたいことがある城戸だが、馴染みのある顔でも対面で会うのは初めてなので、それなりのテンプレートに沿いだした。
「初めましてですよね。青葉さんの話は戌亥からよく聞いてます。多分あいつから聞いて知ってると思うけど、あいつの昔からの友達の城戸です」
「青葉涼子です。あと、歳上なので敬語は大丈夫ですよ」
「いやいや、それは駄目ですよ。友達の彼女なんだから、そこはしっかり線を引かないと。あいつも仲良くなり過ぎたら嫌だろうし」
「じゃあこっちから距離詰めようかな、城戸君! ──なんてね」
天真爛漫。そんな言葉がピッタリな青葉は、冗談を挟みながら本当に距離を詰めてくる。もはや冗談ではないのではないかと一歩後ずさった城戸だが、青葉の顔が陰っていくのを見逃さなかった。
「それに、京介はそんなこと思わないよ。私がどこで浮気しようとね」
木星にでも降り立ったのか疑いたくなるほ空気が重くなり、二人の体が少し傾き視線がズレる。目を背けてしまう現実から自然と身体に出てしまっていた。気まずい間を必死に埋めるかのように「ここじゃなんだしお茶でもどう?」と軌道を逸らし、了承した青葉と共に城戸は滅多に行かない喫茶店にソワソワしながら入店した。
チェーン店のような雰囲気は一切なく、アットホームでレトロな純喫茶に足を踏み入れ、佇まいから渋さが滲み出ているマスターに席を案内された。年季が入った家具はもちろん、ランプや時計は言葉では言い表せないような形をしており、まるでテレビで何度も再放送している長編アニメーション映画を手がける某スタジオ社の世界観だった。
どうしようもなく会話が起こらない中でショートケーキのセットを頼み、運ばれてきたコーヒーに脳までまろやかにしてくるビターな大人の香りに酔う。一口飲み一息、城戸は目を閉じ頭を抱えた。
「しまった、俺コーヒー苦手だった」
そんな間抜けな姿を晒す城戸を見て、青葉は小鳥のように笑った。今の今まで大人の余裕とばかりに格好をつけた態度だったが、即座にバレたボロが青葉の目にはとてもひょうきんに映った。
「城戸くんって面白いね」
この場を支配していた緊張が緩和していく。それを感じた城戸は喜色を浮かべ、丁度運ばれてきたショートケーキを口に運んだ。
「それにしても偶然ですよね。青葉さんはどうして東京に居るんですか、旅行?」
「いえ、帰省です。実家がこの辺なので」
「お、それは奇遇だ。俺もこの辺が実家なんです」
すると、青葉の頭の上にはてなマークが飛び出た。表情が分かりやすく、今喜怒哀楽のどれかが一目瞭然であり、そのコロコロ変わる感情に城戸はクスリと笑った。そして、何を聞かれるのかもなんとなく分かっていた。
「城戸くんって京介と小学生からの同級生ですよね。小さい頃から大阪に居たのに、何で実家が東京なんですか?」
やはり、と予想的中した質問に少し遠い目をしながら再びコーヒーを一口。
「小学六年生の時に親父が転勤になって大阪の支店に移動、それに伴い俺と母親も大阪に移住。そのままずっと大阪に住んでいて俺も大学選びは関西で探してたんですよ。無事に合格して大学も決まった時、親父がまた転勤で元の支店に行くことが決まったんです。元々住んでいた東京に家族が行って、大学が決まっていた俺だけが向こうで一人暮らし。そのまま関西で就職、とまあこんな感じです。年に何回はこうして帰省してるんです。どちらかと言えば、向こうの方が長いんでここは地元感がないんですけどね」
「そうなんですね。私も似たような感じですね。この辺で就職してたけど、転勤で大阪に。城戸くんほどではないですけど、もうすっかり向こうに馴染みましたね。いや、馴染んだで! なっちゃって」
違和感。四、五年関西で過ごした渾身の関西弁だが、どうしても違和感が拭えなかった。とある三人組のユニットも何度来ようとも大阪弁は上手になれへん、と何十年歌い続けている中、そんな個性が強すぎる方言を巧みに操れるようになる人はそういない。俳優や女優ですら関西人役は、出身でない限り違和感が出るしやりたくないものだろう。
しかし、城戸は違った。
「おい、なんやねんそれ。全然関西弁ちゃうやんけ。下手くそにも程があるやろ、ええ加減にせぇ! なんてね」
流暢に関西弁を発した城戸だが、その言葉遣いは関西人からしても少し棘がある。コテコテの大阪人の口調だ。毒の入ったような話し方にはどこか聞き覚えがあり、それは城戸だけでなく青葉にも心当たりがあった。
「関西弁、上手いね」
「ただのモノマネ。これくらいしか取り柄がないけどね」
「京介の口調だよね」
「正解」
和やかに脱線していた列車が急に戻ってきた。否、戻したという方が正しい。初対面ではあるものの、友達の彼女が悩みを抱えている状況であり、無視することもできたのに話だけでも聞けるだろうと城戸は重い道に線路を敷いた。先程の一言二言交わし場は緩和されているが、押し潰されそうなことに変わりはない。
改めて、城戸は聞く体勢に入った。友達の彼女の悩み。まあ、原因はその友達にあるのだろうけどな、と遠い目。己自身と相手の関係性の違い、青葉はすこし躊躇い言葉を選びながらぽつりぽつりと話し始めた。
「城戸くんは知ってるよね、京介が女の子にだらしないのを」
「うん」
戌亥は女性関係に積極的であり、彼女である青葉がいるにも関わらず、堂々と浮気している。青葉のことを愛していないわけではない、冷めたわけではない、だが欲求に正直な人間なのだ。良い意味で言うとモテる男であり、悪い意味で言うとただのクズである。
「ちょっと帰りが遅いと思ったらガールズバーだとかキャバクラだとかおっパブだとか、風俗とかソープに行ってきた! って自信満々言った時、料理してて持ってた包丁が京介の方に向いちゃったの」
店内BGMの音量が少し大きくなった。
「それは刺されても仕方ないなあいつ」
「でしょ! それなのに、英雄色を好むってな、とか意味分かんない馬鹿みたいなこと言っちゃって、しまいにはマッチングアプリで女の子と会ってたんですよ!」
マグマのように煮えたぎる怒り、それを無理やり冷やすように水が溢れ出る。青葉の頬を伝うそれは、言わなくても分かる悲痛の意を表していた。怒りではなく、悲しみだった。
「もう──辛いです」
辛い──こんな良い子である青葉に一つ線を引いてやることも出来ないのか、と城戸は複雑な気持ちになる。そして、食べ終わったショートケーキの皿を机の端に置き、コーヒーを呷る。鼻から漏れるほろ苦い香りを味わいながら、城戸は重い口を開いた。
青葉には自分みたいな目に遭って欲しくない、その一心だった。
「別れればいい」
「え?」
「そんなに辛いなら別れればいい。嫌なら別れればいい。他にも良い男は居る、それはもう沢山その辺に」
「……」
青葉は押し黙った。そんなこと言われなくても分かっているという風に顔を伏せ、唇をかみしめる。一口も食べていないショートケーキを前に、青葉は手を握りしめて何かに耐えているようだった。
そんな彼女の姿に、城戸はどこか近しいものを感じていた。自分も戌亥に対して不満が数え切れないほどある。小学生から二十代の後半に差し掛かった今の今まで、積もり積もった不満を引きずっている。ずっとずっと、きっと死ぬまで引き摺り続けている。もはや近しいではない、全く同じだ。
