9、鳴海の“手”
ドアを開けた瞬間に飛び込んできた光景に、俺は部屋を間違えたかとさえ思った。だが調度品は俺のものだし、最上階端を間違えることはあるまいと思い、ここは俺の部屋だと結論付ける。
「……朔?」
布団にいるはずの朔の姿がない。しかも室内は嵐が通過したのかと言えるくらいに荒れていた。せっかく整理した書類が床に散らばり、机は薙ぎ倒され、箪笥の引き出しが全部開けられ、数枚の服が床に散乱している。そして、所々に散らばる血液が目に飛び込んで来る。朔が喀血したのか?
「朔!」
とりあえず屋内にいるかどうか確認しなければ。
「水の音……?」
そして今更ながらに、俺の耳が水の流れるような音を捉えた。台所の流しは止まっている……とくれば風呂か!?
「!朔!?」
朔は浴槽に頭を突っ込んだ状態でぴくりとも身動ぎしていない。蛇口から出ているのは真水で、どうやら朔は水を貯めた浴槽に頭を浸けているらしい…って悠長に状況を確認している場合ではない。
「お前、何やってるんだ!」
ぐいっと肩を掴み、頭を浴槽から引き上げる。
「おい、朔、おい、起きろっ!!」
朔の口元には血が付いたような痕跡がある。眉は苦し気にしかめられ、色を失った唇が恐怖のためか小刻みに震えている。
「朔!」
「っ、ん……」
ようやく反応があった。小さく呻いた後、ゆっくりと目を開く。
「大丈夫か!?何があったんだ」
「あ、ぼ・・・・・く、」
朔はどうやら頭がぼんやりするらしく、しばらく俺を見上げていた。
「どうした、朔」
「・・・・・・・一人で居たら、急にドアが開いて、」
朔はゆっくりと俺から離れ、寒気がするのか自分の肩を抱く。
「男の人が何人か入って来て、僕を殺そうとしてた・・・・・・」
そのときの恐怖を思い出したのか、朔は苦しげに顔を歪めた。小刻みに震える体。
「朔を?」
朔は頷き、
「抵抗したけど、敵わなくて・・・・・ここまで引きづられて、頭をつけられて、」
そう言われて、朔が頭からずぶ濡れになっていることをようやく実感する。俺は慌ててバスタオルを出すと、朔の頭にかけてやる。
「とりあえず頭を乾かそう。パジャマも新しいの出すから、」
俺の差し出した手を取る朔の手も小さく震えていて、尋常ではない恐怖を体感していたのだと認識する。
「ちょっと待ってろ」
俺は朔を部屋に立たせたまま、別のパジャマを引っ張り出す。
「これに着替えて、」
「・・・・どうして?」
いきなり問い掛けてきた朔は、バスタオルをかぶったままで泣いていた。俯いているため、涙は簡単に床に滴る。
「朔?」
「どうして、訊かないの。どうして、僕のこと放り出さないの?どうして、優しいの?」
恐らく朔の出自や、鳴海のこと、そして襲われる理由。それらを訊かないのは何故なのか、と言いたいのだろう。
「ふえっ・・・・ひっく、」
迷子になってしまった幼子のように、朔は嗚咽を漏らしている。俺はしばらく何も言えず、突っ立っているだけだった。
「・・・・・・何だ、放り出して欲しいのか」
冷徹に言ったつもりはなく、単純に思ったことを言ったまでだ。だが朔の嗚咽が急に止み、荒かった息が詰まるのが分かった。朔は恐る恐る、といった風に顔を上げて俺を見た。
涙の伝った跡が、頬にくっきりと残っている。
「・・・・・・・」
「お前が放り出して欲しいって言うなら放り出してやるよ」
「ち、違う・・・そういうことじゃなくて、」
「じゃあ何」
急に面倒くさい気持ちになって、持ったままだったパジャマをバサッと床に落とした。いい加減に受け取れよ、と少し思った。
「だから、その、不気味に思わないの・・・・・」
「何を」
「体の、傷のこと・・・とか、誰に襲われたのか、とか」
「訊けば答えるのか?」
「そ、それは、」
「・・・・・そういえば、お前を襲った奴は何処に行ったんだ?それらしい人影がなかったんだが」
「・・・・・・・・」
答えを持ってはいるらしいが、答えるか否か迷っている様子がありありと伺えた。
そんな状態で、よく訊かないの?と言えたものだ。
答えたくない、訊いて欲しくない。そう朔が思っていることは明白だった。俺は溜息をついて、朔の頭をバスタオル越しに掻き乱した。
「え、え、」
「良いからパジャマ替えろ。眼帯も変えないとな・・・・・・。落ち着いてから、鳴海のことで訊きたいことがあるし」
鳴海、という名前に朔がビクッと反応したのが分かったが、今は問い詰めるべき時ではないだろう。俺はそう判断して、このときは口を噤んでいた。
意外とどの棚にどの服が入っていたか自分でも分からないものなんだな、と俺は部屋を片しながら思っていた。
「こんなダサいシャツ、俺いつ買ったんだろう・・・・・」
書類を拾い集めては、俺の努力は一体何だったんだろうと思ったりもした。
「ごめん、血がついた・・・ね」
「良い。気にするな」
水を含ませたタオルで血の跡を叩いてみたが、あまり効果はない。時間が経ちすぎているのだ。それでも誤魔化せる範囲ではあるから、良しとしよう。
朔は俺が作ったホットココアの入った湯気の立つマグカップを両手に、俺の所作をずっと目で追っていた。まるで何かを見ていないと、余計なことを考えてしまいそうで恐いというかのように。
