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ホップ、ステップ、ミルクレープ(5)

 振るった小麦粉にお砂糖と牛乳、卵を混ぜる。

 更にお鍋でじっくり溶かしたバター、バニラエッセンスも忘れずに入れる。

 全部混ぜ込んでとろりとした生地は、油をごく薄く引いたフライパンで焼く。おたまで掬った生地を少量流し込んだら、上からおたまの底で、ぐるりと円を描くように伸ばす。火力は焦がさないように、そして硬くならないように弱めが基本。引っ繰り返した裏面はさっと火を通すだけ。焼き上がったらフライパンから素早く生地をお皿に移して冷ます。

 この作業を繰り返して何枚も何枚もクレープを焼く。十人もいない家庭部員が一人最低四枚は焼く計算だ。幸い家庭科室にはたくさんコンロがあるから、調理に手間取ることはない。

 私は部員達がまんべんなく生地を焼けるよう見て回り、そして皆と一緒に私自身も生地を焼いた。バニラの香りが家庭科室に漂い、早くもお腹が空いてくる。


「ミルクレープっていいね。皆で作ってるって感じがして」

 皆が和気あいあいとクレープを焼くのを、先代の部長が見に来てくれていた。十月に入り、既に部を引退していた部長は部員が半減した家庭部とその新生部長を案じて、放課後の家庭科室まで見守りに来てくれたのだそうだ。

「へへへ、ナイスアイディアっすよね」

 私は笑って同意した。

 陸くんがしてくれた思い出話のお蔭で、私が部長になって初めての部活動は今のところ順調だった。ところどころクレープが破れたり、小さく穴が開いてしまうこともあったけど、要は一番上のクレープがきれいにできていればいくらでも誤魔化しが利くのだ。上手く焼けない部員にはそうやって言ってあげた。

「大丈夫! クリーム塗って間に挟んじゃえばわかんないよ!」

 お菓子作りに関しては失敗のスペシャリストである私の言葉は、部員達の心を十分納得させられるらしい。皆、すんなりと腑に落ちた様子で失敗クレープもお皿の上へ重ねていく。

「さすが茅野さん、失敗した時のフォローが上手いね」

 部長にもそっと笑われて、私は過去の諸々の失敗を振り返っては恥じ入った。

 こんな私にも、かつてはクッキーさえ上手く焼けない頃があったのだ。おまけにかつての私には上手く作れないことを反省してしょげる殊勝さというやつも皆無だった。

「まあ、失敗は成功の母って昔の人も言ってましたしね」

 今の私は、それでも胸を張って部長をやれるくらいにはなったと思う。

 お菓子作りの技術自体は、もともとが割とレベル低い方だったから向上したと言うよりましになったって感じだ。でも心構えは確実に変わった。自分でもわかるくらいに。

「そっか。昔の人が言うなら、そうかもね」

 部長は深く頷くと、急に座っていた椅子から立ち上がった。

「何か心配なさそうだし、私は帰ろっかな。茅野さん、いい?」

「えっ、帰っちゃうんすか? 食べてかないんすか、ミルクレープ」

 私は当然そのつもりでいたし、一人二人増えたところで困らないだけの分量を用意していた。お世話になった部長にお礼の意味も込めてごちそうできたらと思っていたからだ。

 でも部長はちょっと寂しそうに首を振った。

「ううん。私はもう引退した身だし、先代の部長がずっといたら皆もやりにくいでしょ?」

「そんなことないっすよ。部長がいてくれたら頼もしいっす!」

「もう……茅野さん、今はあなたが部長じゃない」

 おさげ髪の部長――『元』部長に言われて、私ははっと息を呑む。

 自覚がなかったわけじゃない。自分が部長になったんだってちゃんと念頭にあったのに、気づけば私は未だにこの人のことを部長と呼んでいた。

「部長! クレープ生地全部使い切りました!」

「そろそろクリーム泡立てますか、部長!」

 部員達が口々に呼びかけてきたのも、当然、私に対してだ。

 正直まだ呼ばれ慣れないその肩書きは、決して軽くはない。私はもう部長になったんだから、自分で宣言した通り、皆を引っ張っていく立場なんだ。少なくとも部にいる間は誰かに頼ったり、甘えたりなんてできない。