解消の方法は知っている。そして、それはたった一つだけ。少し前に出会った老婦人に出会った城戸は、その人物のお陰かせいか、対処法の再確認は出来ていた。
それにも関わらず、城戸はその方法をしなかった。青葉もしていない。その方法はかなりのリスクを伴い、場合によってはギターの弦のように切れるかもしれない。絶対に切れないものなんてなく、変な風に弾くと当然のように切れてしまう。切れないようにするとなると、どうすればいいか。そんなものは決まっている。ギター弦を緩めて放置すればいいだけだ。変な音が鳴るが切れはしない。
絶対がない。それを二人は途方もなく恐れているのだ。
「あの! ──っ」
一瞬の躊躇い。人との会話において不自然な間。言葉を途中で切った青葉は、フォークを握りしめ丸々一個あったショートケーキをものの数十秒で平らげた。ジョッキに並々入った生ビールに思わせるコーヒーの飲みっぷりで、青葉は勢いよく立ち上がった。
「はっきり言ってくれありがとうございます。でも、やっぱり京介と別れたくないんです。京介のことが、大好きだから!」
「そ、そうか」
あまりにも健気。あまりにも一途。
あまりにもあの男に勿体ない。
「はい、それはもう絶対に別れたくないくらい滅茶苦茶好きです。なので、利用できるものは全部利用しようと思います。たとえそれが、京介の親友であっても!」
青葉は意味深なことを口にした。
その勢いのまま青葉は財布からお代を机に出し「いや、ここは俺が払うよ」という城戸の言葉を遮った。もう二度と青葉の財布には入らないと決めたかのように眉間に皺を寄せた野口英世が目の前にやってきた。そのヨレヨレな千円札を押し返そうとしたが、既に帰宅の準備を完了していた。
「城戸くん、お願いします。いつでも構いません。京介にもう浮気するなって言ってくれませんか? 親友の言うことだった聞くと思うんです!」
「え? いや、でも……」
「城戸くんって──コーヒー嫌いじゃないですよね?」
突然の指摘に城戸の頭が動転した。さっきまで貫いていたキャラクターが撃ち抜かれて消えていく。
「あの場で空気を和らげようと嘘をついた城戸くんは、きっと良い人です。そんな良い人に私は付け入ろうと思います」
まるで自分は悪い子ですと言わんばかりに全てを明るみに出した青葉は、真剣な表情と宝石ように光る瞳で真っ直ぐ城戸を見つめた。城戸という人間は、嫌な人間であればたとえ上司であっても反抗する。馬鹿なのか天然なのか、はたまた全部ひっくるめて計算なのかは分からないが、悪い子になりきれてないというのが間違いなく城戸にとって弱みになっていた。
それでは失礼します、と嵐のように帰っていった青葉の後ろ姿を眺めながら呆然とするしかなかった。平らげて残骸だけのテーブルに気を使い、コーヒーをもう一杯だけおかわりした城戸は、今起こった出来事を整理していく。脳が休めという信号を出しているが、構わず動かし思考する。
結論も出ないまま携帯をポケットから取り出し、メッセージアプリを開いた。戌亥のプロフィール画像は、青葉とのプリクラであり、なんとも仲良しそうに映っている。あんなに彼女を辛い目に遭わせておいて、よくもまあのうのうとそこに載せれるもんだ。と思いながら戌亥のページを開き通話ボタンを押そうとした所で城戸の手が止まった。戌亥のプロフィールの背景画像に、自分がいた。この前の旅行の時に撮った画像だ。天然の温泉に入りながら男同士でツーショット、見ようによっては何か勘違いされるような関係性に見える。その満面な笑みからは、今自分がしている顔とは大違いである。この画像に写っている自分はきっと、嘘でも演技でもなく、心の底から。
──あー、ダメだちくしょう!
また折れた。
こうなったらもう駄目なことな分かっていた。既に押されている通話ボタン、木琴のメロディが耳元に虚しく奏でている。向こうの都合なんて知らないし、どうせ折り返しが来るのは分かっている。だが、今この通話は掛かってくれるなと願っていた。
しかし、城戸の祈りは虚しいものに終わった。
「もしもーし。おう、どうしたー?」
溶けている。とても眠そうな声は、人二人を悩ませてることなんて知ったこっちゃないと言っているよう。今の戌亥の状態は呑気という言葉が一番ふさわしいだろう。
「あー、いや……寝てたか?」
「いんや、釣りしてる」
「釣れてるのか?」
「いんや、釣れてない」
なんとなく、正月休みで暇だから一人で釣り堀に来たが、全く釣れずぼんやりしている姿が想像出来る。周りから声が聞こえない。そもそも年始から営業している釣り堀に感心する。恐らく、客もほとんど居らず戌亥だけポツリと釣りしているんだろう。
「今、お前の彼女と会ったぞ」
「そういえば、すずこもそっちに帰省してるんやっけ」
「たまたま会って軽くお茶した。つか、それだよそれ。お前がすずこすずこって呼ぶから、俺も間違えてすずこさんですよね? って呼んじゃったじゃねーか。あだ名ならあだ名って言えよ、滅茶苦茶失礼なやつみたいになったんだぞ」
これは違う。これはただの軽口であり、指摘と言えば指摘なのだが、軽く流せるそんなノリ、これでは駄目なのだ。
「なんやお前、あいつの本名知らんかったんか。笑える」
当たり前のように流された。
折れてしまっているそれを城戸は必死に支える。承諾していないが、頼まれたんだからやらなくては。それが社会人の勤めであり、約束を守る良い男の完成だ。「あ、あの、だな」と城戸はたどたどしく言葉にする。鼓動が早くなり、脳に酸素が回っていないのを感じる。まるでスカイダイビングのヘリコプターから身を投げ出した瞬間のような、そんな浮遊感を感じていた。
……そもそも何で俺がこんなことをしなければいけないんだろう。言いたいことがあるなら自分で言えばいいじゃないか。何故友達だからといって俺が代わりに言わなければいけないのか。どちらかといえば、交際している時点で俺よりもそっちの方が距離が近いよな。確かに俺は子供の頃からの馴染みだが、だからといって俺に託すのは如何なものかと。そもそも俺は良い人ではない。コーヒーの時だって、空気が悪いのが嫌だったからふざけただけで、誰のためでもなく自分のためにやっただけ。お門違いもいいところだ。ていうか……、
「ん、あれ? もしもし、電波悪いのか?」
急激に地球から呼び戻された。誰にも届けない心の中だけの愚痴を吐いていた城戸だったが、戌亥の声に朦朧としていた意識が目を覚ました。城戸は言うべきことが見つからず、あー、えーと、というなんの意味も持たない時間を稼ぐための言葉を繰り返した。二、三秒は稼げたがそれでどうにかなるわけでもなく徒労に終わった。
「ていうか、喫茶店と城戸って全然似合わへんな。普段から行ってないからやろうけど、コーヒー飲んでる姿が想像できへんわ」
「馬鹿言え、俺はコーヒー好きな方だぞ」
「嘘やろ、スタバとかコメダですら入りずらいって渋ってたお前がか?」
「ああ。コーヒーとケーキのセットをな」
すると、会話の中で変な間が空いた。インターネットの回線が悪くなったとか、魚が釣竿に食い付いたわけではない。ピタリと止んだ会話に疑問を覚えた城戸は、突然黙り込んだ戌亥に呼びかけた。
「すずこもケーキ食べたん?」
「え? まあそうだな」
「あいつ甘いの苦手やのに大丈夫やったんかなあ」
──え?