「美味いか?ココア」
「う、うん・・・・・・」
朔は俺から目を逸らすと、気まずげにココアを啜る。
「・・・・・鳴海、今日がヤマだって。ヤマって意味、分かるか?」
朔は小さく頷く。
「鳴海さん、無事だったんだ・・・?」
安堵の篭もった声。
「一応な。後は本人の気の持ち様だって、先生は言ってた」
「・・・・・・」
「なぁ、鳴海を殺そうとしたのは、朔の兄貴なのか?」
「!!」
顔を逸らしたまま、朔は体を強張らせ、俺の言葉が真実だと示した。
「・・・・朔を責めるわけじゃないから、素直に応えてくれ・・・どうして鳴海は殺されそうになったんだ?あいつが何かしたのか?」
「そ・・・・れは、」
「それにお前、鳴海の手のことに気付いてたろ。あれはどういう理由だ?」
鳴海には不思議な力がある。いや、正確に言えば、鳴海の“手”が、だが。
俺は朔を問い詰めながら、ある過去の情景を思い返していた。
あれは確か鳴海が二年生、俺が四年生にあがって一ヵ月後くらいの新緑の季節だったと思う。サークルのことで話があって、俺は放課後に鳴海を探していた。
「お、いたいた」
鳴海がいたのは、大学長が趣味でしている菜園のそばにある花壇の縁だった。だが俺がやってきた校舎に背を向けて、花壇に手を伸ばしていた。何をしているのだろうと思って声を掛けようとした俺の声は口から発されることはなかった。
「・・・・・・・・・・?」
綺麗に咲き誇るパンジーの中、一本だけ何故か枯れかけている花びらに鳴海の手が触れた瞬間、俺の目に想像を絶する光景が飛び込んで来た。
鳴海が手を触れて五秒ほどした後、枯れ掛けて俯いていたパンジーが顔を上げたのである。加え花びらが綺麗に色づき、さっきまで枯れ掛けていたことが嘘のようになった。まるでマジックを見ているような気持ちになって、俺は、
「どうやったんだ?」
「!先輩!?」
鳴海がどう思うかも考えずに、声を掛けていた。
鳴海は見られていたのか、と気まずげな顔になったが俺はそんなことどうでも良かった。ただ鳴海のしたことに驚いていただけで鳴海に恐怖や気味悪さなどは一切感じていなかった。
「すごいな、手品じゃないんだろ?」
「せ、先輩、恐くないんですか?」
鳴海がおずおずと訊いてくる。不安そうに目があちこちに動いている。まるで盗みを見つかった小心者の泥棒みたいで、俺は吹き出した。
「な、何で笑うんですかっ」
鳴海が真っ赤になって声をあらげる。全く威圧感はないが。
「別に……なぁ、さっきのすごいな。昔から出来るの?」
鳴海は不思議そうに目を真ん丸にして俺を見る。
「は、はい……初めて気付いたのは小学三年生のとき、です」
鳴海の口調が重たくなり、俺はあぁ成る程……と納得する。恐らくその際誰かに目撃されて不気味がられたのだろう。そんな記憶が過ったに違いない。不安そうな後輩の頭に手をやれば、鳴海は気持ちよさげに目を細める。
「昔何があったか知らんけど、俺は気持ち悪いとか不気味に思ったりはしないから、まぁ安心しろ」
鳴海の髪は滑らかで柔らかく、触れている自分ですら気持ち良くなる。
「先輩って、本当に不思議な人ですよね」
「変人ってことか?」
「…そういう意味じゃないです」
拗ねたように言う鳴海の姿が可笑しくて、俺は久しぶりに大声を上げて笑った。鳴海は奴にしては憮然とした顔をしていたが、俺につられたのかはにかんだ笑みを浮かべた。くちさがない者はその笑みを女みたいだと嘲笑する輩もいたが、俺は鳴海のその笑顔が心地よいと感じていた。…決して変な意味合いはないが。
「そう言えば、先輩どうしたんですか?こんなところまで」
「おお、鳴海を探してたんだよ。サークルのことで話があるから、部室棟まで来てくれるか」
「・・・・はい」
頷き、鳴海は再び元気になったパンジーに指先だけでそっと触れた。軽く揺れる花びらが、鳴海にお礼を言っているように見え、俺はむずがゆい気持ちになった。
「ありがとうございます、先輩」
歩き出した鳴海が不意に言った言葉に、俺は軽く眉を上げる。
「・・・・・僕のこの“力”を不気味がらないで凄いって言ってくれて、ありがとうございます」
何だそんなことか、と思ったが鳴海にとっては大問題なのだろう。俺は笑みで応え、部室棟へ向かって歩き出した。
「・・・・なぁ、朔。応えてくれよ」
朔は怯えるように身を硬くしたまま、顔を逸らしたままだ。
ほら見ろ、と俺は思う。何が、訊かないの、だ。折角訊いてやったのに応えないじゃないか。
応える気がないなら、最初からそんなこと言い出すな。
俺は軽く息をはいて、朔から視線を逸らした。
訊くだけ無駄だったわけだ。
「・・・・・・・分かった、もういい」
これ以上このことで時間をかけるわけには行かない、そう思った。その瞬間、携帯電話が震えた。鳴海の病態に何か変化があったのだろうか。俺は俺にしては焦りながら通話ボタンを押した。
「・・・・・もしもし」
『あのさぁ、僕の可愛い弟を苛めないでくれない?』
それは鳴海の背を押したと電話で自白してきた人物の声だった。