24、本当の気持ちと、嵐の前の静けさ
「良いから僕を此処から出せよ!!」
来栖陸は、ドンドンッと鉄扉を力任せに叩き続けていた。皮膚が裂け、血が滲む。
「お前ら、あとでどうなるか分かってんだろうな!?ぶっ殺してやる!!」
整った小さな顔で、あらゆる罵詈雑言を刻み続ける。
「朔を動けなくしたあと、お前らも同じ目に遭わせてやる!!」
陸は手を止めると、一切物がないがらんどうの部屋で座り込んだ。
「くそっ!どいつもこいつも僕を虚仮にしやがって・・・・!!」
大きな目を怒りに燃やし、陸はごろんと床になった。
「朔の奴、もう絶対許さない」
泣きながら必死に斗賀野笙汰の名前を呼び、彼を求める姿。思い出すだけで腸が煮えくりかえりそうだ。
朔の涙も怯えた顔も震える体も、全て自分のものだ。誰にも渡さない。
「斗賀野笙汰も許せない。僕の朔を奪いやがって、」
腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ。
「朔、次に会ったら覚えておいでよ。絶対に後悔させてやるから」
陸は小さく呟き、うふふふふと不気味な声で笑った。
・・・・恥ずかしい話、良い匂いで目が覚めた。ぐるるる、と抱えた腹が現金な音を立てる。
朔は真っ赤になって熱い顔を、布団で隠す・・・と殆ど同時に遠慮がちにドアのノックされる音がした。
「朔君。宝生だけど、起きてる?」
「!あ、大丈夫です。起きてます」
朔が返事をすると、ユウタをかかえた宝生がヒョイッと顔を覗かせた。
「良かったら昼飯どう?家政婦さんのメシだから、美味いよ?」
「た、食べたいです」
「じゃあ俺の分も持ってくるから、待ってて。ここで食べよう」
宝生は部屋に入ってくると、朔に向けてユウタを差し出した。キョトン、とする朔をユウタの黒い団栗眼が見詰めている。
「こいつ、抱っこしてて。どうも朔君のこと心配で、あのドアの前でずっと待ってたっぽいんだよね」
「え!」
思わずユウタを凝視すると、ユウタは一つ嬉しげにワンッと吼えた。
朔は戸惑いながらも、手を伸ばしてユウタを受け取る。
「じゃあ、すぐ戻ってくる」
そう言って宝生は部屋を出て行く。
「ぼ、僕・・・のこと、心配してくれた、の?」
「ワンッ!はっはっは、」
真っ赤なベロを出し、ユウタは無心に朔を見つめている。
「ありがとう・・・でいいのかな、」
犬って温かいんだ、と朔は思った。生きている、からか。
(生きてるって、どういうことなんだろう)
呼吸をし、目を開き、食事を摂り、テレビを観たり話をしたりする。それで“生きてる”ということになるのだろうか。心臓が動いていれば、“生きている”ことになるんだろうか。
(・・・・何を考えてるんだ、僕は)
「お待たせ」
宝生が戻って来た。彼は硝子テーブルの上に幾つかの料理を並べていく。
「美味しそう、」
並んだ料理は、和食だった。
炊き込み御飯で作られた御結び、ほうれん草の白和え、出汁巻き卵、鮭の塩焼き、豆腐と若芽のお吸い物。
まるで朝食みたいだ、と朔は思った。
「ちょっと薄味かも知れないけど、美佳子さん・・・あ、家政婦さんの名前だけど、美佳子さんの作る料理はまじで美味いから。朔君もきっと気に入ってくれると思うよ」
宝生が照れたように言う。
「ほら、食べなよ」
「い、いただきます」
笙汰のご飯も美味しかったが、男の料理というイメージがあった。だが今並んでいる料理は何処か気品のようなものが漂っている。
朔は箸を手にすると、まずは出汁巻き卵にその先を伸ばした。そっと口にし、ゆっくり咀嚼する。
(何だろう……優しい味、がする)
「美味いだろ?」
「はい、」
すべての品に一度ずつ箸をつける。
……美味しい。体に、心に染み渡る気がする。
「良かった。気に入って貰えたようだな」
「はい。とても、美味しいです」
そう、美味しい。
自分にはもったいないくらい、美味しい。
なのに、なのにどうして。
「くぅん?」
「あ、ごめ……んね、ユウタ。冷たいね、」
膝の上にのっているユウタの鼻先に涙が落ちて、朔は慌てて彼の鼻を拭いてやる。
「泣きたいんだな」
「……!」
宝生が、優しく微笑んでいる。朔は真っ赤になった目で、彼を見る。
「泣きたいなら、泣けば良い。飯が泣く程美味いから、って思ってやる」
