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ホップ、ステップ、ミルクレープ(3)

 家庭部のミーティングが終わった後、私は部長に改めてお礼を言ってから家庭科室を出た。

 そして今度はボクシング部の部室を目指して廊下を急いだ。


 全部終わったら陸くんに報告しようと決めていた。

 本当は家に帰ってから電話ででも、なんて考えていた。だけど終わってみたら陸くんの顔が見たくてたまらなくなった。会って、顔を見て報告したくなった。きっと今の私も陸くん言うところの『いい顔』をしているに違いないからだ。

 言いたいことは全て言えた。

 最後まで胸を張っていられた。

 もちろん、頑張らなきゃいけないのはこれからだ。でも私は家庭部の為に自分の持ちうる力を出し切って頑張ることができるはずだし、そうすることが当たり前だと思ってる。私はいい部長になれるかどうかわからないけど、やれることは何もかもやる、努力する部長になってやろう。

 夏休み前の私が今の私を見たら、これは誰だ本当に私かと目を丸くするんじゃないだろうか。そのくらい自分自身で変わってしまったことがわかる。皆が言うほど見た目に反映されている気は全然しないけど、でも気の持ちようはすっかり変わった。そして変わってしまったことが何だかすごく、気持ちいい。

 このまま陸くんの元へ走っていこう。

 会いに行って報告しよう。私は陸くんのお蔭で変われたんだ。そのことを今、逸る心で実感していた。


 ボクシング部の部室を訪ねるのは初めてだった。

 むしろ運動部の部室棟自体、文化部の私には全くご縁のない場所だった。心なしか汗臭い廊下に錆びついたロッカーや各部活で使用される細々とした品が放置されている。洗濯前のユニフォームが山積みにされていたり、キャスター付きのスコアボードが置かれていたり、文化祭で使用したと思しき屋台の看板がまだ残っていたりと雑然とした雰囲気だった。窓から差し込む西日がそれらと宙に浮かぶ埃を照らし出すと、何もかもがきらきらと輝いて見えた。

 部室棟の一階、奥から二番目の部屋がボクシングの部室だ。

 私はドアの上にかけられた『ボクシング部』の札を確かめて、まずは呼吸を落ち着けた。

 ドアの中に人の気配はあるけど、練習中にしては思いのほか静かだ。もしかしたら一人、二人くらいしかいないのかもしれない。

 陸くんは今日部活に出ると言っていたし、『何かあったらいつでも来い』なんて言ってくれていたから多分いるはずなんだけど――いなかったらちょっと気まずいな。陸くん以外のボクシング部の子ってあんまり知らないし。


 ドアの前でちょっと躊躇していたら、

「あっ、姐さんじゃないっすか!」

 どかどか賑やかな足音と共に、聞き覚えのある声がした。

 振り向くと、坊主頭の男子二人がこちらへ駆けてくるのが見えた。二人とも前に二度ほど会ったことがある。文化祭の時にベビーカステラの屋台にいた、ボクシング部の一年生の子達だ。二人ともTシャツにジャージ姿で、首にかけたタオルで汗を拭き拭き近づいてくる。

「姐さん、お世話になってますっ!」

「お疲れ様っす!」

「お、お疲れっす。私、特にお世話とかしてないけど……」

 二人から揃って深々と頭を下げられ、私はへどもどと返事をする。相変わらず『姐さん』って呼ばれ方は本当慣れない。

 でも彼らが来てくれたのは助かった。部室の中に誰がいるか聞くことができる。

「あの、陸くん――向坂さん、中にいますか?」

 私は二人に向かって尋ねた。名前で呼びかけて言い直したのは、下の名前だと誰のことかわからないかもしれないと思ったからだった。

 でもそこで二人は顔を見合わせ、それから一人がこわごわと口を開く。

「姐さん、俺ら一年なんで、敬語とか全然いいっすから」

「え? あ、そう?」

「はい、どうぞご遠慮なさらずに! 気軽にタメ口でどうぞ!」

 別に遠慮して敬語だったわけじゃないけど、二人とも怯えているみたいにびくびくしていたし、言葉通りにしておいた方がいいのかもしれない。それで陸くんが怒るということもないと思うんだけど、まあこっちが先輩なのは事実だ。

