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後日談:白とバナナとパウンドケーキ

 三年生の先輩がたが卒業してしまうと、校内は少し静かになった。

 単純計算で三分の一の生徒がいなくなってしまったんだから当然かもしれない。三年生の教室があった場所は廊下も教室もがらんとしているし、購買や学校近くのコンビニが混みあうこともあまりなくなった。

 あと一ヶ月もすれば新一年生が入学してくる。そして私達は三年生に進級する。だからといって特別な思い、感慨があるわけじゃないけど――高校生活も残り一年、なんてあんまり実感湧かないし。

 それよりも、来週末に迫ったホワイトデーの方が私にとっては大事だ。


「ホワイトデー、何が欲しい?」

 陸くんの単刀直入な質問に、私はわくわくしながら答える。

「何でもいい!」

「そりゃ一番困る答えだな」

 大人っぽい顔で陸くんがたしなめてきた。

 でも私としては、陸くんから貰えるものなら何でもいい。もっと言えば、陸くんが私の為にしてくれることだったら何だって嬉しい。正直に言うとホワイトデーのことを覚えててくれただけですっごく嬉しかった。

「何かあんだろ、欲しいものくらい」

 非常階段によく響く声で陸くんは言った。


 お昼休みをここで過ごすのがすっかり当たり前になっていた。

 教室が居心地悪いというわけじゃなく、以前に比べたら全然ましなくらいなんだけど、それでもたまに二人きりでご飯食べたいって思うことがある。

 今日は陸くんの方から誘ってくれた。ホワイトデーの話をするのかなと思っていたら、大当たりだった。


「欲しいものかあ……」

 言われて私は考える。

 春物の服、可愛いサンダル、こないだ見かけた派手なバッグ、新色のネイルカラー。この通り欲しいものもなくはないけど、陸くんにねだるものとしてはどれも違う気がする。

「バレンタインの礼がしたい。あんだけしてもらったらな」

 そう言って、陸くんは大きな手で私の頭を撫でた。

 私はその満足そうな顔に視線を向けた。同じ段に座っているのに、陸くんの顔は見上げる高さにある。

「チョコブラウニー、気に入ってくれた?」

「ああ、美味かった。他にもいいもん貰ったけどな」

 さりげなく付け足された一言に私は黙り、そんな私を見て陸くんが喉を鳴らして笑った。

「可愛い反応するよな、お前」

 同い年のはずなのに、いつだって陸くんの方は余裕たっぷりだ。私はどぎまぎしてるのをごまかす為にサンドイッチの封を切る。

「だからホワイトデーは何でもいいぜ。予算の許す範囲内ならな」

 陸くんも言いながらお弁当の包みを開く。

 中身はおにぎりが四つ、それだけだった。

 それを見た時ぴんと来た。

「今日から減量?」

「おう」

 試合を控えると陸くんは減量を始める。おにぎりを四つも食べた上で体重を落とすなんて、私からするとあまりにも信じがたいことだ。でも陸くんはいつもそうしているし、ちゃんと食べないとそもそもトレーニングできないだろ、ってことらしい。

「春休みに高校選抜があるんだよ。そういや言ってなかったな」

「試合いつ頃?」

「今月末。四日くらい留守にするからよろしくな」


 ってことは、春休み中はずっと忙しいのかな。

 もう今年度の部活動は終わってしまったから、あとは自主トレで調整するんだろうし。ホワイトデーものんびり会ってもらう時間はないかもしれない。

 でも私は、陸くんにとってボクシングがどれだけ大事か知っている。だから応援するし、そういう陸くんを素敵だとも思ってる。


「うん、頑張ってきてね」

 私の言葉に陸くんも頷いた後、ふと真剣な顔をした。

「最後の高校選抜だからな、悔いの無いようやらねえと」

 精悍なその横顔に、真っ直ぐな眼差しに、私は思わず数秒間見惚れた。陸くんの顔を怖いと言う人もいるけど、やっぱりすごく格好いいと思う。

 それからふと気になって、

「最後? 二年生なのに?」

 と尋ねたら、陸くんはこちらを向いて苦笑する。

「おいおい、来年の今頃は俺達も卒業してんだぞ」

「あっ、そうだった!」

 卒業とかすっかり他人事だったけど、私も陸くんももうじき三年生だ。三月はほんの数日学校に来ただけで卒業式が来る。来年の今頃は進学に向けての準備に追われているのかもしれない――まず、無事に卒業できたらだけど。頑張らないと。