「ていうかそれってお前あれやろ」
「え?」
「……いや、なんでもない」
そのまま悪い用事思い出したと一方的に電話を切られ、机の上に虚しく置かれたお金を城戸はただじっと見つめていた。
ただただ、ずっと。
さっきまで怒っていた野口英世が今度は悲しんでるように見えた。
本当は全額払うつもりでいた。彼女にお代を払わすつもりはなかった、と城戸は心の中で言い訳じみたことを考えていた。無理やり胃に押し込んだ好きでもないケーキに金を払って何も言わずに帰っていった。悪い子になりきれていない。
違和感がある。何の違和感か分からないが、何かが喉に引っかかる。きっと、自分だけでは気づけない何かをしてしまっている。城戸は頭を抱えるが、その靄が晴れることはない。
何か、きっかけがなければ。
「どっちが良い人だよ、ちくしょう」
絞り出した情けない男の情けない言葉。青葉との差を見せつけられた城戸は、自分が気を使われたことに対し、頼まれたことを成し遂げられなかった意気地のない自分の姿に笑った。鼻で笑った。
怒りが──踊っていた。
*
少し曇った昼下がりの午後、閑古鳥が鳴いているようなラーメン屋で夢野は大欠伸をした。デスクワークで長時間座っていた体が、まるで光り輝くダイヤモンドのよう。凄く固く、凄く脆い。叩けばきっと崩れるであろうその体に、ガソリンを注入するようにラーメンを胃に流し込んでいる。口の中が油まみれだ。
ラーメンの味は悪くない。だが、良くもない。美味しいのだが物足りない、世の中にラーメンが広がりすぎたのだ。ラーメンの画像と検索して一番上に出てきそうなオーソドックスな見た目のものは、この試行錯誤を繰り返すラーメン業界ではやっていけないでいた。
しかし、夢野はここに通っている。味が良い店なら他にもあったが、古き良きジャンクなラーメンの虜になっていた。太客の豪快な食べっぷりに、奥で新聞を読んでいる大将もどことなく気分が良さそうだった。
その傍らで負のオーラを醸し出しながらラーメンを啜る男も一人。その姿に夢野は箸を置いてクマのような巨体でその男に向き直った。
「幸雄ちゃーん、何その態度? 先輩が珍しく奢ってるんやから喜べや」
「わーい、うれしっす」
「ははん、いい度胸やな」
城戸のやる気どころか生気も感じ取れないような空返事に、夢野は巨体とは思わせない素早さで後ろに回った。首に腕を回し二の腕で喉を圧迫していく、チョークスリーパーである。プロレスラーのような体格のいい夢野によく似合っていた。やられて分かる苦しさに城戸は「ぐえぇ!?」とヒキガエルのような声を上げた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいギブ! ギブアップ! マジでごめんなさい!」
「ここのラーメン美味しいよな、お?」
「美味しいです、毎週行きたいくらい美味しいです!」
「お前、今嘘ついたやろ? お仕置な」
「なんで!?」
体格差はかなりあるが、タダでやられるほど城戸も根性無しではない。チョークスリーパーから無理やり抜け出し、再び何かしようとする夢野の手首を掴み力いっぱい耐える。
寂寂たる店内に成人男性二人が謎の取っ組み合いをしている。見ようによってはパワハラだが、二人のやり取りがそうではないと語りかけてきている。喧嘩というより、じゃれ合っている方が正しい。
「大体よぉ、お前が昼付き合ってくださいっつったんやろ。知ってるやろ、俺には弁当があるって。愛妻のな!」
「何で毎日あんな美味しそうなの食べて馬鹿舌なんですか!」
店内です。
「もっと美味しくて豪華なのが良かったですよ!」
店長聞いてます。
非常識な声量と痛烈な批判に店長は傷つき、夢野は「いい加減にしろ」とチョップを城戸の頭に力強く下ろす。ゴツン、という鈍い音が店内に響き渡った。微妙に痛い。
城戸は大人しくラーメンを啜り、味わうというよりは腹を満たすためだけに咀嚼していた。
「で、何や?」
「はい?」
「何か用があったんやろ? でなきゃ、こんな無理やり昼飯誘わんやろ」
図星だった。初めから見抜かれていた。
夢野は大学からの誼であり、先輩という立場で長年城戸を見てきていたため多少の変化でも見抜けるようになっていた。結婚し昼食に愛妻弁当を持って来だしてから誘いづらくなっていたが、城戸はどうしても今日話を聞いてもらいたかった。
「で、何があったんや。恋愛か、恋愛やろ?」
あまりにも神妙な顔の城戸に、夢野は茶化しながらも真剣に向き合った。
「──戌亥のことです」
「なんや、あの犬っころの事か」
あっという間に興味がなくなった夢野はいつの間にか頼んだソフトクリームを口に運んでいた。気味の悪い紫と水色のミックスを楽しむ傍ら、城戸は一方的に話し始めた。
「まあ、なんというか最近──いや、最近じゃないんですけど常々あいつに思ってることがあって。なんというか言葉にするのが難しいんですけど、あいつに直して欲しいことがあったりして、でもそれを本人に言うのは違うんじゃないかとか。苦情とか恨み言ってほどスケールが大きいわけじゃないけど、ちょっとした文句とかいう、俺的に不愉快になるラインがあるというか──あれ、俺何が言いたいんだ?」
自分でも理解の範疇を超えた感情の複雑化に、城戸の頭はショートした。後半から口が勝手に開き、訳の分からないことを言っている自覚は多少あった。
夢野は腕時計を見た。まだ昼休み内だ。十分にゆっくりする時間は残っている。
「ま、幸雄が言いたいことはなんとなく分かったわ。要するにやな──」
夢野は大きく息をついて、
「怖いんやろ?」
ワントーン下がった声が夢野の真剣さを物語る。図星とばかり心臓が踊り狂い始め、城戸の表情はみるみる青ざめていった。強がるようになんでもない風を装うが、冷や汗が止まらない。怖い、何が? と城戸自身もいまいち分かっていない。しかし怖がっている。それは間違いなく戌亥の何かに怯えていた。
そんな姿を見て夢野は続けた。
「心につっかえてる何かを取り除きたいんやろ?」
城戸は頷いた。
「無理やな」
一刀両断。無情にも夢野は城戸の願望を破り捨てた。それもいとも簡単に、たった一言で。
「甘くない。そんなにな、甘くないんやわ」
願えば叶うほど現実は上手くできていないと、先輩の立場で夢野はそう告げた。
「まあ絶対に無理ってことやないで、今のお前では無理って話。そうやな、それじゃあ超頼れる先輩から可愛い後輩にアドバイスしたるわ。それはもう画期的で目が点になっちゃう方法をな!」
「な、なんですか?」
夢野は麺がなくなりスープだけになったラーメン鉢を男らしく手で持ち上げ、口に持っていき傾けた。ゴクリゴクリ、と豚骨ベースのしょうゆスープを大きく喉を鳴らしながらゆっくり流し込み、その光景を城戸はまだかまだかと待ち耐えている。恐ろしく長い間、緩和はまだかと苛立ちさえ覚える途方もない緊張の末に、夢野は満面な笑みで答えた。
「諦めろ」
それは今の苦しい状況を打破するような起死回生の提案なんてことはなく、とりあえず事態を何事もなく落着するだけの妥協案だった。
城戸はカウンターの机を力強く叩き、一ミリも親身になっていない夢野を猛獣のごとく睨めつけた。
「そう怒んなって。自分でも分かってるやろ、人間に絶対はないって。たとえ血の繋がった家族であっても、何か食い違えば離れるもんや。どれだけラブラブなカップルでも相手の嫌なとこは絶対にある。それを何も言わずにいたら無事に結婚できて相手と結ばれることができる。ただ、相手の嫌なとこを一生抱えて生きていくことになるけどな。関係を続けるというのは、そういうことの連続やからな。諦めたらいい。自分が我慢して飲み込めばいい。ただそれだけの話や」
すると突然、夢野は城戸を指さした。
「お前は食べ方が汚い」
「は?」
「どうやムカついたやろ? 指摘や」
素っ頓狂な声が出た。そしてピタリと当てられ熱、怒りが渦巻き目を白黒させる。そんな城戸をお構いもせず夢野は続ける。
「指摘というのは相手の問題点を指し示すこと。逆に言えば、自分の当たり前やと思ってること、つまり自分の中の常識をそれは間違ってるって否定することやねん。素直に受け取る優しい人もおるけど、大半は不服に思うはずや。店員に横柄な態度、金払ってる立場やから自分は神様。たとえ世間一般的に見ても非常識やったとしてもそいつの中でのそれは常識や。それを否定されたら、そんなん、揉めへんわけないやろ?」
「そう──すね」
「指摘を乗り越えたら一歩進めれる。ただ、指摘というのは相手を自分の物差しで勝手に計る。言わば、自己中や」
非常識な人間に常識を押し付ける非常識さ。単純でありながら複雑に混ざりあった感情が、城戸の頭の朦朧とさせていく。何度も何度も押し付けられた戌亥からのエゴには触れず、自分は耐えなければいけない。自分がそれを指摘すれば自分が自己中になる。
