23、迷子と不穏と涙と
朔は宝生の家へ行きます。
一方、笙汰は春樹と鳴海の病室で再会し・・・・・。
「お、お邪魔します……」
「そんなにビビらなくて良いから。ほら、上がって上がって」
「は、はい……」
宝生家は一軒家だった。しかも庭付きで車種は分からないものの、黒塗りの車がとまっていた。
「この時間は誰も居ないし、自由に寛いで良いよ」
そうは言われても自由に出来ないのが、朔だ。宝生がキッチンに歩いて行く後ろをぴったりくっついて行く。
「良いから、座ってて」
「で、でも」
「……分かった分かった。じゃあ、冷蔵庫に牛乳があるから出してくれる?朔君は珈琲、飲める?」
初めて耳にする単語に、朔はおうむ返しのように反応する。
「こーひー?」
「え、朔君は珈琲知らないの?」
何故か自分がひどく愚かな気がして、朔はサッと頬を赤らめた。
「す、すみません」
「あ、謝らなくて良いけど……じゃあ試しに飲んでみようか」
そう言うと、宝生は戸棚からインスタント珈琲を取り出して明らかに来客用だと分かる、白銀を基調とした、品の良い小花模様があしらわれているカップに匙で掬い取った珈琲の粒を入れる。
「朔君、牛乳」
「!はい」
ぼんやりと宝生の様子を観察していた朔は、牛乳のことをすっかり忘れていた。慌てて冷蔵庫に手を伸ばし、牛乳パックを取って宝生に渡す。
「うちの珈琲、少し苦いから俺も牛乳がないと飲めなくてね」
電気ポットから湯を注ぎ、さらに牛乳を入れ、銀のティースプーンで茶色い液体をカチャカチャとかき混ぜる。
「はい。珈琲ていうか、殆んどカフェオレだけど」
「あ、ありがとうございます……」
「じゃ、こっち」
宝生について、朔はキッチンを出た。
「朔君、犬は平気?」
「いぬ?」
「え、犬も知らない?」
きょとんとした表情の宝生を見ていると、朔は自分が小さな子供になったみたいで恥ずかしくなる。カップをギュッと握り締め、朔は真っ赤になった顔を俯かせると言い訳をするように口をもごもごさせる。
「み、見たら……きっと分かります……」
「わ、悪い。別にからかったわけじゃないんだぜ?」
「は、はい」
宝生は内心でやれやれと思いながら、自室のドアを開けた。
「わんっ!」
「っ!」
部屋から何かが飛び出して来て、しかもいきなり声を上げたものだから朔はビクッとして思わずカップを落としてしまった。
ガシャンッ!と激しい音を立てて割れ、薄茶色をした液体が綺麗なフローリングの床を流れる。
「あ、あ」
「朔君、大丈夫?熱くなかった?」
宝生は自分のカップを部屋の机に置き、朔を下がらせると洗面所に走った。雑巾を手にして戻ると、涙目になった朔が自分の服を脱いで溢れた珈琲を拭いており思わず瞠目した。
「さ、朔君、何やってんの!」
「ひぐっ、」
怒っているつもりはないのだが、宝生が大声を出すと朔は喉を鳴らして体を硬直させた。
「ご、ごめ……なさ、」
それでも尚、床を拭こうとする朔を止めようとしたとき、ようやく宝生は気付いた。
(なんだ、あの傷……)
朔は今上半身、裸なわけだが……その裸身に縦横無尽に走る傷痕を見て絶句する。恐らくナイフのような刃物で出来た傷なのだと予想出来た。
虐待、なのだろうか。
「う、ひっく、うっ……」
「朔君、もう良いから!止めなさいっ」
宝生が朔の手から珈琲で濡れてしまった服を奪い取る。朔が手を伸ばしてくるが、宝生は服を自分の後ろに隠した。
「大丈夫だから」
「だ、だけど」
「怒ってないから、そんなに泣きそうな顔をしないで」
宝生が朔の頭を撫でると、彼はホッとしたように顔を綻ばせた。
「服は洗濯するとして……問題はそれが乾くまで、か」
宝生は朔を部屋のベッドに座らせると、クローゼットを開け整理整頓されているとは言い難い洋服入れを掻き回す。朔の体型に合うような服などあっただろうか。
「あ、あの…」
「ん?」
「あの……お布団、お借りしてもいい、ですか?」
遠慮がちな問いかけ。
