2、少年とのファーストコンタクト+日常
その男は、昨日“捨て”た場所に少年がいないことに眉を寄せた。彼の計算では、少年の物言わぬ体が転がっているはずなのに。
「どういうことだ?」
この声にこもるは不審と、微かな喜び。
「そうだ、ただ死なれるだけでは詰まらない。最期まで足掻いて足掻いて足掻きまくれ。そしてその顔を絶望に歪め、然るのち・・・・・・死ね」
深くかぶった帽子で目鼻は見えないが、見えている真っ赤な唇がにいっと不気味に微笑んだ。
「よう、鳴海」
「あ、先輩おはようございます」
大学時代の一個下の後輩ー鳴海和晃は今日も朝一なのだろう、レジに入っていた。時間が時間なだけにまだ忙しそうではないが、これから忙しくなる。
「いい加減その先輩っての止めろよ、学校じゃねぇんだから。斗賀野か笙汰で良いって言ってるだろ?」
「先輩はいつまで経っても先輩なんだから良いじゃないですか」
鳴海はでしょ?と人懐っこい笑みを浮かべた。小柄で笑顔が愛らしい鳴海は他人に好かれやすい。ただお人よしなところがあり、誰彼構わず信用し易い。それで悲しい想いを何度も味わった筈が、本人は忘れているのか押し込めているのかその性格は変わらない。ま、そこが鳴海の良い所かな。
「先輩どうしたんですか?考えごと?」
「ん、別に。じゃ、お前のレジ行くからよろしく」
「はいはい」
にっこり笑顔の鳴海の頭をわしゃわしゃとかき混ぜ、俺は売り場へ向かった。その俺の背中を、鳴海が悲しげに見送っていることに俺は気付かなかった。
買い物を済ませて帰って来るも、やはり少年は目覚めていなかった。身動ぎ一つしていないらしく、布団の乱れすらない。まさか呼吸音は俺の勘違いというオチか?だとしたら俺は死体を介抱したってことになるのか。折角の休日に?俺は自分の考えに苦笑する。少年に背を向け、買ってきた食材を冷蔵庫に詰めるために台所へ向かって一歩足を踏み出した瞬間、
「動くな」
聞いたことの無い高い声が耳に入った瞬間、俺は腕を捻り上げられて床に突っ伏していた。
「・・・・・・痛いんだが」
俺の口から出た言葉は無感動なそんな言葉だった。だって痛いんだから仕方ないじゃないか。
「寝たフリか?少年」
「誰だ、貴様」
捻り上げられた腕を掴む少年の手はひやりと冷たい。
少年はどうやら目覚めていたらしいが、俺が帰ってきたので寝たふりを決め込み、俺が背を向けた瞬間に牙を剥いたわけだ。なんとまぁ素早い動きだろう。全く動いた気配も物音も感じなかった。やっぱり普通の少年ではないみたいだな、とやはり無感動に思う。俺は意味もなく可笑しくなってきて、口元に笑みを浮かべた。
「・・・・・何がおかしい、」
少年は声変わりがまだなのか、高い声だった。その声が非難の色を帯びる。
「いや、君が元気そうだから嬉しくてな」
心にもないことを言って、自分で寒くなった。他人を思いやる心がまだ俺にはあるのか。
「は?」
だが少年には効果覿面だったのか、そんな変な声を上げて俺を拘束している手から力を抜いた。
馬鹿め。
「まだまだ修行が足りんな、少年」
「え、」
少年がまだ状況判断を出来ぬうちに、俺は逆に少年を押さえ込むという体勢に変えた。すぐには理解出来なかったらしいが、やがて喚き出した。
「は、放せよっ!!」
「口の聞き方を知らないガキだな」
怒りの気持ちはなかったが、俺はそんなことを口走っていた。少年はぎゃあぎゃあ騒ぎながら俺の腕を払おうとする。弟がいたらこんな感じなのだろうか、と俺は場違いなことを考えていたが、いきなり少年が
「……っう、」
と痛みに呻き声を上げたのでさすがに慌てた。そんなにきつく締めたつもりはないのだが。俺が拘束の腕を解くと、少年は床に四つん這いになってううっ、と呻く。
「どっか痛いのか?」
「さわ…るなっ、」
だが俺は少年に触れ、少年はもがこうとした。その拍子に、見えた。眼帯から赤い液体が垂れているのが。雨を吸ってぐしょ濡れになった眼帯は、ただ目を隠しているだけで本来の役目を果たしてはいなかった。眼窩に細菌か何かが侵入し、出血したのだろうか。
「・・・・・・・」