 そこで、改めて言い直した。

「えっと、向坂さん、中にいる? 忙しいなら今じゃなくてもいいんだけど」

「いるはずっすよ。さっきロード終わって、先に戻られたんで」

 片方の子が答えると、もう一人も同意するように頷く。

「これから打ち込みやるんで、多分今は休憩中だと思うっす。中、入られます?」

「いいの? 邪魔にならないかな」

「大丈夫っすよ。練習の見学者は結構来ますし、何より姐さんなら大歓迎っす!」

「そ、そうなんだ。じゃあ……」

 二人がにこにこと勧めてくれたので、私もお言葉に甘えることにした。

 部室のドアノブに手を開けて、声をかけながらゆっくりと開ける。

「失礼しまーす」

 ボクシング部の部室は思ったよりも狭そうだった。

 教室よりもずっと狭い空間に窓は一つだけしかなく、壁は剥き出しのコンクリートだ。天井から青いサンドバッグが吊るされていて、その奥には古びた二段のロッカーが並んでいる。ロッカーの上には使い込んだグローブやヘッドギアが置かれていた。ここも廊下と同様に、少々汗臭かった。

 そしてそんな部室の中に陸くんはいた。

「一穂か。そっちはもう終わったのか?」

 私を見つけて優しく笑う陸くんは、上半身裸だった。

 死ぬかと思った。

「うわっ、わああああああ! ごごご、ごめっ、ごめんなさい! 急に入って本当ごめんなさい!」

「は? 何慌ててんだ、一穂」

「見てないです私、何も見てないっ! 失礼しました!」

 大慌てでドアを閉めたものの、それで記憶の扉まで封印されるわけでもない。閉じたドアに寄りかかったままずるずると座り込み、私はあっという間に発熱した自分の顔を手で覆った。

「ど、どうしました、姐さん!」

「何があったんすか、姐さん!」

 駆け寄ってくる一年生達の問いかけにも、何も答えられないまま首を振るばかりだった。


 好きな人の着替えを見てしまった。

 花も恥じらう乙女である私にとってこれはまさしく由々しき事態である。陸くんは走り込みの後というだけあって汗をかいていたんだろう、タオルで首の後ろ辺りを拭いているところだった。脱いでいるのは上半身だけで、下はハーフパンツをちゃんとはいていた。それは不幸中の幸いと言えただろう。入ってきた私を見る顔は驚くでもなく、むしろ普通に笑っていた。私に見られてもさして気にしていないというそぶりだった。

 だとしてもだ、私にとっては大事である。あの十秒あったかどうかという対面時間において、私の目にはすっかりボクシング部内の光景が目に焼きついており、顔を覆う今でさえも、気を抜けばうっかり目撃してしまった大胸筋やら腹筋やら上腕二頭筋やらが瞼の裏にちらつく有様だった。駄目だ、私、おかしくなってる。


