6、忍び寄る悪意
俺が鳴海に電話を掛けるとき、朔はまだ眠ったままだ。呼吸は大分落ち着いてきたようだが、顔色は真っ青なままだ。真逆俺が作った料理に中ったなんて訳じゃないだろうな。
「もしもし、鳴海か?」
『・・・・・・先輩?』
電話の向こう、ざわついている。どうやら鳴海は街中を歩いているようだ。
『先輩、あの、さっきの朔君の話、』
鳴海はそれが気になって仕方ないらしい。切羽詰った口調は、普段彼がしないものだから。
「落ち着け。朔に詳しく訊こうと思ったんだが、どうも具合が悪いらしく寝ちまってな。目が覚めたらまた詳しく訊いてみるつもりだけど」
『そう、ですか』
「宝生は?」
『別のダチの家に行くって言ってましたけど』
「全くあいつはいつまでもだらだら。・・・・鳴海は就職、決まりそうか?」
鳴海は恐らく営業や販売には向かないだろう。となると専門職か、事務職か。
『一社、二次面接にこぎつけてるんで、うまくいけばそこに決まると思います』
「そうか、頑張れ」
『あ、あの先輩』
「あ?」
鳴海は心から不安そうな口調になる。今日はコロコロ口調が変わるな、と思う。
『僕の“手”のこと、先輩が言った訳じゃないん・・・ですよね?』
やっぱりそれが気になってたのか。俺は髪をぐしゃぐしゃとかき回し、
「俺じゃない。俺だって顔には出ないけど、いきなり指摘されて驚いてるんだから」
『そう、ですよね』
「・・・・・・鳴海?」
どうしたのだろう。俺は人の気持ちを察したりするのは得意なほうだとは思うが、予知能力なんてものはない。だが、一瞬鳴海が誰かに襲われるシーンが脳裡に浮かんで俺は奇妙に思った。白昼夢か?
『先輩?どうかしたんですか?急に黙って、』
「あ、いや。・・・お前、今一人?」
『はい。これから大学に行って、教授に会います。意外と早く宝生さんに解放してもらえたので、』
俺はその言葉に苦笑する。
「兎に角さっきの件は朔に訊いてまた知らせるから。あんまり気にすんな」
『はい。よろしくお願いします』
生真面目に依頼する鳴海にじゃあな、と言い残して俺は通話を終えた。その瞬間、
「・・・・・嫌だ、止めろっ!!!」
「?!」
何だ?と思って振り返れば、眠ったままの朔が胸元をギュッと押さえている。尋常ではない汗を掻いて呻く。
「おい、朔!?」
「ねが、・・・お願いだから止めろ・・・・・、」
ついにはうつ伏せになって、魘され始める。
「朔、朔!!」
「!!!!!!」
朔はいきなり目を見開くと、ガバッと上体を起こした。ぜえはあ、ぜえはあと荒い息を繰り返し、心臓のあたりを掴んで肩を震わせる。ぽたっ、と額から滴った汗が掛け布団に落ちた。
「・・・朔?」
一体なんなんだ。何の夢を見たんだ。
「・・・・・・・・・っ、」
咳き込む。血を吐き出すんじゃないかというくらい激しくつらそうな咳だ。そして本当に血を吐いた。しかも結構沢山。
「うえっ、・・・・がほっ・・・・・!」
口元を押さえ、苦しげに涙を零す。俺は風呂場から風呂桶を持ち出し、適当に新聞紙をひき、朔に差し出した。朔が涙に濡れた目で俺を困ったように見るが、俺が気にするな、というと小さく頷いて口元から手を離した。途端に、口から吐き出された血が桶にぼとぼとぼと、と嫌な音を立てて落ちる。
俺はまだ咳きの止まらない朔の背中を擦りながら、こいつは病気なのだろうか、とぼんやりと思っていた。
やっぱり先輩に言えば良かっただろうか、と鳴海和晃は手の中の携帯電話を見て後悔しかけていた。
場所は、大学のスクールバスが止まるバス停前。
(・・・一体誰が僕なんか見てるんだろう、)
此処最近感じていた、奇妙な視線。不安になって周囲を見回しても、誰も自分を見ている者はいない。考えすぎなのかな、とも思ったがやっぱり視線を感じる。それも、日を追う毎に強くなる。気を抜いたら後ろから伸びてきた手に捕まりそうで、立ち止まることが恐くなることもある。
今日も、笙汰の家を辞して宝生と別れた瞬間に視線を感じた。四方八方から見られているように感じるので、自分を見ているのは一人ではなく複数で暗がりに連れ込まれて殺されるのではないかなどの憶測ばかりが心を蝕み、外出が億劫になりつつある。
だが今は大事な時期だし、バイトだってある。家に篭もっているわけにはいかない。
(でも、恐いんだ、どうしようもなく)
バス停に立っている今でも、後頭部と左手の方からヒシヒシと視線を感じる。隣に立つ外回り中のサラリーマン風の中年男性をちらりと見上げると、彼はぼんやりと道路に視線を飛ばしていた。視線の主はこの人ではないだろうと和晃は漠然と思った。
(先輩に相談してみよう、それに朔君がどうやって僕の“手”のことを知ったのか、気になるし、)
そう考えをまとめた瞬間だった。
ドンッ!!!!!
和晃は背中を押された。
「え、き、君っ、」
隣にいた男が目を見開いて絶句して自分を見ているのを、和晃は何処か遠くに感じていた。
耳に飛び込むクラクション。浮かぶ後悔。
押された体は抵抗する隙すら与えず、沿道から道路に傾く。
(だ、れ・・・?)
道路に力なく飛び込む形になった和晃を、ある人物は口元に笑みを浮かべて見ていた。
その人物の唇が、動く。
イノウシャハ、ヒトリノコラズキエテシマエバ、イイ
道路に体が投げ出されるまでに大した時間はかからなかったはずなのに、和晃はその人物の唇が象った文字を読み取ることができた。まるで、スローモーションがかかったかのように。
(せんぱ、たすけ・・・・・)
笙汰に心の中で助けを求めた瞬間、和晃の小柄な体は今まで感じたことのない激しい衝撃を感じた。
鳴海、ピンチ。朔もどうやら体を病んでいるようです。