──そんな酷いことがあるのか。
「俺と幸雄は先輩であり後輩や。親友という立場には、そう簡単になられへん。俺はなりたいと思ってるけどな。まあ何が言いたいかっつーと、友達なんてそうそう作れるもんちゃうから大切にせんとアカンって話。諦めるのも一つの賢い手やで」
伝えること全部伝え終わった夢野は立ち上がり伝票を手に取った。財布をズボンのポケットから取り出す姿を見て、店長もレジの方に動き出す。短いようで本当に短い数十分という昼休憩が終わろうとしている。
まだ呆然とし動こうとしない城戸に、夢野は扉を開きながら振り向いた。
「あと一応言っとくけど、犬っころが全部悪いと思ったら大間違いやで。食べ方汚いのはホンマやからな
」
「それじゃあまたねー幸雄ちゃーん」と呑気な声に戻り、ガラガラと音を立てて扉を閉めた。まるで親身になってくれていない楽観的な先輩に、城戸は呆れながら鼻で笑った。
結局、何かが解決したわけでも気分が晴れたわけでもない。むしろ悩みが増えた方が正しい。
すると突然、胸の内ポケットに入った携帯電話が鳴った。綺麗な木琴の音がなりメッセージアプリを開くと、さっき別れた夢野からだった。トーク欄を開くと『これでも食べて元気になれよ!』というメッセージと共に、チキンが有名なファーストフード店のギフトが贈られてきた。
そしてもう一つ『そもそも犬っころにベッタリ過ぎるねん、必要なんは適度な距離やで。これでサクッと好きな子作れ』と送られたURLを開くとそれは現れた。
「──マッチングアプリ?」
3章 爆発
マッチングアプリ。SNSを通じて恋仲を成立させるお手伝いをする恋愛サービス。2012年頃に現れたそのサービスは瞬く間に若者の中で広がり、インターネット越しに関わった男女がカップルとして成立することが常識的になっていた。一昔前までは、名前も知らないインターネットで知り合った人間と現実の世界で出会うなんてことは危険でありえなかった。現に今も、マッチングアプリで急増した人口とともに犯罪に巻き込まれることも増えているのだが、そのリスクを犯してでも恋愛発展に勤しむ人間が増加している。
そんな携帯アプリを目の前に、よく悩む男が頭を抱えて自室の机に項垂れていた。どこぞで買ったか分からない一風変わった壁掛けの時計が、清く正しく美しく時を刻んでいた。午前よ三時半を指している。この状態になってから一時間は経過している。
まるでロダンが制作した銅像の考える人のようになっている城戸は、一週間前から心ここに在らずといったところで、マッチングアプリを目の前に何もしないという時間をただただ無意味に生産している。特に意味もなく過ぎ行く日常にどこか期待をしながら。
城戸の恋愛経験は微々たるものであり、大学の頃にサークルでたまたま付き合えた一回だけである。半年ちょっとで別れた彼女だが、それを引きずりに引きずって今現在の二十代後半になってもまだ引きずっていた。相手の未練はとうに消えていたが、無惨にも浮気されたトラウマが心の底にびっしりと根を張り植えつけられている。また振られて同じ過ちを繰り返すくらいになら恋愛なんてしない方がいい、と少子高齢化社会の原因を無視する日本の泣かせの身分になっていた。
親の催促もあり、そろそろ結婚を考えてもいい歳だとは自分でも分かっていた城戸は、戌亥との関係も加味し焦点をズラすことを考えていた。
好きな人が出来れば戌亥との時間が減る。
恋人が出来れば戌亥の不満も許せる。
妻が出来れば戌亥から離れられる。
そしてようやくマッチングアプリを指で押し開いた。携帯でマッチングアプリをダウンロードして一週間のことだった。
「よーし、よーしやるぞ。もういい加減やるぞ、落ち着け。落ち着けよマジで」
要は女の子と関わることにビビっていた。チキって、いもって、こしって、キョドっていた。
まだ誰にもメッセージを送ってないし、最初にやる自分のプロフィールすら登録していないのに心臓が暴れている、BPMが百九十になったぞ。城戸は海の底の深海まで潜り込んだ奥の手であり、仕事以外であるプレイべートでの女性の接し方をすっかり忘れていた。青葉の時は戌亥の彼女だと割り切っていたが、いざ自分が戦場に立つと足が震えて仕方なかった。
「あー、もう俺何してんだろ」
城戸はプロフィール画像として自分の顔画像を何百枚も選んでる最中に我に返った。
特に突飛して不細工なわけではないが、イケメンと断言するには荷が重い。可もなく不可もなくの顔を少しでも良くしたいと、悪足掻きのように編集で明るさやコントラストを弄くり回す。しかし携帯での機能なんてたかが知れてるし、素人の技術でどうにかなるほど甘くない。編集すればするほど虚しく、そして惨めになっていた。
編集の手を止め改めて写真を選び直し、旅行に行った時に撮った一枚を選んだ。戌亥との旅行の一枚に複雑に思いながらも、あまり慣れてない笑顔が映っている奇跡の一枚を選び抜いた。奇跡と言いながら完璧というには程遠い、本当に無難なものだった。本名を公表しないタイプらしいので名前をイニシャルでY.Kと表記し、時間をかけて作成した自己紹介欄を何度も見直してようやく登録が終わった。まだ誰ともマッチングしていないのに、海外旅行をしたかのような有り得ない次元の疲労が城戸を襲った。
液状になり机に混ざり合おうとしている体に鞭を入れる。一押し二金三男、ここはデキる男として押さなければ、と城戸は頬を叩き気合いを入れ直した。
条件と相性でピックアップされた女性が次々と現れる。往々にして、プロフィール画像とは似ても似つかない人が現れる事もあるらしく、流石の慎重な城戸も更に慎重にならざるを得ない。スライドしていくと学校で一軍であったであろう美女や、本当に成人しているのか疑いたくなるほどの童顔淑女、行き遅れたのか破綻したのか少しキツイものがある中年女性から、嘘だろと言いたくなる位にとんでもないほどのアレもいた。無限にある恋と繋がりの可能性、臆病者である自分にとってうってつけであり良い時代なったものだと、溢れる女性を見ながら関心していた。女性を厳選するのはいかがなものかと思いながらも、明らかにハードルが高い美人は避けていくが、あの人もこの人も自分には荷が重いと先行き不安に際悩まれた。
やはり自分には向いていないのではと脳裏にちらつき出したと同時に、城戸の手がピタリと止まった。あまりにもなインパクトに止まらずにはいられなかった。
大抵は友達に外で撮ってもらったであろう楽しそうな笑顔の写真や、加工写真アプリで少しでも盛ったような写真を載せるのが一般的だが、その女性は真っ白な背景にポツリと映っていた。楽しそうな笑みはなく、ただただ真面目に縁の太い眼鏡を携えて。
証明写真だった。
「ふふっ」
思わず笑みが零れた。真面目なのか天然なのか、出会いの場に面接のごとく鎮座している彼女に城戸はシンパシーを感じていた。
イニシャルはK.T。彼女のアイコンをタッチしプロフィールを読んでいくと、堅そうなイメージとは裏腹に自己紹介欄は普通な印象だった。普通すぎる。まるで定型文をそのままなぞったかのような違和感があった。
「あっ」
再び城戸は声を漏らした。
彼女のプロフィール画像、メインの証明写真とともにサブの写真があった。何処かで撮った夜景と素朴でありながら美味しそうな料理と部屋で撮った犬の画像。城戸は最後の犬の画像に目が止まった。
間抜け面をするコーギーを大事に飼っている印象だが、城戸の着目したのはその犬ではなく場所だった。恐らく彼女の部屋であり、コーギーの後ろに写っている本棚。少しマニアックであり知る人ぞ知る隠れた名作、そのアニメの限定DVD-BOXが並んでいた。
「あれっ?」
気づけば彼女にメッセージを送っていた。
〝俺もそのアニメ好きです。同じもの持ってます〟
いの一番に送ったメッセージの気持ち悪さに城戸は慌てて、謝罪のメッセージで軌道修正を図った。そもそも彼女はプロフィール欄にアニメについて書いておらず、勝手にアニメ好きだと解釈していた。同士だと勘違いして変な文章を送るだなんて不審者にも程がある。よく悩む変態男は、やってしまったそうだ死のう! と今すぐアカウントを消すか葛藤していた。
しかし、城戸の感情とは関係なく無慈悲にも携帯は鳴り響いた。
〝初対面でいきなり女性の部屋をジロジロ見るのはいかがなものかと……〟
……えーとあれどこだっけ? あ、ないか。人一人吊るせるいい感じのロープってホームセンターに売ってるかなぁ…。
自暴自棄になる城戸だが、なんとか精神を保ちつつ返信のメッセージを打っていく。
〝本当にすみません! ただただ話がしたいが先走ってしまいました。コーギーちゃん可愛いですね、お名前を聞いてもいいですか?〟
〝ダイアナです〟
〝もしかして、あのアニメの?〟
〝はい。一番好きなキャラクターなんで〟