「うん、クリーム作ろう。皆、準備して!」

 私は部員達に声をかけると、自分でも冷凍庫からクリームを冷やす為に使う氷を取り出す。

 それから椅子から立ち上がった姿勢の『元』部長に対して告げた。

「味見くらいはしてってください。その方がきっと安心できますよ、先輩!」

 すると先輩はおさげ髪を揺らし、どこか吹っ切れたように微笑んだ。

「……そうだね、お言葉に甘えようかな。部長さん、構わない?」

「もちろんっす!」


 その後私は部員達と代わる代わる泡立て器を握り、生クリームを泡立て、冷ましたクレープの間にたっぷりと塗っては生地を重ねていった。

 そうしてできたミルクレープは生地の破れや穴も上手いこと隠れた素晴らしい出来栄えで、切り分けたらクレープとクリームの層が美しく、味の方も大層美味しかった。部員達は顔をほころばせて味わっていたし、引退した先輩にもご満足いただけたようだ。


「美味しかった、ごちそうさま!」

 後片づけを終えた帰り際、先輩はいい顔でそう言ってくれた。

 部長として誉められるより、その表情の方が一番うれしかった。私も笑い返して応じた。

「是非また来てください。受験が終わった後でもいいっすよ」

「そうだね。受験が終わること自体、今は全然想像できないけど……」

 先輩が肩を竦める。来年の今頃は私もこんなこと言ってるのかもしれない。

「茅野さんとはお茶する約束もしてたしね」

「そっすね。そっちも実現させましょう、約束っすよ」

 私が頷くと、先輩は一度笑ってからふと真剣な顔になる。

 そして一呼吸置き、新部長たる私を見つめながら、言った。

「向坂さんが茅野さんを好きになった気持ち、今ならわかるかも」

「……へっ? 何すか、いきなり」

 唐突な言葉に私は面食らった。

 でも先輩は気にせず続ける。

「ひたむきに努力する人は皆、可愛くなるんだって思ったの。そうじゃない?」

 努力は人を可愛くするだろうか。毎日見ている鏡の中、私はまだその言葉に同意するだけの証拠を手に入れられていない。

 だけど陸くんは言った。努力は顔に出るんだって。

 だからもし、私がする努力が私の知らないところで私を可愛く輝かせてくれているのなら――私はもっと可愛くなりたい。陸くんがもっと私を好きになってくれるように。


 家庭部で部活動をした数日後の週末、私は家でもう一度ミルクレープを作った。

 手順は家庭部でやったのとほとんど同じで、ただ二十枚近くを自分で焼かなきゃいけないところだけが違う。生クリームを泡立てるのだって自分一人の作業だし、ケーキができあがった後で上にホイップクリームをふわんと盛って、更にその上にチョコプレートを乗せるところまで全部私一人の手作業だった。チョコプレートにはチョコペンで『ゆうしょうおめでとう』と書いた。


 仕上がったケーキを午前中のうちに作ってしっかり冷やしてから、陸くんの家へ届けに行った。

 お互いに忙しいのが一段落したので、約束通り祝勝会を開くことにしたのだ。陸くんの家にお邪魔するのは二ヶ月ぶりだったし、今回もご家族の方は不在で二人きりらしいので、ちょっと緊張していた。

 陸くんの部屋に通してもらって、私は彼にホールのミルクレープを差し出す。

「ミルクレープ、作ってきたよ! 部活で練習済みだし、頑張ったから絶対美味しいと思う!」

 私が胸を張ると、唇の右側にガーゼを張った陸くんが嬉しそうな顔をする。

「その顔、期待してもよさそうだな」

「うんっ! 陸くんは大丈夫? 痛まずに食べられそう?」

「平気だ、慣れてるし。これでも結構引いた方だ」

 そう語った通り、国体から戻ってきた直後に比べれば、陸くんの怪我は少しだけよくなっていた。だけど口元のガーゼは取れてないし目の下にはまた青いあざができている。学校で一緒にご飯を食べる時、たまに痛そうに顔を顰めているのも知っていた。

 私は怪我をした陸くんを見てももう泣きはしなかった。泣かないようにした、の方が正しいかもしれない。陸くんが勝とうと負けようと怪我をしたらもうその時点で私は心配で心配でたまらないのだ。