「だから高校選抜はこれが最後だ」

 陸くんは私に説明する口調で続けた。

「あとは進級してからだな。最後の地区予選、最後のインハイ、最後の国体――高三の一年間は、きっとあっという間だ」

「そうなんだ……」

 高校一年目も二年目も随分たっぷり時間があったように思えたから、三年目の来年度もきっと同じくらい時間があるもんだと思っていた。


 だけど、これから私達が迎える高校生活の各種イベントは、全部『最後の』って枕詞がつくようになるわけだ。

 そう思うと何もかもが貴重なものに感じられる。

 さしあたっては最後の年度末修了式まで、もう二週間もない。


「実感、湧かないなあ」

 ずっと思ってたことを改めて口にする。

 陸くんがおにぎりにかじりつきながら頷いた。

「俺も試合がなかったらそう思ってたかもな」

「最後のって、思う機会がないと気づけないよね」

「確かにな」

 もう一度頷いた後、陸くんは三白眼を柔らかく細める。

「けど、ホワイトデーは『最後の』じゃねえぞ」

「そ、そっか……そうだね、へへ」

 はっきり言ってもらえると嬉しくて顔がとろけてくる。

 来年のホワイトデーも陸くんと一緒にいたいなあ。何としてでも絶対、いるけど。

「で、とりあえず今年のはどうする?」

 話題が戻ったところで、陸くんは一つ目のおにぎりを食べ終えた。すぐさま二つ目の包みを開く。

「欲しいもんが思いつかねえってなら、たまには他人の作った菓子とかどうだ」

「陸くんが作るの?」

「俺が作ったら美味くならねえから駄目だ。素直にプロに任せようぜ」

 昔聞いたところによれば、陸くんもミルクレープは作ったことがあるという。一度食べてみたいとお願いしたら『やめとけ』と言われた。残念すぎる。

「でも、陸くん減量中でしょ?」

 私が聞き返すと、陸くんは怪訝そうに瞬きをする。

「関係ねえよ、ホワイトデーなんだし食うのはお前だ」

「そんなの、さすがに悪いよ」

 甘いもの大好きなのに減量中となったら一切口にしない陸くん。そんな彼に、私の為にケーキ屋さんなんかに行ってもらって、店内に漂う甘くいい匂いの中でホワイトデー用のお菓子を買ってもらうなんて、はっきり言って拷問だと思う。私だったら誘惑に負けちゃうな。