 うずくまる私の頭上で、がちゃりとノブが回った。

 あっと思った時には背後でドアが開き、そこに寄りかかっていた私は後ろ向きに倒れた。

「わっ」

 そして仰向けに引っ繰り返り床に頭をぶつけた私は、こちらを見下ろしぎょっとする陸くんと目が合い――幸いと言うか何と言うか、陸くんは既に白いTシャツを着ていた。

「悪い、大丈夫か?」

「う、うん……」

 ただでさえ気まずい出来事の後でこのご対面、私の中の気まずさメーターはもはやマックスだった。

 それでも陸くんはドアを押さえて屈み込み、亀のように引っ繰り返る私を抱き起してくれた。そして申し訳なさそうに詫びてくる。

「開けてすぐのとこにいるとは思わなかった。確認してから開けりゃよかったな」

「いえいえ、どう考えても私のせいなんで……気にしないでもらえたら幸いかと……」

 死にたさメーターは既に針が振りきれてる。すっかり打ちひしがれた私を、陸くんと後輩くん達が心配そうに見ていた。

 だから私もこれ以上閉じこもっているわけにもいかず、とりあえず素直に謝ることにした。

「着替え、見ちゃってごめん」

 すると陸くんは軽く息をついて苦笑する。

「気にすることじゃねえだろ。男の着替えなんて、見られて騒ぐようなもんでもねえよ」

 もちろんそれはわかっている。男の人が上半身脱いだからって公序良俗を乱すようなことにはならない。

 だからつまり私が意識しすぎだって言うのは自分でも十分わかっていることであって――ああもう駄目だこれ、消せない記憶の残像に頭がくらくらする。

 でも好きな人が脱いでたら誰だってこうなるじゃん! しょうがないじゃん! って思います。


 その後ボクシングの部室に入れていただき、私の中の気まずさその他諸々が落ち着いたところで、陸くんが言ってくれた。

「お前、少し待てるか? 俺は軽く打ち込んでから上がるけど」

「あ、じゃあ待っててもいい……かな?」

「そうしてくれると嬉しいな」

 私の答えに陸くんは笑い、それから大きな分厚い手にグローブを装着し始めた。二本の紐をぎゅっと引っ張りぐるぐる巻きつけた後、グローブの中に押し込んでいる。

 彼が言った『打ち込み』とは、サンドバッグを打つトレーニングのことらしい。両手にグローブをはめた陸くんは部室に吊るしてあるサンドバッグに向き合うと、深呼吸の後に身構え、即座にパンチを繰り出した。見るからに重そうな陸くんの拳を受け止めたサンドバッグはいい音を立ててへこむけど、サンドバッグも中身がしっかり詰まっていて重たいようだ。あまり大きくは揺れなかった。

 サンドバッグに次々と拳を叩き込む陸くんの目は真剣だった。一旦トレーニングに入れば私のことはもちろん、周りなんて何も見ていないようだった。ただ真っ直ぐにサンドバッグを見据えては拳をリズミカルに打ち込み、その度にサンドバッグがいい音を立ててその拳を受け止める。さっき汗を拭いたばかりだというのにたちまち汗が流れ出し、規則正しい呼吸の音も部室内に響いていた。


 突っ立ったまま見入っていると、後輩くんの一人が私に話しかけてきた。

「姐さん、座布団もないとこですみません。よかったらここ、座ってください」

 そう言って床にスポーツタオルを敷いてくれたけど、私は慌ててそれを固辞した。

「いいよいいよそういうの、立って見てても全然平気だから」

「でも、せっかく来ていただいた姐さんを立たせておくなんて……」

「いや本当に大丈夫だから。お構いなく」

 どうにか彼を思い留まらせてタオルを引っ込めてもらう。

 ただその後、もう一人の後輩にも小声で謝られた。

「姐さん、狭いとこで本当申し訳ないっす。窮屈じゃないっすか」

「大丈夫だよ」

 私はそう答えたけど、確かにちょっと狭いかなとは思う。

 見学している分には気にならないものの、この部室にはサンドバッグ一つしか置けなさそうだし、そうすると一人ずつしか練習できないんじゃないかと思う。現に陸くんが打ち込みをしている間、後輩くん達は順番待ちみたいに私の傍で立っていた。

「うちの学校、予算渋いっすからね。ほら、柔道とかも強いんで」

「ここみたいな弱小部は後回しみたいなとこあるんすよ」

 部室内を見回す私に、後輩くん達は口々にボクシング部事情を教えてくれた。

「全国行ってる強豪校の中には、部室にリング設置してるところもあるそうなんすよ」

「うちもリング欲しいんすけどね……向坂さんにこの設備の貧弱さは申し訳ないくらいっす」

 二人は歯がゆそうにしている。


 前に動画で見たインハイの試合、あの画面に映っていたリングはそれなりに大きかったはずだ。あれが丸々入ってしまうような広さの部室、それを設置できるだけの潤沢な予算。確かにそれだけあれば陸くんは更に強くなれるのかもしれない。