少年は痛みに呻き、眼帯を押さえながらもよろよろと立ち上がった。俺はその様子を眺めるだけだが、少年の足が玄関に向かうのを見て、
「お前、そんな状態で外に出るつもりか?不審者扱いされて通報されるぞ」
少年がビクッと震えて一瞬立ち止まるが、すぐに歩き出す。
「おい」
「僕のことは、放っておいてよ。あんただって僕が不審者扱いされたら嬉しいだろ」
あんただって、という言葉に俺は眉を寄せた。少年はついに玄関のドアの前に到達し、ノブに手を掛けた。俺がどうすべきか迷ったままその細い背中を見送っていると、いきなり少年の体が床に沈んだ。
「っ、うぁあっ・・・・・!」
今までで一番痛そうな呻き声を上げ、体を丸める。酷い激痛が少年を襲っているらしかった。俺は溜息をつくと、もう一度寝さそうと肩を掴む。
「ろくに歩けないじゃねぇか。もう少しやす、」
「僕に触るなっ・・・・・・!!」
いきなり苛立たしげに怒鳴ると、少年は俺の手を振り払った。なんだこいつ、一体何をそんなにツンケンしてんだよと俺は不思議に思う。気にしてやっているのに手を払いやがって、という腹立たしい気持ちは一切無い。ただ、不思議で仕方ないのだ。何が少年がこんなにもぴりぴりさせているのかが。
「・・・・触るなって言っても、満足に歩けてないだろ。大人しく従え」
「うる・・・さいっ、僕に指示するなっ・・・・・・・・!」
俺はまた深い溜息をつくと、少年の首根っこを断りもなく掴んでやった。
「なにす、」
「言う事聞かないからだ。怪我人は大人しく言う事を聞け」
「止めろ、放せっ!」
喚く少年の声を無視して、俺は少年をずるずると引き摺って布団に寝かせた。すぐに起き上がろうとする少年の片方の手首を掴み、
「・・・・・良いからもう少し休め、頼むから」
言い聞かせるように、言った。自分でも不気味と思えるほどに優しい声に内心で驚いていた。俺は、まだ人に優しく出来るのか。
「・・・・・・・・」
俺の様子が変化したことに気付いたのか、少年の顔から鬼気が消えた。眼帯は押さえたままに、体から力を抜く。何にも覆われていない左目が、不思議そうに俺を見上げる。
「あんた、変な人だな、」
痛みは退いたのか、少年は呻かなくなった。
「あんたじゃない。・・・・・・俺は斗賀野笙汰っつうんだ」
別に少年の名前を知りたくて、名乗ったわけではなかった。だが少年はそれが礼儀であるかのように自分の名を名乗った。
「・・・・・・僕、は、来栖朔、」
瞼が徐々に下がってくる。
「なぁ、」
「・・・・・・?」
「いや、あとで良い。今は体を休めてろ」
少年ー来栖朔は戸惑ったような顔で俺を見上げていたが、迫り来る眠気には勝てなかったのだろう、すぐに寝息を立て始めた。眼帯を押さえる手からも力が抜け、くたっと落ちる。
「これは・・・・・」
朔の眼帯は真っ赤に染まり、思い切り絞ればぼたぼたと赤い液体が垂れて来そうに思えた。ドラッグストアに行って新しい眼帯を買いに行ったほうがいいのかも知れない。勝手に交換したら怒るだろうか。まぁとりあえず買うだけ買っておこう。
「そう言えば、食料」
スーパーの買い物袋を持った状態で朔に襲われたため、中身がどうなっているか不安になった。
「のわっ!!ぐっちゃになってんじゃん!」
「え、っと包帯包帯、っと」
馴染みのドラッグストアで眼帯をどれにしようか選んでいると、後ろから闊達な声を掛けられた。
「おっす、笙汰。今日は休みか?」
「・・・なんだ宝生か」
悪友であり目下フリーター人生謳歌中の宝生雅だった。名前こそ雅だが、その雅さは欠片も無い。下品で適当で下らないことが大好き。中学からの腐れ縁でもあった。
「何だとはご挨拶だな・・・お前、眼でも怪我してんの?」
「・・・ちょっとな」
まさかよりによって宝生に少年を拾ったなどとは口が裂けても言えない。そんなことをしようものなら、今日の夜にはご町内全体に広まっているに違いない。
俺の返答に、ワックスでつんつんに立てた茶髪を弄りながら唇を尖らせる。気持ち悪いから口を尖らすな、と思う。
「冷たい返事だなぁ。なぁなぁ、何か面白いことねぇ?」