「陸くんが我慢してる時は私だってするよ」

 私だって甘いものは好きだけど、だから家庭部なんてやってるんだけど、陸くんの為なら我慢できる。

「お前が付き合うこたねえだろ」

 陸くんは気遣うように首を振った。

「気にせず食えよ、俺はお前の幸せそうな顔見られたら十分だ」

「いや、本当に悪いし……それに美味しいものは陸くんと一緒に食べたいよ」

 私も首を振り返す。

 そこで陸くんはちょっと困ったように眉を顰めた。

「じゃあお前がケーキ食ってる間、俺はバナナ食ってるってのはどうだ」

「なんで、バナナ?」

「減量中の間食はバナナなんだよ。低カロリーで腹が膨れてすぐエネルギーになる」

 そういえばバナナダイエットとか聞いたことある。朝に食べるとすぐ満腹になっていいとか、甘みもあるから満足感もあるとか。なるほど、確かに合理的だ。

「そういうのでよければ付き合ってやれるぜ」

 陸くんはそう言ってくれたけど、やっぱり減量中の陸くんの前で甘いもの食べるのは抵抗がある。

 減量中でも二人一緒に味わえるお菓子とかあればいいのにな。

 と思って、私はようやくサンドイッチを口に運びながら尋ねた。

「減量中にも食べていいものって、他に何があるの?」

 三つ目のおにぎりを頬張る陸くんが、そこで軽く目を瞠った。


 ホワイトデー当日は、バレンタイン同様に休日だった。

 陸くんは『お前の家まで行く』と言ってくれたんだけど、今日も自主トレをする陸くんの邪魔はしたくなかったので、私が彼のところまで訪ねていくことにした。

 待ち合わせ場所は陸くんの家の近くにある小さな公園。三月にしては風のない日で、ぽかぽかと天気もよかった。

 私が公園の中へ入ると、ジャージ姿の陸くんがいた。

 日の当たるベンチの前で、プラスチックのボトルから水分補給をしているところだった。


「陸くん、お待たせ!」

 私が声をかけると、陸くんはボトルを下ろしてこちらを向く。そしてちょっと申し訳なさそうな苦笑を浮かべる。

「一穂、悪かったな。こっちまで来てもらって」

「ううん、私がそうしようって言ったんだよ」

 全部私が言い出したことだ。ホワイトデーに外で会うのも。陸くんの自主トレの最中、休憩時間にでもちょっと会ってもらえたらいいって決めたのも。

 ホワイトデーだけど、私がお菓子を作って持っていくってことも。

「まだ焼きたてだから美味しいよ」

 私達はベンチに並んで座り、そこで私は持参したバスケットの蓋を開けた。

 中身はいい焼き色のついたパウンドケーキだ。

 ただし、陸くんは減量中。これもただのパウンドケーキじゃない。

「見た目は普通……ってか、美味そうなケーキだ」

 陸くんはバスケットの中身をじっと覗き込む。

「バナナの香りはするな、確かに」


 もちろん、バナナはたっぷり入ってる。陸くんもバナナなら食べられると言っていたからだ。

 それ以外の材料は至ってシンプル、かつヘルシーだ。事前に陸くんにも確認を取り、小麦粉と豆腐、それに生地をのばす為の豆乳だけで作った。豆腐ケーキは割とポピュラーだけど実際に作ったのは初めてで、しかも砂糖を使わないとなるとできばえに不安もあった。でも意外と豆腐の味はしない上、粗く潰したバナナの甘みがとても美味しいケーキに仕上がった。


「これぞ減量中にも食べられる、豆腐とバナナのパウンドケーキだよ」

 私は大きく胸を張った。

「ホワイトデーだから白いお豆腐っていうのもしっくり来るよね」

「その発想はなかった」

 陸くんは感心したように言うと、私が差し出したおしぼりで手を拭いてからケーキを一切れ取った。

 ぱくっと口に運んでから、更に感心したように目を瞠る。

「へえ、美味いな」

「本当?」

「ああ。バナナが生で食べるより甘くていい」

 豆腐を混ぜると生地はもっちり、しっとりする。お砂糖が入っていないから生地自体の甘みはかなり控えめだけど、甘さはバナナが一手に引き受けてくれた。

「砂糖なしでも美味いケーキが作れるもんなんだな」

 陸くんはあっという間に一切れ食べてしまうと、更にもう一切れに手を伸ばした。嬉しそうに顔をほころばせながら。

「いや、作った奴の腕がいいからか」

 そんな言葉までくれたから、私は照れた。

「それほどでも……材料少ないと手順も少ないし、簡単なんだ」

 焼き加減さえ間違えなければほぼ混ぜるだけのケーキだ。もっとも、家庭部で練習を積んだからこそ作れたお菓子でもあるだろう。

 せっかくなので私も、陸くんの隣で一切れいただいた。ケーキはまだほんのり温かくて、焼きたてよりもどっしりした仕上がりになっていた。


 小さな公園には他に親子連れが一組いただけで静かなものだった。

 私達はしばらくの間、のんびりとケーキを味わった。

「ホワイトデーなのに、お前に作らせて悪かったな」

 三切れ目のケーキを食べながら、陸くんが言った。

 陸くんはそのことをとても気にしているみたいだ。実際、ホワイトデーの位置づけは『バレンタインのお返しをする日』なんだから、そう思うのも無理ないのかもしれない。

 でも私は、こうしたかったんだ。

「悪くないよ。食べるなら一緒がいいって、わがまま言ったの私だもん」

「わがままだとは思ってねえよ」

「よかった。それにさ、陸くんが減量中にどんなもの食べてるか知りたくて」

 今までは減量をしてるってことだけは聞いていたし、その間は陸くんの邪魔をしないように気を遣ってはいた。

 でもせっかくお菓子作りができるんだから――できるようになったんだから、陸くんが減量中でも食べられるものが作れたらいいなって。陸くんが打ち込んでいるボクシングを、私なりのやり方でもっと応援できないかなって、そう思った。

「陸くんが減量で辛い時、今までとは違う形で応援できたらなって思ったんだ」

 私がそう続けると、陸くんは心底嬉しそうに表情を緩めた。込み上げてくる笑みを堪えようとしていたけど、駄目だったらしい。

「すげえな、一穂。お前絶対いい嫁になるわ」

「よ、よよ……そんなこと、まだまだ全然ないけど……!」

 もちろんなれるもんならなりたいですけど!