どうしてこの人はこんなに優しいのだろう。
会ったのだって、笙汰の部屋での一度きりで、その時だって大した触れ合いなどなかったのに。
「ユウタも、きっと俺と同じように思ってくれてるからさ。きっと」
「わん!わんっ」
宝生の言葉が分かるのか、彼に追従するようにユウタが吠えた。
「……………」
朔は箸を握ったまま、並べられた料理に再度目を落とす。
綺麗な色合いで、美味しくて疲れた体と心に染み渡るくらいに優しい味で。
何故かその一方で悲しくて。
『たくさん食えよ』
何処か気恥ずかしげに言ってくれた、拗ねたような顔を思い出す。現金な朔の腹に呆れつつも、美味しいご飯を作ってくれて。
……鳴海があんな目に遭ったのに、朔は悪くないと言ってくれて。
大きく温かい手で、頭を撫でてくれて。
「と、がっ」
ひくっ、としゃくりあげ朔は箸を取り落とす。
「……斗賀野さ…っ、」
どうして、こんなに苦しいのだろう。どうして、こんなに悲しいのだろう。自分から逃げて来たのに。
もう笙汰や鳴海を傷付けたくないからと自分が望んで彼らから遠ざかったのに。公園での笙汰との電話のやり取りを思い出す。
それだけで、涙腺が決壊したかのように朔は涙を溢す。
「そうだ。悲しいなら、泣きたいなら、泣けば良い。………何で、結羽は泣かなかったんだ」
結羽とは誰だろう、と宝生の呟きを聞いて思ったが朔は自分の中で込み上げる苦しい想いを消化するのに精一杯で宝生の辛そうな表情には全く気付けなかった。
「斗賀野さん、」
会いたい。勝手だけど。自分から遠ざけたけれど。
彼に、斗賀野笙汰に会いたいと思う気持ちは本物だと朔は思った。
そうだ、と宝生は俯いて泣き続ける少年を見守りながら、気付いた。
少年は、似ているのだ。死んでしまった宝生の、妹に。
朔は男で妹は当然女だが、性別など関係ない。
顔立ちも、今にも消え入りそうな儚い雰囲気も。妹に重なってしまう。
(どうしてだ?)
単なる気のせいだろうか。・・・・きっとそうなのだろうが、
(笙汰のやろう、こんな良い子を泣かしやがって)
友人に内心で毒づくと同時に、一体笙汰と朔に何があったのかが気になった。
そして、一応は笙汰の“親戚”と認識している朔は、本当に笙汰の親戚なのか、と。
「ユウタ、おいで。一人にしてあげよう」
大人しく自分の元にやって来た愛犬を抱き上げ、宝生は部屋を出た。朔の、聞くものの心も痛くしそうな嗚咽を耳にしながら。
「おやおや」
和晃の病室に行くと、笙汰が頭を和晃の胸のあたりにつけて眠りに落ちていた。
本当に帰ったのだろうかと思っていたが、和晃と一緒に寝ていたとは、と鳴海章介は苦笑する。
「和晃、良い先輩を・・・いや、良い友人を持ったな」
出会った頃の和晃からは考えられないほど、最近の彼はよく笑うようになった。
特に笙汰の話をする時はいきいきとして円らな瞳をきらきらと輝かせていた。
(和晃、お前を殺そうとしたのは、一体誰なんだ?お前を哀しい目に遭わせようとしたのは、何処の誰なんだ?)
もう少しで喪われていた、愛しい者の命。
事故に遭ったと聞いただけで抉られそうだった肺腑は、命が喪われていたら肺腑は粉微塵だったに違いない。
(・・・・お前の“力”に、関係しているのか?)
そう。章介は知っている。鳴海和晃という人間の持つ、不思議な“力”を。
ふとした機会に、章介は見たのだ。部屋にあった、花瓶に差さった花が萎れていることに気付いた和晃が、そっとそれに指を伸ばしたと思うや否や、
「・・・・・萎れて下を向いていた花が、まるでビデオの巻き戻しでも見ているように綺麗に咲き誇ったんだったね。どんな手品かと思ったよ」
だがそのことを不気味だと思うことは、章介はしなかった。笙汰と同じように。
「お前にピッタリだと、思った」
なあ、と章介は甥っ子を慈愛に満ちた視線で見下ろす。
「優しいお前に、ピッタリだって」
「ん、」
笙汰が小さく声を上げて、身動ぎをする。起きるだろうか、と思ったが彼は目覚めなかった。
「なる・・・み、」
彼の身を案じて帰るようにと言ったが、それは間違いだったかと章介は思った。
「ありがとう、斗賀野君」
微笑み、もう少し二人きりにしてあげようと章介は静かに病室を後にした。