〝僕もあのキャラ大好きです! いつも主人公と二人がいがみ合ってたのに、ラストで共闘するシーンは見ててワクワクしました。そんな素敵な名前を授かるなんて羨ましい限りです〟
〝男性の方ですよね?〟
〝そうです。バリバリのアラサーです〟
〝面白い方ですね〟
奇跡的に会話が続いてることに悶々としながらも、ここ数年味わってなかった異性に対する動悸の高まる感覚に、城戸は笑みを浮かべていた。本当に誰にもいない家で良かったと思える。にやけ顔が不審者でしかない、性犯罪者に部類されるだろう。
〝それにしても、通知が来た時は驚きました。半年前に登録したっきり放置でしたんで〟
〝そうだったんですね。そんな事情があるのにも関わらず、突然いいねを送ってすみません〟
〝いえ、全然大丈夫です。むしろ、嬉しかったです〟
メッセージの一つ一つに一喜一憂する城戸は、それからもたわいもない話を送った。直ぐに返信したら変に思われる、なんて思考にもならずメッセージが来たら即レスポンスしていた。落ち込んでいたテンションが嘘のように目を爛々とさせ、城戸の中である一つの欲望を掻き立てさせていた。
もっと彼女のことを知りたい、と。
〝もっとKTさんのこと知りたいです。よかったらどこかお食事でも行きませんか? これ、私の連絡先です〟
そのメッセージを送った瞬間に城戸は後悔した。短時間で食事に誘うなんてタチの悪いナンパ以外の何物でもない。そして漂う必死感。完全にがっついてる男に見られた、と城戸は誰もいない部屋で一人、カーペットの上で裏返った虫のようにジタバタと音を立てながら悶えていた。
間。
まるで音楽がブチリと聞こえなくなる突然断線したイヤホンのように、さっきまで順調に行われていた会話に途切れが発生した。三十秒もすれば返ってきていた返信が来なくなった。
「やってしまった」
何度も目をこすりながら一向に返ってこない城戸は、その呆気ない幕引きに清々しさすら感じていた。元々、そんな上手くいくとは思っておらず、そもそも自分には恋愛に向いてないと自覚していた。ただただ今の現状が嫌で目を逸らそうとした。
「さて、そろそろ現実逃避も終わるか」
いい気分転換になったと城戸は携帯を置いて体を伸ばした。気持ちよく鳴り響く骨、空しい骨音は細身の城戸によく似合う。中身のない骸骨と化していく男は、その重たい瞼を閉じてミイラのように眠りにつこうとした。叶うことなら永遠の眠りにつこうとした。
そんなタイミングだった。
ポロン、と音符マークの一つでも付きそうな愉快な木琴の音が空気を読まず鳴った。
眠りを阻害された城戸は携帯を億劫そうに手に取り、眠いを目を擦りながら開いた。
〝田中加奈といいます、よろしくお願いします城戸幸雄さん。早速ですが、どちらでご飯にしましょうか?〟
城戸は思わず立ち上がった。
マッチングアプリではなく、さっき教えた自分の連絡先である別のメッセージアプリで送られてきたその伝達。イニシャルK.T、そして見覚えのあるコーギーがアイコン。確定だ。
心が踊る。眠気がどこかに消え失せた。まさか本当にインターネット越しで人と繋がれるだなんて夢のようだ。久しぶりにこんなにテンションが上がった城戸は、急いで彼女に返信しようとした。
そして同時に通知が入った。まるで阻害するかのように送られてきたメッセージをちらりと見る。
あの可愛らしいコーギーと裏腹な狂犬からだった。
〝おう城戸、明日飯付き合えや! 金欠やからまた奢ってくれ!〟
品性のないガキ大将のような文章。
いつもだったらこのメッセージを送られてため息の一つでも漏らしていただろうが、今日の城戸は違った。否、たった今の城戸は違う。
「うわ、すげぇ──なんだこれ」
許せる。城戸自身も不思議でならなかったが、こんな理不尽なことにも笑って許せてしまう。城戸の中で希望の種が生まれていく。何を今まで悩んでいたんだろう、と言わんばかりに城戸は誰にも居ない部屋で一人歌を歌った。歌詞もなければ誰かが作った曲でもなく、ただただ歌いたいように子気味良く歌った。実に清々しい気分だった。
夢野の言う通りだった。確かに自分は戌亥にベッタリだった、これを機に離れられれば。
そんな期待を胸に、城戸は嬉々として携帯を指で滑らした。
*
日曜日の午後、大阪駅の中央改札前。
群れる小魚のような混雑ぶり。むせ返るような人だかり、昼休憩のサラリーマンが多い。疲労困憊と見て取れる中年もいれば、デート中のカップル、学校帰りの中高生、どこか遠出をする家族もいれば、楽器を背負ったバンドマンや怪しげな不審な男もいる。色んな人生が渦巻く大阪駅に、清く正しく美しく身なりを完璧に仕上げてる男もここに一人。
城戸は携帯を触るフリをし、カメラ機能で何度も自分の身なりを気にしていた。久方ぶりに気合を入れて付けたワックスで、髪を岩のように固まっている。そんなガチガチ男はしばらくしていなかった異性とのお食事、基デートに頭だけでなく心身ともに固まっていた。
高まる鼓動にニヤつく口元を必死に結んでいく。城戸はなんでもないよ、とすまし顔を作り大人の余裕を演出するが、肩に力が入りすぎており、誰もが緊張していると見て取れた。
城戸は腕時計で時刻を確認した。時計の針が四時を指している。彼女と合流するのは六時であり、時間が有り余っている。デートの待ち合わせ時間で、五分前行動だとか猶予を持って十五分だとか、三十分前居るべきだとかそれだと女性に気を使わせるだとか議題に持ち出されることが多い。だが、我慢できず家を飛び出し二時間も前から佇んでいる男はかなり珍しいだろう。
「時間でも潰すか。このままじゃ案山子になっちまう」
用意周到二時間前集合という行動に流石に奇っ怪だと気付いた城戸は、特にすることもなく歩を進めた。フラフラと擬音が付きそうなほど宛もなく歩いている。デートの下見でもしようかと思ったが、一週間前と三日前と昨日とで既に三回行っていることに気付いた。
喫茶店でアイスコーヒーでも啜っておくか、ファーストフードでポテトでも貪っておくか、洋服屋でオシャレに舞い踊るか、本屋で好きな漫画の新刊でも回収しておくか、楽器店で弾けもしないピアノを傍観しておくか、ペットショップでガラス越しに犬や猫を茶化しにいくか。なんにしてもまだ子寒いから建物内に行こうと決めた城戸は、気合いを入れ直し歩みを速めた。
どこに行こうかと悩んでいるが、城戸の足はまるで目的地が決まっているかのように動いている。選択肢は無数にあるはずなのに、一本道かのように進む。行き慣れた経路だった。
「やっぱここだよな」
アニメショップ。城戸の目の前に広がる店は間違いなく、オタクのオタクによるオタクのためのオタクの盛り場。アニメやゲーム好きには堪らないその憩いの場に城戸は、学生時代から何よりもお世話になっていた。そしてこれからも。
城戸はアニメショップに足を踏み入れた。ここでしか吸えないよう独特な匂いに少し酔う。頭がぼやけて財布の紐がが緩くなりそうになるのをなんとか耐えていた。特に何か買いに来たわけでもない。見るだけで楽しめる、暇つぶしにはうってつけだ。
最新のアニメグッズから少し古い作品のもの、萌えているものから腐っているものまで数多く取り揃えている。
しかし、無数にあるアニメから全ての作品が置いてあるというわけではない。話題になった作品から固定客が多い作品、安定してる物もあれば人気が落ち着いたから取っかえ引っ変え退場させられる作品もある。
「──やっぱりないか」
城戸はカプセルトイ、またの名をガチャガチャに肘を置き肩を落とした。
もう時期に合流する女性との始まりでもあるアニメ作品のグッズを探していた。店内を何周も周り男があまり寄るべきではないコーナーにも立ち寄ったが、その作品は存在しなかった。
マイナーな作品は売れ行きが悪くなるから置かない。大人になったら理解してしまう虚しさがそこにあった。子供が楽しむアニメに複雑な大人の事情絡む、夢もへったくれもない。ノンフィクションの世界は辛いことで溢れていた。
そしてふと、フィクションのような奇跡も起こることが現実にある。
「あっ」
「おっ」
現在、午後四時半。合流時刻、午後六時。
ハモる声、交差する視線。大阪駅で出会うはずの二人がアニメショップにいた。棚からか開いた口だか知らないが、転がってきた牡丹餅に開いた口が塞がらない。
城戸は舌が縺れながらもなんとか口を開いた。
「こんにちは、本日はお日柄もよく」
吃りと震え。髪型どころか体全体がガチガチに固まった城戸は、その拙い言葉を途切れないよう紡いでいく。途中から何を言っているのか自分でも分かっていなかった。
そんな緊張丸出し男に彼女、田中加奈はクスリと笑った。
「偶然ですね。本当にアニメがお好きなんですね、私も君も」