 だからなのか、陸くんは私の表情を窺っては安心させるみたいに言ってくる。

「平気だから、そんな顔すんなよ」

「え……私、どんな顔してた?」

「心配で心配でたまらないって顔してる」

 陸くんは私の内心をずばりと言い当ててみせた。

 私は何だか恐縮してしまう。

「ごめんね。心配しすぎないようにって思ってるんだけど……」

 そういう時、陸くんは黙ってこちらに手を伸ばし、私の頭を撫でてくれる。大きくて分厚い手で撫でてもらうと、幸せで胸がいっぱいになって、私も心配ばかりしてられないなって思う。私がすべきことは陸くんの怪我にやきもきすることじゃない、勝って帰ってきた陸くんを最大限幸せにすることだ。

「じゃ、ケーキ食べよっか。陸くんの分は大きく切り分けてあげる」


 家で作ってきたミルクレープはいい具合に生地がしっとりしていた。

 チョコプレートを避けてからナイフで切り分けると、積み重ねられた生地が柔らかく沈んで、すぐに美味しそうなクレープとクリームの層が現れる。きれいに折り重なって見えるミルクレープの断面に、陸くんは食べる前から満足そうな顔をしている。

「これは美味いな。見ただけでわかる」

「一応、食べてから言った方がいいかもよ。もしかしてってこともあるよ」

「いいや、ねえな。お前が作ったもんがまずかったことがあったか?」

 相変わらず気持ちいいくらいに言い切った陸くんに、私はどきどきしながらケーキを一切れ、お皿に取って手渡した。

 陸くんは大きな手にはちっちゃく見える銀色のフォークを構え、ミルクレープの一口目を大きく切った。尖った犬歯が覗く口がフォークごと噛み切りそうな勢いでケーキを飲み込む。もぐもぐと噛んでいる間の表情が幸せそうに緩んでいる。

「やっぱり美味いじゃねえか、一穂。さすがだ」

「あ、ありがとう。頑張ったからね」

 何度誉められても照れるけど、嬉しい。

 でもって、頑張ったって胸を張って言えることも嬉しい。私がそういうことを言うようになるなんて、自分でもちょっと信じられないくらいだ。それもこれも陸くんのお蔭なんだけど。

 部長が言った通り、今の私は陸くんの目に可愛く映ってるかな。

 ミルクレープ一切れ目をあっという間に食べ終えた陸くんが、ちょうど私を見た。目が合った。

 途端に陸くんは目を細め、満足げな声で言う。

「今日は一段といい顔してんな、一穂」

「え? そ、そっかな。嬉しいけど……」

 にやにやしないように口元を引き締めようとしたけど、駄目だった。せっかくいい顔と言ってもらったのに、だらしない顔になってしまっては元も子もない。私が手で口元を隠そうとすると、陸くんがそれよりも早く、さっと手を掴んだ。

 いきなり掴まれた大きな手の温かさに、どきっとする。

「隠すなよ。もうちょいしっかり顔見せろ」

 しかもそんなことまで言われて、私は慌てた。陸くんはいつの間にか真剣な顔で私を見ているし、心なしか顔が近づいてきたような気がする!