(そうか……あんな傷痕、他人に見られたくはないだろうからな)
宝生は朔に背を向けたままで良いよ、と頷く。
「あ、りがとうございます」
ずる、という衣擦れの音がする中、宝生は服を探す。だが朔に合いそうなサイズの服は見当たらない。当たり前と言えば当たり前か。宝生は悩む。
(さっさと洗濯して乾燥させるか……んで乾くまでは布団をかぶっといてもらうか)
朔にそう尋ねると、朔は小さく頷いた。
「ごめんね。すぐに洗濯して来るから、ゆっくりしてて」
宝生が部屋を出て行き、朔は一人になった。
「斗賀野さん・・・・・・」
布団を掴み、心細さに思わず笙汰の名前を呼んでしまう。
「わん!」
「ひあっ」
いきなり自分の真横に何かが乗ってきたかと思うと、大声で鳴かれて朔は悲鳴を上げた。
「な、なに・・・・・・」
カップを割ったこととコーヒーを溢してしまったショックに陥っていた朔は、“それ”の存在を完全に忘れていた。小さくてこげ茶色で、真っ赤な舌をべろりと出し、ハッハッハと息をしている”それ”。
背後でぱたぱたと左右に揺れているものは何だろう、と朔は不思議に思う。首周りに赤色の輪がついているが苦しくないのだろうか。
「朔君どうした・・・って、ユウタか」
「ゆ、ゆうた?」
「そ。そいつの名前」
戻って来た宝生が“それ”に指を差して言うと、ユウタという名らしい“それ”はベッドから降りるといそいそと宝生の足元へ移動する。宝生はユウタを抱えると、
「ただいま」
と頭を撫でてやる。
「朔君を驚かせたのはこいつだな。悪かったね」
「い、いえ」
まだドキドキしている心臓を宥めながら、朔は宝生の腕の中のユウタを見る。どうやら彼が宝生の言っていた“犬”のようだ。やはり見たことがなかった。
「多分、俺の部屋にはじめて見る人が来たから、気持ちが弾んじゃったんだろうな」
「は、はあ」
弾まないで欲しい、と思ったことは内緒にしておこうと朔は思った。
「やっぱりサイズが大きくても良いから、服を着てもらおうか」
宝生は小さく呟くと、クローゼットから薄墨色のシャツを出して朔に渡した。
「ないよりはマシだと思うから」
朔はおずおずとシャツを受け取ると、自分の体に走る傷痕は見ないようにそれを羽織った。やはりぶかぶかで、ボタンをしても肩幅が合っておらずずるりと下がりそうになる。
「眠そうだね。少し寝る?」
「え、でも・・・・」
「遠慮しなくて良いよ。すごく疲れた顔してるし、無理は体に良くないからね」
ユウタが宝生の言葉に追従するかのように鳴いた。
「・・・・じゃ、じゃあ少しだけ、」
「好きなだけ良いよ。どうせこの部屋には誰も来やしないから」
一瞬宝生がひどく儚い笑みを浮かべたように見え、朔は息を呑んだ。
「それじゃお休み。俺は出てるから、ゆっくり休んで」
宝生はそう言い、朔のそばにいたそうなユウタを抱いたまま、静かに部屋を出た。
一人残った朔は、ごろりと横になった。クローゼットの中はチラ見するだけで整理されていないと分かったが、室内は比較的綺麗で整っている。
(・・・・本当だ、眠い)
ぼんやりとした目で部屋を眺めていると、急激な睡魔が体を襲ってきた。
昨晩は公園のベンチという場所で寝たけれど、やはりそれでは眠ったとは言えなかったのだろう。
(とが・・・・・さ、)
笙汰の顔を思い浮かべながら、朔は深い眠りに落ちて行った。
「世界を、壊す・・・・・?」
思わず言葉に、俺は完全に虚を突かれていた。
「そうだよ。世界を壊したいんだよ、俺たちは。この腐りきった世界からの解放を願っているんだ」
歌うような口調とは裏腹に、奴の顔はどこか寂しげな色を浮かべている。
「朔も・・・・そうだって言うのか?」
そうは訊きながらも、朔の細い体に縦横に走っていた傷痕を俺は思い出していた。そして、眼帯の下の、眼球のない空っぽの眼窩・・・・・。
朔は自分の体と心を傷付けたこの“世界”を憎んでいる?壊したがっている?