一言一言、加奈の放つ声に城戸は頭がピンク色に滲んでいく。今まで携帯からの写真と声だけでしか感じ取れず、どのように喋っているのか想像するしかなかったのだが、今こうして目の前にいる。いい歳をして心臓がどうにかなりそうになっていた。
加奈がアニメショップにいた理由もなんとなく察していた。自分と一緒、食事まで時間があり暇つぶしに自然と寄ったのがここだった、ただそれだけだ。
しかし、そんな偶然も運命ではないのだろうかと城戸は浮かれていた。よくよく考えればそんなに低い確率ではないのだが、どうしようもなく浮かれ過ぎていた。
「改めて、田中加奈です。今日はよろしくお願いします」
「あ、城戸幸雄です。こちらこそよろしくお願いします」
加奈は城戸の顔を覗き込むように見た。
「城戸さんは写真で見た時よりも大人びてますね」
「そ、そうですかね? 田中さんはあまり変わらないですね。少し髪が長くなったくらいかと」
「半年前の写真ですからね」
「その、なんというか──素敵です」
「ど、どうも」
たどたどしい。まるで中学生のカップルかのような初々しさであり、なんとも甘ったるい空気が流れていた。
「えっと、どうしましょう。とりあえず、喫茶店にでも──」
と、言いかけた城戸を「待ってください!」と加奈は遮り袖を掴んだ。澄んで透き通る声は店中に響き、そこにいる店員と客は何事かと二人を見やった。視線が苦手な二人だったが、今はどうしてか気にならない。
「もう少しここに居たいです。城戸さんと語り合いたいです」
二人だけの世界。甘ったるさに拍車がかかりだした。
城戸の心が踊り出す。前の彼女はアニメや漫画やゲームに興味がなく、自分がオタクであることを隠していた。そもそも戌亥ともあまりアニメの話をすることがなく、いつもSNSで一人呟くのが当たり前だった。
初めてだった。こんなにフルオープンになれるのは。
「いきましょう!」
「わわっ!?」
城戸は思わず加奈の手を握った。躊躇はなかった。いやらしい感情なんてなく、ただ同士として彼女に触れていた。
「端から行きましょう! 全て語りましょう!」
自己紹介なんてしていない。お互いのことは名前しか知らない。共通点はアニメ好き、ただそれだけだった。それだけで十分だった。
オタクとはそういう生き物だ。野球にしろ料理にしろアイドルにしろ鉄道にしろ、自分の好きなものを共有したがる。何のファンだとか誰が推しだとか、様々な意見を主張し合い同気相求む。好きを突き詰めていき世間一般には理解されない領域にまで展開された人種、積もる話を後にできない、それがオタクである。
棚の端からグッズを見ていくと、お互い知っている作品から見たことある作品、更に好きな作品も被っていた。話に花が咲くどころか、既に花畑の絶景に溶け込む。
時刻は既に午後六時。
オタクとオタクは惹かれ合う。同じ趣味、同じ好み、価値観や波長も合う。
城戸はシンパシーを感じていた。
この人だ、この人しかいない、と。
城戸は酔っていた。お酒は飲んでいないが酔っていた。この甘ったるい空気に酔い切っていた。普段行くことのないテーマパークでテンションが舞い上がり、絶対に必要のないぬいぐるみやキーホルダーやお土産を大量に買ってしまい、家に帰って冷静になればお金を使いすぎて後悔する、そんな感覚に似ている。
「結婚を前提に付き合ってください!」
そして城戸は、先走った。
段階のすっ飛ばし。
それはフィクションのようなテンポの良さ。
そして──
「いいですよ」
フィクションのような都合の良さだった。
*
「忘れてください」
イタリアンな料理に囲まれたテーブルに額を擦り付けて頭を下げている城戸は、取り返しのつかない痴態に深く謝罪していた。そんな頭を下げる見える旋毛を眺めながら、加奈はカルボナーラをフォークで巻いていた。
「何故ですか?」
「何故ですか? って何故?」
「ん?」
「うん?」
加奈は眉をひそめ口を尖らした。
「さっきの告白は冗談ということですか? 人生の分岐点となる大切な結婚を踏まえた告白をシャレで言ったんですか?」
そんな強気な発言に城戸は「いやいやそんなつもりは!」と、はいかいいえか二通りの意味に取れるあやふやな返答をした。
漫画アニメやゲームの談義に夢中で分からなかったが、改めて正面から話すと山田加奈という人物像が鮮明になってきた。想像よりも気が強く、それは教室の隅で大人しそうにしているイメージとはかけ離れている。ヤンキーやギャルといった類の気の強さではなく、クラスを纏める厳しい委員長のような性格をしていた。
そんな堅物で生真面目な加奈が、何故初対面の出会って数時間の男に心を許し、愛の告白を受け入れているのか城戸は不思議でならなかった。
加奈はクスリと笑った。
「私は本気ですよ」
心臓が何度も高飛びに挑戦している、コメディ映画のように口から出てきそうだ。城戸は思わず立ち上がった。茹でダコのように顔が赤くなり熱を冷まそうと一服でもと思ったが、加奈の真剣な眼差しが逃さまいと言っているようだった。体が硬直し席に座らされ、ゆっくりと縫い付けられる。これで逃げられなくなった、逃げるべきではないと自分の中の男が思ってしまった。
「元々親から結婚の催促がしつこいということもあったんですよね。それを抜きにしても、この人ならいいかなって思っちゃったんです」
「えっと、僕たちまだ出会って数時間ですよね?」
「城戸さんは男女の交際を重く捉えていますよね? 過去に何か大きな恋愛をしたように感じます」
名探偵かのように正確に当てられた恋愛事情は、ベタ惚れしていた彼女にこっぴどく振られる悲惨な末路。二十代後半でこの一回しか恋愛をしていないということから、異性に対して遊びという概念が備わっていなかった。
だからこそ、つい先程口から零れた愛の告白にも遊びなんて生半可な覚悟ではない。
「私も同じだからです」
それは、加奈にも伝わっていた。
「恋愛なんか今の小学生にも敵わないほどしていないんです。当時付き合ってた男に言われました、お前は重いって。私は本気で向こうは遊びだった。分からないんです、重くて何が悪いのか。価値観の相違です」
加奈はガラス越しの夜の街を眺めた
。
「交際、つまりは婚約。愛する男は一人でいい、遊びの恋愛なんて考えられない。結婚で大事なのは顔じゃない。優しさじゃない。どれだけパートナーとの常識を許容できるか、と私はそう思うんです。ただ単純にアニメやゲームの趣味が合うから心を許したわけではないんです。ただただ私は重くて、君も重い。尺度が似てるというのは、恋人に向いていると──」
すると、加奈は言葉を言い切る前に頬を赤く染めた。その姿に、城戸も既に赤い顔を更に赤らめた。お互いに目が合い、サッと擬音が出そうなほど勢いよく逸らした。まるで初々しい中学生カップルのような空気が流れている。
年の差がおかしい男女やちょっと背伸びをした大学生集団、一人でお酒を楽しむ淑女や分かりやすく付き合いで連れてこられているサラリーマンと、多種多様な人間が生み出す喧騒の中で、二人は二人だけの世界に浸かっていた。穏やかな風が吹く雑音のない世界、いつまでも居続けたいと思えるような、そんな空間。
たわいもない話をし、会話と会話の間で起きる静寂。他人となら会話が途切れて絶対に気まずい筈なのに、その間すら心地よく感じていた。モヤはもうどこにもない。
「あ、あの!」
時刻は午後の十一時。
締め付けられる心臓。
予想よりも大きく出た声。
振り返る客。
荒れる息。
間。
「さっきの忘れてくださいと言ったの忘れてくれませんか!」
絞りに絞った勇気で城戸は口にした。「付き合ってください」と。ついさっきのノリと勢いではなく真正面から真摯な姿勢だった。グツグツと煮えたぎる。沸騰した顔が今にも噴火しそうになりながら返答を待った。城戸も。ガヤも。
せっかちな人間には我慢できない胃もたれしそうな長ったらしい時間。どこからか生唾を飲む喉の音が聞こえた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
城戸は何かから解放された。それはとても心地よく、空気を蹴って空でも飛んでいけそうな愉快な感覚だった。流石に空は飛べない城戸は、歓喜の感情を全て集約した熱いガッツポーズを小さく取った。
───ぱち、ぱち。
乾いた音。手を叩く人間が一人、また一人と増えていく。拍手の嵐とは言わないまでも、大雨のクラップ音が店中を包んだ。誰かが拍手したから合わせただけ、ただただ盛り上がる口実が欲しかっただけ、本当におめでたいと思ったから、と各々がどのような感情を持ったのか分からないまま拍手は起こった。
その渦中にいる城戸の加奈は注目されることに慣れておらず、紳士な怪盗も驚く程に素早く店を逃げ出た。
季節はまだ冬。恥ずかしい熱を冷ますにはちょうどいい。
「あ、これマフラーいるわ」
ちょうどよくなかった。
「城戸さん、なんでそんなに軽装で来たんですか?」