「あ、あの陸くんっ。チョコも食べようよ、チョコ!」

 話を逸らすようにケーキを指さす。

 陸くんは唇を歪めて笑い、からかう口調で言った。

「誤魔化したな、一穂」

「な、なな、何を!? 違うよ私はチョコもどうかなって思っただけで!」

「ならいいけどな。で、これも食っていいのか?」

 ミルクレープの上に置かれた『ゆうしょうおめでとう』のチョコプレートを陸くんが指差す。いつもよりも震えている私の字で、ひらがなで書かれている。

「ってか、何でひらがななんだ。字潰れるからか?」

「そう。でもそのせいで意外と文字数食っちゃって、陸くんの名前が書けなかったの」

「そりゃ入んねえだろうな。はんぶんこするか、口開けろ」

 陸くんの口から『はんぶんこ』なんて単語が出てきたことに驚きつつ、私は指示通りに口を開けた。

 すぐに、陸くんが私の口にチョコプレートをくわえさせた。それから私の顎をぐいっと掴んで、陸くんもチョコレートに噛みついた。

 唇が、疑いようもなくしっかり触れた。

 ぱきっと硬い音がして、チョコが割れたのもわかった。

「……これも美味いな」

 チョコプレートを半分噛み切って攫っていった陸くんが、硬直する私を見て楽しそうに呟く。

 私はその五秒後くらいに我に返って、全身がかっと熱くなるのを自覚しながらじたばたする羽目になった。

「わああああ! ふ、普通に分けっこしようよ陸くんっ!」

「このくらいで騒ぐなよ。ご褒美だろ」

「ごごご、ご褒美って……っ」

「俺も頑張ったんだからおまけしてくれ。そしたら次も頑張れる」

 くわえていたチョコプレートを一足早く食べ終えて、陸くんが言う。


 まるで私みたいに現金なことを言う。

 当たり前か。陸くんだって私と同じ高校生だ。頑張った後にはご褒美が欲しいし、ご褒美があれば次もまた頑張ろうかなって気持ちになる。

 そしてご褒美を好きな人から貰えたら、尚のこと嬉しい。


「じゃあ……」

 私は恐る恐る、彼の言葉に応じる。

「ご褒美、私にもくれるならいいよ。私も頑張ったから」

「そうだな、お前も頑張った」

 陸くんは優しい表情で頷く。

「一穂、お前は何が欲しい?」

 そうして尋ねられて、私は即座に陸くんに向かって頭を下げた。謝ろうとしたわけでも、恥ずかしくて俯いたわけでもない。

 大きな手が私の頭に触れる。

 もう片方は私の背中を押すように触れてきて、私は片腕で抱き締められた。陸くんは私の頭を撫でながら、もう一度顔を近づけてきた。大人びた、精悍な顔立ちが私の目の前まで来た時、私はそっと目を閉じた。

 ふわふわと浮ついてしまいそうないい気持ちだった。頭を撫でられるといつもそうだ。どきどきするのに安らいで、すごく不思議な気分になる。おまけに今は唇も重ねていたから、お菓子作りで使う洋酒の匂いを嗅いだ時みたいに、ぐらりと心が揺れたようだった。

「……一穂。俺も欲しいものがある」

 唇をわずかに離した陸くんが、微かな声で私を呼ぶ。

 それが何か、わからないようでわかる気がした。いい、とは言えなかった。でも決して嫌じゃなかった。私が目をぎゅっとつむっていたら、そっと身体を倒されて、肩と背中が床についたようだった。

 その時、だった。


 ばたん、と背中の下で、あるいは階下で大きな音が響いた。

 すぐにどたどたと駆け込んでくる足音がして、

「お兄ちゃーんっ! もしかしてお姉ちゃん来てたりするー!?」

 聞き覚えのある、女の子の明るく弾んだ声が聞こえてきた。

 その直後の陸くんの行動はボクサーらしい迅速さだった。私を床から抱き起こし、傍にあったベッドに寄りかからせると、着てきた服のほんのちょっとの乱れまで整えた。そして子供らしい軽快な足音が階段を上がってくる頃にはドアの前に立ちふさがり、開くまいと背中で押さえながら叫んでいた。

「入ってくんなよ海! ってか、出かけたんじゃなかったのかよ!」

「出かけてたけど帰ってきたんだよ。十月から帰宅時間早いから」

 ドアの前までやってきた海ちゃんは、表情が想像できる屈託のない声で言う。

「ねえねえ、お姉ちゃん来てるんでしょ? 海もお姉ちゃんとお話ししたい!」

「駄目だ! 俺の客だからな、行儀悪く踏み込んできたら怒るぞ」

「えー、お兄ちゃんが独り占めなんてずるいよー!」

「一穂はもともと俺のもんだ!」

 そう怒鳴った後、だけど陸くんは何かを察したように溜息をつき、どこか恨めしげに私の方を振り返る。

 私は今の台詞にもさっきまでの状況にも大変どぎまぎしていたけど、ここまで来たらしょうがないかと頷いておく。

「ミルクレープ残ってるし……海ちゃんも一緒にどうかな」

 それで陸くんはドアを開け、嬉々として飛び込んできた海ちゃんが食べかけのミルクレープを見て歓声を上げ、私達はお互い想像していたよりも賑やかに祝勝会を楽しんだ。

「くそ、努力が足りなかったか……!」

 後でこっそり陸くんが呻いていたのが聞こえたけど、私はなんて答えていいのかわからなかった。黙って照れていた。


 もちろん世の中にはどんなに頑張ったってどうしようもない、努力のしようもない事柄だってある。

 だけど私と陸くんのことは、幸いにも頑張れば頑張っただけ結果につながる事柄だ。

 だから私はこれからもいろんなことを頑張ろうって思うんだけど――陸くんは、どうかな?

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