「知らん。家で寝てろ」
「さっき起きたばかりだからまだ良いや」
「・・・・・・・」
宝生と喋りながらも俺は眼帯を選んでいて、ようやく決めた。同じタイプの眼帯が3個セットのものにする。眼帯のほかに買うものあるか?一応消毒液も買っておくか。俺が場所を移動しようとすると、話足りないのか宝生が付いてきた。
「何だ、まだ何か用か?」
「いや、暇だから話相手が欲しいだけ」
「じゃあ他を当たれ。俺じゃあお前を満足させられる話題がない」
「満足とか気にしないよ。ぐだぐだ喋るだけで十分だから」
「じゃあはっきり言う。鬱陶しいから消えろ」
だが宝生は逆に嬉しげにニカッと笑うと、
「じゃあ消えてやら無い」
と俺にとっては訳の分からない理屈を捏ねやがった。こうなったらとことん無視するか。俺はそう決めたが、宝生が次に放った言葉にひかれた。
「そういや最近町内で不審者が出没してるらしいな」
宝生にとっては大した興味がないらしく、どうでもよさげな口調だった。しかし俺にとってはそうはいかない。不審者が恐いとか襲われたらどうしようとか思ったわけでもない。ただ、もしその不審者が朔のことだとしたら・・・・・・。
「何か黒いシルクハットみたいなのをかぶってて、目と鼻が完全に隠れてる黒服の男が何度か目撃されてるらしいぜ」
それを聞いて不審者が朔ではないかいう考えは一気にぶっ飛んだ。それなら朔ではない。何故なら朔は素肌の上にボロボロの毛布をかぶっただけの状態だったのだ。
いや、ただ黒服を剥ぎ取られただけ、という可能性もあるのか。
「ん。笙汰、お前何か思い当たる節あるの?」
馬鹿なくせに勘だけは鋭い、と俺は内心で舌打ちをする。
「別に。お前、そろそろ職探さないのか?俺が働いてる本屋人手不足なんだけど」
「本?止めろ止めろ、俺が活字を見て倒れない日があったか?」
倒れない云々は無視して、
「別に本屋だからって活字を読んでるわけじゃないぞ。ちゃんと力仕事だってあるし、忙しい日には字すら恋しくなるほどあっちこっちに行かないといけねぇし」
「とーにーかーく、俺はまだ働く気、ないから」
消毒液はこっちで良いな。そう言えばさっきスーパーに行ったときは粥を買わなかったな。とりあえず粥も買って、朔が喰えそうなら喰ってもらおう。俺はレトルトコーナーに足を運ぶ。やっぱり宝生は性懲りも無くついてくる。
「いい加減ウザイんだが」
「お前、不審者ってのに検討ついてるんじゃねえの?」
口調は適当だが、チラ見した宝生の目は意外と真剣だった。やはり刑事の息子は違うのか。
「・・・・・ついてないな、残念ながら」
こいつ、何だかんだいって刑事に向いてるんじゃないかと思うがそれを言ったら宝生が怒るのは分かっているので、言わない。怒った宝生が恐いわけでなく、こんな店中で騒がれたら堪ったものではない。
「ふうん」
「よし、買うもの決めたし俺は帰る」
だからもうついてくるな、と言外に匂わしたつもりだったのだがあろうことは奴は、
「今からお前のマンションに行っても良いか?」
などと言い出した。何でそうなるんだ?俺は不快感を隠そうともせずに宝生を見返した。
「何で?」
「暇だから」
「・・・・・・暇なら職でも探せ。それか家でゲームでもしてろ」
「厭きた。ゲームは。職探しは絶対に嫌だ」
子どもみたいなことを言いやがって。
「お前がゲームに厭きようが職探しを厭おうが、俺には関係ない。俺は連勤明けで疲れてて、家で一人のんびりしてたいんだ。だからお前が部屋に来るのは断固拒否する」
宝生が何かを言おうとするが、俺は一息ついて直に言葉を発する。
「・・・・・何を言ってもダメだ。じゃあな」
俺は鋭い視線で宝生を睨みつけた。女顔と揶揄されることの多い俺だが、その実視線が鋭くてチンピラすらビビるというのは有名な話で、このときの宝生もグッと詰まったような顔で口を閉ざした。
「・・・・・・」
俺は宝生を置いて、レジに向かった。なじみのパートさんと少しだけ話をして、宝生を振り返ることなくさっさとドラッグストアを後にした。宝生は追っては来なかった。