「オシャレと言えば軽装でしょ?」
偏見である。
少し落ち着いた中、何気なく公園に入りベンチに座った。「ちょっと待ってて」と言い残し、城戸は胸ポケットに入れている財布を取りだし自動販売機の前に立った。小銭を取る手がかじかむ。それは寒さなのか、緊張なのか自分でもいまいち分かっていない。
温かいブラックコーヒーと紅茶を押し、出てきた缶とペットボトルを抱え急いで戻った。城戸は財布を開いてる加奈を制し、押し付けるように紅茶をあげた。だが、加奈はまだ財布を仕舞おうとしなかった。財布から顔を出す一人の樋口一葉と二人の野口英世に、城戸は眉をひそました。
「受け取ってください、さっきの食事代も込みで」
「いやいや、大丈夫ですよ」
「私は奢られるのが好きじゃありません」
「こういうのは男が払うものなんです」
へへへ、と得意げに言う城戸に加奈は口を尖らせた。
不服そうな彼女を横目にコーヒーを一口、口に広がる苦味とまったり心地よい独特な良い香り。寒空の下でより一層美味しくなったそれは、凍えきった体を芯から温めていた。
「……」
「あれ、どうしました?」
「いや別に。それより、こうして付き合えたんですから考えていきましょう。これからの事を」
加奈は顎に手を当てて考え込んだ。
「付き合うって何をするんですか?」
「それはあれですよ────あれ?」
城戸も顎に手を当て首を傾げた。
「付き合ったら何をするんだっけ?」
城戸が女性と交際したのはたった一度であり、七年も前ということもありカップルという概念がすっかり薄まっていた。クリスマスには何をするのか、初詣で社寺の前でイチャつくのか、バレンタインはいつの日だったか。お互いがお互い何もかもを忘れていた。
熟考する二人。まずは敬語をやめて下の名前で呼び合うのはどうだろう。何かお揃いの物を買いペアルックするのはどうだろう。週に四、五回は通話して話をするのはどうだろう。祝日に旅行に行くのはどうだろう。次々と案が出し合うその光景はまるで会社のミーティングのようであり、カップルという風には見えない二人だが、恋愛というものを正面から真剣に真摯に考えている。ふと、加奈は自分たちの姿を客観視し、あまりにも一心に取り組む姿勢に思わず笑ってしまった。規格外な素っ頓狂であり、吹き出した加奈を見て城戸もつられて笑った。
一頻り笑い、少し疲れた午後十一時半。
時計を確認した城戸は、もうすぐ終電がなくなることを危惧していた。別に自分は帰れなくなってもいいが、なにりよりも加奈を丁重に帰宅させるのが最優先であった。ここで何処ぞのホテルにお持ち帰りをし、今日初めて出会って直ぐに手を出すほど、城戸は軽く考えてなかった。真剣だからこそ彼女には安全に帰宅してもらいたいと考えていた。
「じゃあそろそろお開きとしますか」
「そうですね」
「田中さん、敬語は駄目だよ」
「あ、そっか。幸雄さんも、苗字じゃなくて名前呼びやからね」
「あ、そうだね。か、加奈……さん」
敬語が抜けると柔らかい関西弁が顔を出した。そんな方言も愛おしく思う。
いい歳して異性を下の名前で呼ぶことに本気で照れている城戸が、電車に向けて歩き出そうとした時だった。
──着信音。
なんてことはないブザーの音。ズボンの右ポケットからバイブ機能が動き、何度も何度も太ももにむず痒い刺激を与えてきている。女性とのデートということを配慮し、音が煩くないマナーモードにしていたのだが、岩にも染み入る静けさは蝉どころかちょっとしたバイブ音でも目立ってしまった。
背筋が凍った。本当になんでもない電話着信音のはずなのに、何故かそれが不気味で仕方なかった。理由はない、ただの直感でしかない。これは取るべきではないと城戸はシカトを決め込んでいたのだが、いつまで経ってもその着信音が止むことはない。
「あの、私に遠慮せんでええよ。なんかその人も電話出てほしそうやし」
あまりにも長い着信音に流石に触れざるを得なかった加奈だが、少しだけ残念そうな表情を見せた。不気味に感じ電話に出ないという選択肢は彼女によって八方塞がりにされた。「ごめんね、すぐ終わらすから!」といい雰囲気をぶち壊してくれた暇電人間に怒りを携え、携帯を開いた。
戌亥京介。
──またこいつか、と城戸は液晶を睨みつけた。
城戸がここにいる根本はこの男のせいということもあり、幸か不幸か結果は良かったが関わることを控えたかった。
このまま携帯の電源を切って無視する選択肢もあったが、流石にそれは駄目だなと渋々応答のボタンを押した。どうしようもない元凶は、いつも通りガラの悪そうな太い声が聞こえてきた。
「おうてめぇボケコラ、やっと出たか何やっとったねんお前遅せぇよ無視決め込んでんちゃうぞこの野郎しばかれたいんか?」
電話から聞こえてきた暴言の羅列に、城戸は少し関心しながら肩を落とした。
「なんだよ、今忙しいから後にしてくれ」
「それよりよ! 今から遊ぼうぜ」
「いや、だから今は無理だからよ」
「カラオケ行こうぜカラオケ! 深夜のフリータイムでオーケー?
」
オーケーじゃない、日本語が通じてない。
城戸は呆れ返り髪を乱雑にかいた。
「いや俺今忙しいって言ったよな? 時間がないんだ時間が、今日は無理だ」
「ええやん歌おうぜ、今どこおるん? ちなみに俺は梅田おんねんけど」
「何でよりにもよってそんな近くにいるんだよ。ていうか、今日はもう本当に無理だから。切るぞ電話」
「いやいやいや待て待て待てって! それはないわ、付き合ってくれって。なぁ、友達やろ?」
「……」
──え?
城戸は言葉が詰まった。詰まってはいけないところで詰まってしまった。分からなくなっていた。トントン拍子で進んだ城戸と加奈の恋仲が、長年苦悩していた戌亥との関係性が曖昧になっていた。
「悪い、切るわ」と城戸は有無を言わさず電話を切り上げた。ちょっと待てや! と耳から離した携帯から微かに聞こえたが、構わず電源ごと落とし内ポケットに閉まい、城戸は胸を撫で下ろす。平常心を保とうと何度も息を整えるが、心臓が痛くて仕方ない。頭も回らない、頭痛が痛い──とか言っちゃってる、酷い。冷や汗が止まらない、心做しか酸っぱいアレがせり上がってきている気がする。気持ち悪い。
そんな城戸の姿に加奈は、不安な様子で寄り添った。
「幸雄さん、一回横になって」
「いや、でも……」
「いいから、早く」
加奈は城戸の手を引き、少し強引にベンチに横たわらせた。途中で終電の心配をし加奈を帰らそうとしたが、聞く耳を持たないどころか城戸の頭を持ち上げ自分の膝に乗せはじめた。この世で一番心地よい枕だったが、それを堪能する余裕はない。膝枕をして二十分、終電に乗れないことが確定した。
「誰から?」
「え?」
「電話してから具合悪くなったやん? 何かあったんでしょ、その人と」
城戸は目を丸くする、図星だった。
何かはあった。昔からずっとその嫌な何かが少しずつ蓄積していた。その何かがここ最近になって我慢できなくなり始め、風船のように膨れ上がったそれを割れないように押さえつけていた。ふとした瞬間、ちょっとの油断も許さなかった。割れたらどうなるか分からなかったから。だが、ついさっきの電話で城戸の中で変化があった。あれだけ確固たる意思を持ち守り続けたそれを、簡単に手放そうかと思ってしまった。もういいや、と吐き捨てるように膨れ上がった風船をその辺の針で自分で割ろうとした。
……怖かった。そして気持ち悪くなった。そんなことを一瞬でも考えてしまった愚かな自分に、消えてしまいたくなった。いくから彼女ができたからって、俺はアイツを……。
「加奈さん?」
加奈は城戸の固まった頭を優しく撫でた。寂しそうにする愛犬を慰めるように、温かく愛情が籠った手だった。きっと加奈のプロフィールに写っていたコーギーのような間抜け面になっているだろう。しかし、城戸はそこを離れなかった。
「よかったら聞かせて欲しいな、幸雄さんをこんな目に遭わせてる人のことを」
もちろん城戸は躊躇った。こんなこと誰も彼も相談していいことではない。言うなれば、ただただ友達の愚痴をこぼすわけであり、積もり積もったそれをウジウジと文句垂れるだけのこと。とてもだが、ついさっき結ばれた彼女に吐き出すことではない。
だが、優しさに付け込まれたこの状況で、城戸は正常な判断ができなかった。我慢ができなかった。吐き出したい。もう一人で抱えたくない。溜め込みたくない。この苦しみから少しでも開放されたい。
そして城戸は、何が正解か分からないまま戌亥との関係と全て打ち明けた。戌亥との関係から始まり、今さっきの電話の感情まで洗いざらい。何も考えてない幼い子供のようにぐずりながら口を動かし、そんな無様な姿を加奈は優しく「そっか、それは辛かったね」と声をかけながら親身になっている。
加奈は優しく微笑んだ。
そして一言。
「そんなに嫌なら、友達やめれば?」
──は?