「朔は・・・・正直俺にもよく分からないな」
「え?」
「朔は昔からあまり自分の意志を言わない子でね、大抵は陸に従うんだ。それは別に陸が脅すからじゃなくあくまで自分の意志で、だ。最近はそうじゃないけど」
「・・・・・・」
「最近の陸は“力”で朔を支配するようになっていた。だから朔は陸に従う。従わざるを得ない。だから朔自身がこの世界をどう思いどうしたいのか、正直なところを俺は知らない」
俺は何も言えず、黙って奴の話を聞くしかできない。俺の緊張を察した鳴海が、更に強く俺のシャツの裾を握りこんでくる。
「だが陸は、心からこの“世界”と“異能者”を憎み、壊したがっている」
奴の目が、無防備に横になる鳴海に向けられる。
「あんた、」
「違うよ。彼には何もしない、約束する」
信用出来ない。
俺はじっと奴を睨み付ける。
「彼には・・・鳴海和晃君には申し訳ないことをしたと思っている」
「・・・・・・・」
「だが何も鳴海君だけではないんだよ。相手が誰だろうと、陸は“異能者”であれば殺す。殺そうとする。好きも嫌いもない。“異能者”は残らず叩き潰す・・・これが陸の信念だから」
信念?はた迷惑な信念だと俺は思う。そんなもんに巻き込まれた鳴海はどうなるのだ。
「そんな信念で、鳴海を殺そうとしたってのか」
何だ、胸の奥がざわざわする。
今までに感じたことのない不安定さを感じ、俺は少しだけ驚いた。
「・・・・俺は君はあまり人や物に執着するようには見えなかったが、見当違いだったかな」
「あ?」
「どうやらその子のことが大切で大切で仕方ないらしいね」
「だったらどうだってんだ。“奪う”ってか?」
こいつは一体何をしに来たんだ。俺をからかいに来たのか?と勘繰る。
そのとき、
「めて、」
「鳴海?」
鳴海が急に声を出したから、俺は驚いた。奴も不思議そうな顔で鳴海を見る。
「鳴海、どうした。気分でも悪いか?」
口元に耳を近づけ、問い掛ける。
だが鳴海は俺の問いには応えずに、こんなことを言い出した。
「や・・・めて、せん、ぱいをこまら・・・せる、のは。せ、ぱ・・・を、苛め、る、のは、めて・・・・ください、」
切れ切れながらも、鳴海が俺をかばうような、守るような言葉を口にする。
「鳴海、良いから。あまり喋るな」
「で、も」
「あんた、用事が済んだらさっさと出て行ってくれよ。あんたのことも陸のことも、」
涙に濡れた大きな瞳が脳裡を過ぎるが、
「・・・・・朔のことも、俺には関係ないから」
俺は奴にそう言い放った。
奴がそうか、と軽く微笑む。
「それを聞けて安心したよ。ではそろそろお暇するよ、邪魔みたいだしね」
革靴が音を立ててスライド式のドアの前に移動し、そこでぴたりと止まった。
「もう二度と会わないで済むことを願っているよ」
そんな言葉を最後に、奴は病室を出て行った。
「俺だって会いたくねぇよ」
後輩を傷付けるような奴に会って何が楽しいと言うのだ。
・・・・・・世界を、壊す。
どうやって?と考える俺は、どうなのだろう。
俺は、どうして生きているのだろう。こんな“欠陥”だらけの癖して。
本当に俺はこの世界にいたいと思っているのか?この世界を大切だと思っているのか?本当は俺も奴らみたく、世界を壊したいと思っているのではないのか?
「せ・・・ぱい、」
鳴海の声で、俺はハッと我に返った。鳴海の不安げな眼差しが、俺を映し出している。
「サンキュな。お前、俺を守ろうとしてくれたんだろ?」
「え、・・・・と、」
「やっぱりもう少し傍にいるよ」
「ほ・・・・んと、に?」
「ああ。だから、お休み」
鳴海は従順な様子で一つ頷くと、俺の手を握って来た。包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しいその手を、俺はそっと握り返した。
「ありがとうな、鳴海」
守っているつもりで守られていたのかも知れない。そう思うとおかしくて、おかしくて。
とうに枯れ果てたと思っていた涙というものが、静かに俺の頬を伝って行った。