第172話 ●「神様の思し召し」
エルスリードから南へ二日ほど離れたところにある『カルイン村』
そこで私――アーガント・レクスは生まれた。
今年で九歳になる。
カルイン村で私は両親と祖父母そして三人の兄の八人で暮らしている。
三年前、新しく領主となったエルスティア様の施策により休耕地で農耕動物を放牧するようにと言われて以降、年を追うごとに実りは豊かになりそれに伴ってそれまで朝と夕食のみだったご飯も質素とはいえ朝昼晩の三食になった。
収穫量が増えると同時に税金も上がったらしいが、それも不作などで十分な食料が確保できなかった村の救済のためという事だ。
農民にとっては不作は常に背中合わせな事、それへの対策と言われれば不満の声は少ない。
それに税金が上がったとはいえそれ以上に収穫が増えているのだ。
生活の余裕は心の余裕にもつながると言ってもいいだろう。
両親や祖父母から言わせれば前領主様も善政を敷いてくれたからこそ、一日二食だったとはいえまともな食事が出来たそうだ。
特に隣のルーティント伯では一日一食を食べることすらままならなかったらしい。
我が家では食事の挨拶では領主様への感謝を口に出すことが習慣だった。
けれど私にはそれ以上に前領主様への感謝の気持ちが強かった。
四年前の一月のある日。
カルイン村は魔物の群れに襲われた。
家族と共に逃げる途中、人波に飲まれて倒れこんだ私が顔を上げた時、目の前には醜悪な魔物がいた。
その手には、青白い光を放つ長い爪。
それが振り上げられて私は殺される……はずだった。
そんなただの農民の娘である私を身を挺して助けてくれたのが、前領主――レインフォード様だった。
薄れ行く記憶の中で覚えている風景はレインフォード様の右腕から飛び散る赤い血の色だった。
次に目覚めた時、家族に囲まれたベッドの上だった。
目覚めて改めて領主様に助けていただいたことを聞いた私の中に小さな、けれど熱い夢が出来上がった。
――治癒師になりたい――
私の中には助けてもらった前領主様を怪我させてしまったという後悔があった。
それを治癒することが出来る。そんな人になりたいという夢が出来た。
農民の娘が抱くにはあまりに大胆で無謀な夢だ。
けれど私は翌日から早速行動を開始した。
カルイン村に住む隠居した元治癒師の下に通い始めたのだ。
当初は門前払いしていたその治癒師も三ヶ月間、毎日のように訪れる私についに折れて教えてくれるようになった。
けれど私には致命的な欠陥があった。
そもそもの魔力量が常人よりも少なかったのだ。
それから一年半、一回目の治癒魔法の詠唱でぶっ倒れる事を繰り返しながら魔力量が増えることを期待した。
だが、突きつけられた現実は優しいものではなかった。
元治癒師も最終的には努力は認めるが……とさじを投げられてしまった。
そんな明日以降の練習を断られ絶望の中、帰宅の途についていた私の前に一人の老人が現れた。
その時、どんな会話をしたのかは未だに思い出すことが出来ない。
老人に会ったことは覚えているのだが、そこから家に着くまでの記憶が一切無いのだ。
しかも老人に会ったことは覚えていても、それがどんな老人だったかも思い出せない。
家に着いた時、私の両手は大事そうに一冊の分厚い本を抱きかかえていた。
その本の文字を家族は誰も読むことが出来なかったにも関わらずなぜか私は読むことが出来た。
家族には魔法を教えてもらっていたからかもね。と変な納得をされたものだ。
そこに書かれた内容は私にとっては驚きの連続であった。
魔法を必要としない治療――『医術』――その教本だったのだ。
驚きだったのは目に見ることが出来ない細菌に関しての記述。
それにより人体への悪影響がある可能性。
それらは本来、理解することも難しい内容。
にも拘らず治癒魔法とは違い自分がどんどんと吸収していくことを実感できた。
そしてその一冊を熟読できた頃……朝起きるとその枕元に新たな本が現れるという不思議な体験もした。
今ではそれらの本が六冊。
そして来年――カルイン村に新たな施設が出来上がる。
『カルイン学習舎』
なんでも現領主様の提案で子供に読み・書き・計算を無償で教えてくれる場所だそうだ。