城戸の中で何か鈍器のようなもので殴られた衝撃がした。少し前にもこんなことがあった気がするが、今回はレベルが違った。脳が揺れ、視界が気絶しそうなほど真っ白に染まっていく。背骨がきしみだし、加奈の膝が跳ね起きた。ぷっつん、と何かが切れた。自分の中の何かが。
瞼が徐々に釣り上がり、眉がひん曲がっていく。これはダメだ、とても彼女にする表情ではない。だが、そんな顔をせざるを得なくなる。
……友達をやめる? 誰と誰が? 俺と戌亥が? 何だそれ、何言ってんだろう……
「そんな人と一緒におるなんて駄目やと思うよ。だいたい、そんな酷いことされてよう今まで許してきたね。私やったら耐えられへんよ」
……一緒におるのは駄目? ちょっと待てよ、それは流石に違うだろ……そんなこと……。
「ありえへんよ、お金返さへんとか。滅茶苦茶気持ち悪いね。ホンマに頭おかしい人かもしれんし、今すぐにでも連絡先消して引っ越した方がええよ。よかったら引越し手伝うし、そんな変な人とは決別しようよ」
……頭おかしい? 気持ち悪い? やめろ……違う……違う……違う!
「とりあえず今から携帯で──」
「やめろ!」
まるで悪魔のような囁きを振り払い、城戸は怒声を上げた。しんとした静寂に響く怒りの声に、加奈はこれでもかと動かした口を塞いだ。そして、何かを諦めたかのように少し遠い目をした。
ギリギリと音を立てるほど限界まで歯を食いしばり、次の言葉を出さないように耐えようとした。好きになっていた、本当に好きになっていたから。しかし、真っ白になった頭がブレーキを壊していた。
もう、止まらない。
「何も知らないくせに勝手なこと言うんじゃねーよ! 戌亥はな、戌亥は本当に良い奴なんだよ! 小学生の頃に一人ぼっちだった俺をなんかに、ずっと話しかけてくれたんだ! 中学校で俺が虐められそうになった時も助けてくれた! 高校で馴染めない俺に背中を押してくれた! 気持ち悪いだと? 気持ち悪くなんかない! 頭もおかしくない! かっこいいし、勉強できるし、話も面白いし、あんな気のいいやつ他にはいないんだよ! 俺の親友は本当に凄いやつなんだ! 何も知らないくせに! 何も知らないくせに! 俺の親友を悪く言うんじゃね────!!」
豪雨。バケツをひっくり返したような雨が突然やってきた。天気予報士もひっくり返るような大ハズレな異常気象に、傘を持っていない人が慌てて駆け抜ける。折りたたみ傘を常備していた人もいたが、吹き荒れる風の前では飾りのようなものでしかなかった。
城戸は歩く。傘もささずに歩く。ガチガチに固めた髪の毛だったが、その原型はとうになくなっていた。濡れた服が体に張り付き、ズボンを水を吸い少し重い。足取りが重い。終電を逃し財布の中身も空っぽ、家にも現金を持ち合わせてなくタクシーを拾うこともできない。なんならタクシーを呼ぶ余力も持ち合わせていない、ただ何も考えずえっちらおっちら帰るしかない。三駅分の距離だ、帰れないことはない。
道行く人が怪訝な表情を浮かべた。すれ違おうとすれば少し距離をとる。恐らく人混みの中であれば、海を割るモーセのごとく人が道を開けるだろう。それほど今の城戸は不気味に、そして薄気味悪く映っていた。目線は足元。ほぼ真下、自分の足しか見えないほど下を向きながら歩いていた。前髪で目元が隠れているが、微かに見える眼は虚ろであり屍人のように呆然としている。
「……」
コントロールが効かなかった。鎖から放たれた猛犬のごとく怒鳴り散らし、何も悪意はない彼女に噛みつき引っ掻き荒れ狂った。逆上もいいところだ。感情の起伏、情緒の不安定さ、地雷を踏まれ頭に血が上り詰めた。沸騰した頭が雨水を被り熱を奪い、冷静になって後悔した。
……よりにもよってだ。よりにもよってあいつのことでこんなことになるとは。
だが、怒らずにはいられなかった。どうしようもない衝動に駆られた。
だが、後悔せずにはいられなかった。どうしようもない無念が残った。
全部で自分で蒔いた種だ。感情がグシャグシャ、自分でグシャグシャにしたのだ。
「ちっ……っくそったれ」
ポツリと呟く独り言は──
「何がくそったれなんや?」
届いてしまった、よりにもよっての男に。
「いきなり雨降るから焦ったわ。やっぱお前もこの辺におったねんな、電話切んなやマジでよ。ていうかびちょびちょやん、何で傘さしてへんの? アホやなー、その辺のコンビニとか百均で買えばええのに。で、どうするよカラオケ行っちゃう? ここで会ったのも何かの縁! 雨宿りがてらカラオケ行っちゃうべ!」
戌亥は絶好調とばかりにペラを回す。今の城戸が見えていないのかと思うほどの脳天気な声色。
城戸は少し足を早めた。
「おい、ちょっと待てやどこ行くねん! 歩くん早いって」
戌亥が肩に手を置き制止させると、城戸はその手を雑に振り払った。戌亥はさっきから無視を決め込まれている状況にようやく気付き、眉をひそめて前に立ちつくした。
「待てや、なんやねんさっきから」
「なんでもねーよ」
「テンション低すぎやろ、何かあったん?」
「なんでもねーって言ってんじゃん」
城戸は再び歩き出し、戌亥も後ろから付いていく。
……情緒が安定しない、このままではおかしくなってしまう。おかしくなる前に家に帰って落ち着くべきだ。早く早く、何でもいいから早く帰るんだ。
だが、そんな願いも叶わない。この男がいるから。
そして、それは起こった。
「あれやろ、どうせ女に振られたとかやろ?」
──は?
城戸の中で何か鈍器のようなもので殴られた衝撃がした。脳が揺れ、視界が気絶しそうなほど真っ白に染まっていく。背骨がきしみだし、早めていた足が完全に止まった。ぷっつん、と何かが切れた。自分の中の何かが。
今日二度目だ。
これはダメだ、これだけは本当にダメだとちぎれそうな鎖を必死に握りしめ繋ぎ止める。
……頼む、これだけは本当に嫌だ。耐えろ、耐えて笑顔の一つでも作れ。
「お、図星か? ホンマに振らたんか。お前はホンマに情けないなぁ。こういうのは押しが大事やっていつもゆっとるやろ。ちょっと強引にホテル連れ込むくらいせんとアカンって。いつまで中学生みたいな恋愛しとんねん」
……お前のせいで! いや、違う……何もかも俺のせいだ……耐えろ、忘れろ……忘れて今までのようにこいつと二人で……。
「そうやなカラオケが嫌なんやったら今からその辺でナンパでもするか! その女が無理なんやったら次行けばええねん、選り好みしてる場合じゃないで。よし、とりあえずあそこで泥酔してるOLから行ってみようか! 大丈夫、俺もついてるからさ。もぉホンマに、お前は俺がおらんとアカンやつやな!」
……ちくしょう。
「……」
「ん? どうしたん?」
我慢の限界がきた。
城戸はずっと我慢してきた、戌亥と出会った何十年も前から
。
少し前に老婦人に言われたことを思い出す。ふとした拍子に激動する時が来ると。それもよくない形で必ずと。あの人は未来でも見えていたのだろうか、このことが分かっていたのだろうか。どちらにしても、もう関係ない、
激動。きっとそれは、今日のことだ。
爆発。
それはついさっき加奈にした怒号とは一変した、静かな怒り。ここの内に秘めた炎が音もなく揺らめき体を震わす。親の仇と言わんばかりに殺意のこもった目で戌亥を睨みつけた。
「城戸?」
声は出ない。ただひたすらに怒りが身体中を巡り、一点に集中した。
小指を折る。
薬指を折る。
中指を折る。
人差し指を折る。
親指を折る。
城戸は、全ての指を折りたたんだ右手を岩のように結び、自分の手のひらから血が出るほど強く握りこんだ。腕から破裂しそうなほどの血管が浮き出た。
もう躊躇はなかった。
肩が外れそうなほど大きく振りかぶって──
──ぶん殴った。