 その為にはもっと、減量中の食事について勉強しなきゃいけないかなあ、なんて。

「陸くんも、す、素敵なお婿さんになりそうだよね……えへへ……」

 すっかりめろめろになった私がそう言い返すと、陸くんは大きな手を私の頭に載せた。

 そしてがしがしと、強めに頭を撫でてくれた。

「なれるように努力する。その時まで待っててくれ」

 笑い飛ばすでも冗談にするでもなく、真面目な声でそんなふうに言うのがいかにも陸くんらしいな、って思った。


 ホワイトデーのデートは小一時間で終わってしまった。

 陸くんは栄養補給も終えたので、これからトレーニングを再開するそうだ。私はこのまま家に帰るつもりだった。送ってくと言ってもらったけど、それも悪いので遠慮しておく。

「ホワイトデーなのに、こんなもんでよかったのか」

 陸くんは心残りがあるようだけど、私からすればわがままを聞いて貰えた最高のホワイトデーだ。

「すっごく嬉しかったよ。ありがとう!」

 お礼を言ったら、陸くんは困ったように笑ってみせた。

「つくづく思うな、お前がいるって幸せだ」

「え……そ、そう? 本当に?」

「ああ。三年になっても、楽しい学校生活になりそうだな」

 陸くんにそう言ってもらえるのって、すごく嬉しいな。

 私にとっても最後の一年間、幸せで楽しい学校生活になりそう!

「……お前がしてくれたことに比べたら、大したもんじゃねえけど」

 そう言って、陸くんはジャージのポケットから小さな包みを取り出し、私に手渡した。

「ホワイトデーのお返し。何がいいのかわかんなくて、使いでのあるもんにした」

「ありがとう……! 開けてみてもいい?」

 許可を貰ってから、私はその包みを開けてみる。

 中に入っていたのは手帳だった。四月始まりの、まだ何にも書きこまれていない真っ白な手帳。表紙は目の覚めるようなピンクのネオンカラーで、白くて可愛いうさぎのイラストが描かれている。

「わあ、可愛い! しかもすごくいい色!」

 私はあっという間にその手帳を気に入ってしまった。

 陸くんもほっとしたようだ。

「その色、一穂なら気に入ると思ってた」

「うん、大好き! このうさぎも可愛いし」

 この可愛い手帳を陸くんがどんな様子で買ってきたのか、ちょっと気になるとこだけど。

 でも陸くんなら、きっと堂々と格好よく買ってみせたに違いない。

「三年になったら忙しいだろ。いろいろ予定もあるだろうし」

 陸くんの言葉に私は頷く。

「大事に使うね。陸くんの試合の予定も、減量してる期間のことも全部書いとく」

「ああ、そうしてくれ」

 真面目に応じた後、陸くんは表情を和らげて続けた。

「それとな。来年のホワイトデー、俺と約束があるって今から書いとけ」

「今から?」

「今年できなかった分、来年まとめて返す。楽しみに待ってろ」


 この間も、『最後の』ホワイトデーじゃないって言ってくれた。

 そして今日、来年の約束をしてくれた。

 私にはそのことがすごく、嬉しかった。これから迎える、いろんなことが『最後』になる一年間の先でも、私と陸くんは一緒にいられる。陸くんは約束を守ってくれる人だし、私だって絶対に守る。破ったりしない。


「待ってる! 来年の今日が待ち遠しくてしょうがないよ!」

 私が意気込むと、陸くんは私の頬に大きな、分厚い手を添えた。

 そして屈み込んで私の顔を覗き込んでくる。

「俺もお前がいれば、この先に起こること全部が楽しみだ」

 大人っぽい顔がすぐ目の前にあって、やっぱり格好いいなって思ってたら、目をつむるのが遅れた。

 陸くんは私から唇を離すと、名残惜しそうに頬を一撫でしてから踵を返した。

「じゃあまたな。気をつけて帰れよ」

「う……うん」

 駆け出していく陸くんの背中を見送った後、私はここが昼間の公園だったことを思い出して慌ててきょろきょろした。

 幸い、さっきまでいた親子連れは立ち去った後だったけど――誰に見られてないとわかった後でも恥ずかしくて、私はしばらくその場を動けなかった。

 ホワイトデーなのに、多分顔、赤い。


 家に帰った後、私は貰ったばかりの真っ白な手帳にいくつかの予定を書き込んだ。

 高校生活最後の一学期始業式、家庭部部長として出る新入生歓迎会、陸くんと私の誕生日、それから――来年のホワイトデーの約束。

 それらをカラフルなペンで一つ一つ書き込みながら、これから始まる一年間に思いを馳せた。

 来年の今頃、この手帳にはたくさんの思い出が書き込まれているに違いない。

 そしてそれを来年の今日、陸くんと一緒に読み返したいな、と思う。

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