今までは、エルスリードで試験的に導入されていたが、第一弾として周辺の五の町村に新設された内の一つがここカルイン村だった。
農繁期は回数を減らすらしいが基本的には一月に十五日、つまりは半月ほど授業が行われるらしい。
なぜカルイン村が選ばれたのかはさっぱり分からないが、自分や兄達も来年から勉強することが出来る。
自分にとってはここで一般的な教育を受ける事で前領主様への恩を現当主様に返すことが出来るかもしれない。
感謝してもしきれないことだった。
――――
時は少し遡って王国歴三百十一年四月二十四日
エルスリードでの無償教育を開始して丸三年が過ぎた。
アリスからはかなり順調だという報告をうけ、さらに来年に向けて五箇所の町村への新設を決定した。
学科制を導入するにしてもアリスが言っていたように下地が十分に出来た将来の話。
そもそもが学生が少ない。教師が少ない。無い無い尽くしなのだ。
その中でも教師役としてはこの三年の教育で優秀な成績を修めた年長者から十数名をスカウトした。
多くが元々裕福な農家の生まれで差はあれど教育を受けていた子供。
殆ど教育を受けていなかった子供が教師になるだけの道が出来て始めて学科制導入を本格的に進められる下地が出来たと考えたほうがいいだろう。
それには十年単位の長期スパンで考えることになるだろう。
という事でまずは分母、つまりは学生の人数を増やすために行動する必要がある。
今回スカウトした子達は、執務官レベルの教育を受けた人材に比べればかなり安上がりとなる。
それでも彼らにとっては破格の賃金と言えるけれどね。それだけの学があるものと無学の者との格差があるのだ。
この第一弾で問題なければ一気に拡大していくのも夢ではないだろう。
ということでアリスと共に第一弾の候補選抜を始めたわけだけど……
「うーん、なかなか候補が決まらないねぇ」
僕の目の前には二百に渡る町村の名前がリスト化されている。
この中から五箇所を選ぶことになるのだけれどこれといった決め手に欠いていた。
第一弾で派遣されることになる教師は、完全な新米。
ゆえにイカレスやアウトリアといった大規模な町、生徒が多い場所は厳しいだろう。
かといって十人程度の村だと生徒より教師のほうが多いなんてこともありうる。
子供の人数が数十人といった感じの村がいいのだけれど、そもそも前にも言ったように村ごとの人口資料の精度が低い。
場所によっては『約五百人』なんていうざっくりとした数で書かれたところもあるのだ。
「……改めて戸籍はちゃんと作る必要があるよなぁ」
僕はそうぼやく。
「エルスリードで教育を受けている人を今後、役人として雇い入れて各町に派遣して戸籍作成をしてもらう事も検討しますね」
アリスはそう答える。いわゆる地方公務員だ。
「そうだね。それも見越しての教育でもあるわけだし。まぁ今は今ある情報で選ばざるを得ないね」
そう言って再びリストに目を落とす。
その中でふと一つの村の名前に目が止まる。
「カルイン……村」
「カルイン村ですか? ……なるほど人口的には適当な感じではありますね。
ですが何か思うところがあったんですか?」
僕のつぶやきにアリスは一覧から対象の村を探し出して僕に聞いてくる。
「いや、そんなものは無いんだけどね……何か引っかかるんだ」
「であれば、その直感を信じるのも良いのではないですか?」
「へー」
「どうかされましたか?」
「いや、アリスの口から『直感を信じる』なんていう言葉が出ると思ってなかったからね」
「私だっていつも理論だけで生きているわけではありませんからね。
政治も時には直感を信じたほうが良いこともありますし。
ちなみにバルクス伯の執務試験を受けようと思ったのも直感でしたし、もちろん今でも後悔していませんよ」
「それはそれは、光栄ですな」
そう言うとアリスと僕は笑いあう。
「話を戻すとして、カルイン村も候補にするということでよろしいですか?」
「うん、これも神の思し召しかもしれないからね」
「かしこまりました」
そう言うとアリスはカルイン村に丸を付ける。
本当に神の思し召しとはこの時の僕達には知りようも無かった。
いつも読んでいただき有難うございます。
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