 うちの家庭部だって多少の予算は下りているけど、お菓子の材料費はほとんど部員から集めた部費から出している。でも家庭部にはもともと設備が整った家庭科室があるから問題ないのであって、運動部にとっては活動費が多いか少ないかでトレーニングの質が左右されてしまう。まさに死活問題なんだろう。

 でもこんな小さな部室でも、サンドバッグを打ち込む陸くんに迷いの色はまるで見えなかった。サンドバッグさえあれば十分だと言わんばかりに、ストイックにトレーニングを続けている。こうして傍で練習するところを見るのは初めてだけど、やっぱり彼は本当に、ボクシングが好きなんだと実感する。


「安心してください、姐さん。国体では姐さんの分まで応援してきますんで」

 後輩くんの一人がそう言った。

「国体、応援に行くの?」

 私は聞き返した。今年度の国体の開催地は遠方だし、授業もあるしで私はとてもじゃないけど応援には行けそうにない。

 ただ仮に行けたとして、ちゃんと陸くんの試合を直視して応援できたどうかは、わからないけど。

「ボクシング部一同で応援してきます!」

「向坂さんの一挙一動を記憶してきますんで、帰ってきたら子細にお話ししますね!」

 後輩くん達は今から既に興奮気味で、どうやら国体で陸くんが戦うのをとても楽しみにしているようだ。それだけ陸くんの勝利を信じているということなのかもしれないし、一緒に部活動をしている分、陸くんの実力、強さをわかっているということなのかもしれない。


 私は陸くんが練習しているところを間近に見たのさえ、今日が初めてだ。

 そして一度見ただけではとてもじゃないけど勝利を信じて見守るなんてできそうにない。きっと陸くんは国体でも多少の傷を負ってしまうのだろうし、もしそれが多少ではなかったら――そう思うと胸が潰れそうなくらい痛くなる。

 だけど私はこれまでだって、陸くんがどれだけの時間をボクシングに注ぎ込んできたか、どれほど真剣にボクシングに打ち込んできたかを十分知ってきたはずだ。

 そういうことを知っていても、今でも私はボクシングが少し怖い。

 陸くんが怪我をするかもしれないと考えただけで怖い。


「私も、陸くんには勝って欲しいな……」

 独り言みたいにそっと、私は言った。

 私が怖いと思っていても、怪我をして欲しくないと思っていても、陸くんからボクシングを奪うことは絶対にできない。彼にとっては本当に何より大切で、大好きなものに違いないからだ。私は私の好きな人が好きだと思っているものを、同じように好きだと思いたかった。まだそう思えていないことがすごく、歯がゆかった。

 ただ、同時に思う。

 今、無心になったようにサンドバッグに拳を打ち込み続ける陸くんの姿は、とても素敵だ。真剣な眼差しも流れる汗も素早く思い拳の動きも、つい見入ってしまうほどだった。さっきはやや邪な目で見てしまった筋肉質の身体も、今は純粋に美しいと感じられた。

「大丈夫っす。向坂さんは必ず勝ちます!」

「今度こそ全国優勝っすよ! 絶対!」

 後輩くん達は絶大な信頼を陸くんに寄せているようだ。

 私は『そう信じている』とはとても言えなかったけど、でも心の底からそう願っていた。陸くんに勝って欲しい。陸くんが情熱を傾けてきたボクシングで、一番欲しいものを勝ち取って欲しい。信じ込むことはできなくたって、願うことはできる。

「そうだね。私もそう願ってる」

 彼らの言葉に頷いた後、 私は練習中の陸くんに向かって、祈る思いで呟いた。

「……頑張って、陸くん」

 それから、好きな人が好きなものを、大切に思っているものを、同じように好きになりたいって改めて思った。

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