【2話】怪物令嬢から差し伸べられた救いの手
初めてだった。
誰かに怯えることが、こんなにも不愉快で心臓を締め付けるようなもの痛みを伴うものなのだと知ったのは……!
俺は我慢できず、地面に膝をつく。
屈服したいと思ったわけじゃない。
未知の圧力に対して、対抗してやりたい気持ちは常に持ち続けていた。
だが、心情とは裏腹に俺の手足は自由に動かない。
彼女は俺を上から見下ろしてくる。
「ああ。それでいい。私に従順になれる最強の手駒を……やっと見つけたぞ」
黒髪を揺らす彼女の恍惚な笑みは、『俺を利用してやる』という感情のみで溢れ返っている。
なんだよ、これ。
知らない。
こんなにも、俺の心に干渉してくるような人間がいたなんて、今まで生きてきた俺は経験してこなかった。
──恐怖と混沌が入り混じる中、微かに彼女への『期待』が生じた。
「お前は……何者、なんだ……?」
締め付けられる喉を必死に震わせ、俺は尋ねる。
彼女は口角を上げて白い歯を覗かせる。
「お前が知る必要はない」
「この。ふざけ……!」
「ふざけ……? この私に対して何を言おうとした?」
「────っ!」
声が、出ない……!?
窮屈で息苦しい。
大通りで、人も多く行き交っているのに、まるで俺の周囲だけ別空間であるかのように激しい重力がのしかかってきているようだった。
少し離れた場所を行き交う人は、俺と彼女が何をしているのかと怪訝そうな視線を向け、そして通り過ぎる。
──この女の恐ろしさに気付かないのか?
こんなにも圧倒的なオーラを放ち、不気味なくらいに美しいこの女を前にして、どうして周囲を通る人間はほぼ無関心で通り抜けられるんだ。
積み重なる疑問。
それに答えたのは、張り付くような美しい声。
「……残念だったな。私の気配に気付ける人間は、この付近ではお前しか存在しない」
「なに……?」
「私の内側を感じられる格がある人間は、そうそう現れないということだ。お前が私に怯えて、跪いているのも──周囲の人間からしたら理解できない光景だろうさ」
そう告げ、彼女は俺の顎に人差し指を当てる。
そのまま顎を持ち上げ、俺の顔を真っ赤な瞳で覗き込んでくる。
「私の脅威にお前は気付けた…………やっぱり。お前には私が使うに足るだけの力がある」
「────っ!」
「喜べ人間。この私がお前の実力を認めてやる──そして、私の手駒1号として、私のために働き、私のためにもっと強くなれ!」
「俺が…………手、駒…………」
『彼女の手駒になる』……そんな暴論に対して、俺は反論できなかった。
最低なことを言われている。
その自覚はあった。
俺を利用するこの女は、少なくとも生粋の善人ではない。
得体の知れない化け物であることは確実だろう。
けれども、彼女に対するネガティブな感情は、まるで割れたコップに入った水のように外に流れ出し、失われていく。
そして彼女を否定する言葉は頭から消え去った。
悪意に満ちた顔だ。
俺を利用すると宣言しただけあって、悪女感が半端ない。
けれども彼女には裏側がない。
醜い部分を俺に曝け出し、その上で俺を認めてくれた。
──何でだよ。もう俺の心を揺さぶるなよ。
俺は一度心を折られた。
再起するのが難しいくらい、生きることに絶望していた。
なのに彼女の顔を見ていると、身体から抜け出した熱が段々と戻ってくるような感覚に陥る。
彼女に対する嫌悪感が綺麗さっぱり洗い流された後、俺の心には、不思議な感情が腹の底から湧き上がってくる。
「何だよ。この感情……くそ」
その感情を思い出すまで、少し時間がかかった。
でも俺はやっとそれを取り戻した。
──これは俺が大事に抱えてきた闘志。
「……全部諦めたのに、何で」
「ふん。馬鹿らしい。お前程度の尺度で世界の全てを理解したと思うなよ。お前の価値を、限界を──お前が勝手に決めるでない」
消えかけていた俺の心のロウソクに、この女は火を灯した。
大太刀を振るって、最強の剣士になるという俺の夢を彼女は呼び起こしてくれた。
「私がいれば、お前は強くなれる……だからほら。私の手を取れ」
差し出された白く華奢な手。
その手に触れた瞬間、世界が丸々反転したような気がした。
──ああ。はっきりと見える。
俺自身が彼女に支配され、いいように使われる未来。
それに加えて、俺が大太刀を振り回し、敵を蹂躙している未来が……!
閉ざされた道が開けていく。
剣を諦め、人生をドブに捨てようとしていた俺を踏みとどまらせたのは、確実に目の前にいる黒髪の令嬢だ。
「はぁ。やっと目に輝きが戻ったな」
「……お前は本当に、俺を必要としてくれるのか?」
「は?」
彼女の放つ威圧感はいつの間にか消えていた。
代わりに手を取った俺に、愛おしそうに視線を向けてくる。
「不安なのか?」
俺は彼女の手をソッと握りながら、彼女を見上げた。
「ああ。不安で一杯だ。俺は『千剣の叡智』への加入を認められなかった落ちこぼれ。そんな俺を……お前は使ってくれるというのか?」
怖かった。
優しい対応をされてから裏切られるのが。
そんなことを繰り返されたことで、俺は人というものを信用できなくなった。
人間は誰もが醜く、俺のことを裏切る。
最低なヤツらばかりなんじゃないかと。
だが彼女は変わりない不敵な笑みを浮かべ、俺の手を両手で包み込むように強く握り返し、告げてくる。
「当たり前だ──お前は私が見つけた手駒1号。お前は私に死ぬまで利用されろ。そして私の野望を実現するために馬車馬のように働いてもらうぞ!」
なんという身勝手な言葉だろうか。
けれども今の俺にとってその言葉は──不覚にも『救われた』と、そう感じてしまうような温かいものだった。