第111話 ●「密約」
「くそ、屈辱だな……」
男は誰にともなくごちる。
男がいるのは本来の彼がいる場所としては質素と言えるかもしれない。
だが、事が事だけに公にできない事情がある。不満はあるが我慢するしかない。
彼の独り言に横に控えていた男が几帳面に反応する。
「王太子にはご足労をおかけしますが、我慢の程を……」
「ふん、分かっておるわ。これも私が王になるためであろ?」
王太子――エスカリア王国第一王子ルーザス・エスカリア・バレントンは煩わしそうに漏らす。
御年四十六。イグルス第三王子やベルティリア第二王子が曲がりなりにも鍛錬によって体形を維持しているのに比べればお世辞にも痩せているとは言えない。
彼の周囲からの評価は……『無能』であろう。いや人によっては『担ぐ神輿は軽いに限る』であろうか?
実際には体重が重すぎて担ぐことなどできはしないが。
もともと彼の評価もここまでは低くはなかった。
二十歳の時に発生したベルカリア連邦との戦争が彼の人生を狂わせたのかもしれない。
その戦争は彼にとって初陣であった。
彼が率いるのは第七騎士団五千。
初陣ゆえ戦場の空気を味わう程度の感覚で前線からやや後方に陣取り、そのまま何事もなく終結するはずだった。
それは本当に偶然。
敗走したベルカリア連邦軍五百が、やや前方に進めていた彼の軍と遭遇したのだ。
五百対五千。本来であれば戦いにもならない兵力差。
だが彼はパニックを起こす。撤退を咄嗟に命令したのだ。
それにより進軍という本来の命令と撤退という相反する命令に軍は混乱。
十倍に比する敵に全滅を覚悟していたベルカリア連邦軍は好機と見て王国軍に一撃を加える。
王国軍がようやく混乱から立ち直った際、既にベルカリア連邦軍は撤退済み。
王国軍側は死傷者三百、負傷者千という大敗北を喫する。
さらに彼を庇って第七騎士団副長が戦死というおまけつきで。
戦場全体で見渡せば王国軍は圧勝していたが、そのわずか一度の大敗北にケチがつく。
連邦は自軍の敗北からできるだけ目をそらさせようと、この大勝利を大々的に宣伝したのだ。
いかに部隊を率いる将が無様であったか、いかに自軍の奮戦が素晴らしかったかを集中的に……
それは王国にとっては恥辱以上の何物でもなかった。
そして王子はこのただ一度の失敗により『無能』の烙印を押される。
『あの大敗北を犯した王子』と……
この事で国王レースのトップを走っていたはずの彼は大失速。混迷を招くことになる。
さらに現状は二年前の戦争の勝利により第二・第三王子に大差をつけられている。
あの戦争に彼も参加していたがたった一度の会戦にも不参加。
彼がした事は休戦交渉時に王国側の三番目の代表としてサインをしたのみだ。
彼はもう脱落したと判断している者もいるだろう。
それは、後ろ盾を失っている事を意味する。
もはや国内に後ろ盾となる弾は無い。であれば外に……それが悪手であろうとも
――――
「王子、相手が参りました」
扉から入ってきた部下が彼に告げる。
その数分後、扉がノックされる。それにルーザスが答えると男が三名、入室してくる。
その身なりは黒ずくめ。むしろ目立つのではないか? とルーザスは思うが言葉にはしない。
「お待たせしました。ルーザス太子殿。
今回の交渉の全権を預かっております。レイモンド。と申します」
三人の中で真ん中に立つ男が恭しく頭を下げながら口を開く。
「ルーザス王子より今回の交渉を任されたプレリスと申します」
レイモンドと名乗った男にルーザスの横に立つ部下が頭を下げる。
ルーザスが口を開く前に話し出したことは普段であればおかしなことだが、何のことはないルーザス自身がこういっためんどくさいやり取りを好まないのだ。
そんな性格だからこそ王として相応しくないと思われているのだがルーザスは知らない。
レイモンドは少々疑問に思ったようだが、ここは公式な場所ではない。そんなものだと自分を納得させる。
「それでは有意義なお話をさせていただきますか」
――――
「……なるほど、太子が我々に求めるのは資金援助という事ですな。
そしてその見返りは太子が王となった際、貿易における関税の十年間の撤廃と……」
「あぁ、そうだ。そちらとしても悪くはない条件のはずだが?」
条件を聞いたレイモンドは黙考にはいる。
条件としては言うように悪くは無い。王国とは大規模な貿易を行っている。
だがその際にかかる関税十%、それが十年とはいえ撤廃されれば利益は莫大になる。
とはいえ、易々とはいそうですか。とはいかない。
この取引はハイリスクハイリターンなのだ。この王太子が現時点で王位に就くことは限りなく低い。
それは王国にいるスパイの情報から間違いないだろう。
今の時点であればイグルス第三王子にベットしたほうが賢い。だが既に本命にベットしても旨味はない。
ならば……
「とはいえ、口約束ではなかなか難しいですな。一筆いただけませんでしょうか?」
「なに?」
レイモンドの返しにプレリスが反応する。非公式の会見で証拠を残すことに躊躇いがあるのだ。
だが逆にレイモンドの意図が読めないのであろう。
もしルーザスが王位につけば問題ない。それは公的文章として扱われることになるだろう。
だがルーザスが王位につけなかった場合、文章が漏えいすればそれは瞬く間に外交問題となりえるのだ。
レイモンドの主――――オーベル帝国はエスカリア王国とは友好関係にある。
そのオーベル帝国がルーザス第一王子の支援をしていた。
それを聞いた新王がどう思うかなぞ考えるまでもない。
「それはそちらにとって危険な文章になるのではないか?」
プレリスはレイモンドに問いかける。
それにレイモンドは……嗤う。
「いえいえ、ただこう一筆いただきたいのです。
『十年に渡りオーベル帝国からの関税を撤廃する ルーザス・エスカリア・バレントン』と――」
「!! それはっ!」
それは外交においてはあり得ない。なぜなら見返りのみしか記載されていないのだから。
そしてこれが漏えいしてもルーザスをオーベル帝国が支援した証拠にはならない。
限りなく黒に近いグレーであっても、外交上は証拠が無ければそれは白となる。
だがこの文章は、オーベル帝国にとっては強力なカードになる。
なぜならルーザスはエスカリア王国の執政者の一人として扱われる。
それは例え後継者争いに敗れたとしてもだ。
国際的にみれば後継者争いはエスカリア王国内の問題に過ぎず、外交における制限にはならない。
帝国としては新王に対してもこの文章の権利を主張する事が出来るのである。
実際には新王はこの文章を拒否するだろう、自身にメリットが無いのだから。
だが帝国に対して大きな借りを作る事になる。
別の外交を譲歩させる事ができれば帝国としての損失は少なくすることが出来る。
つまりこの一文のみで帝国はどちらに転がっても――ルーザスが王位につくことが一番望ましいが――損を最小限にすることが出来る。
まさに外交の暴挙。ルーザス側としては一笑に付すべき案件……
……だが、それはルーザス第一王子派がそんな条件を飲まざるを得ない程に追い込まれている事を帝国が掴んでいる事を意味した。
それはどちらの立場が上であるかも……プレリスには悪魔の契約が如きである。
二時間後……人知れず悪魔の契約は行われるのである。




