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ホップ、ステップ、ミルクレープ(1)

 始業式の朝、私はどきどきしながら制服を着た。

 夏休みが終わってしまうのはもちろん残念だ。朝は早く起きなくちゃいけないし、明日からは毎日授業があるし、九月になったってまだまだ暑くて外に出たくない。でも夏休みが終わると一つだけいいことがある。

 学校へ行けば陸くんに会える。お互いが風邪引いたりして欠席でもしない限り、平日はいつでも会える。

 これが楽しみじゃなくて何だろう。


 学校までの道を少し早足で歩いた。

 夏休み明け直後だからか、同じ通学路を辿る他の生徒達の足取りは私よりもゆっくりめだ。あくびをしている子もいるし、シャツの裾を後ろだけスラックスにしまい忘れている子もいる。一方で友達と会えて嬉しそうにお喋りを始めている子もいて、夏休み中に出かけたことを話していたり日焼けしたことを驚かれていたりして、ああ新学期だなあとしみじみ思う。

 カレンダーが九月に移り変わっても朝の日差しはきついし気温もまだ高い。蝉だって未だに鳴いている。汗を拭いながら通学路を歩いていくと、そのうち前方に大柄な坊主頭の男子生徒が見えた。

 実に見事で模範的な坊主頭と目を引く体格の良さ、歩くスピードのすさまじい速さ、どれを取っても陸くんに間違いない。それに何より好きな人のことは遠目からでも、その雰囲気だけでわかる。数十メートル先にその後ろ姿を見つけた時、私は急いで駆け寄ろうとして――ふと思いとどまった。

 前に追い駆けて行った時は結局、学校の玄関に辿り着くまで追いつけなかったんだっけ……。

 しかもその後、陸くんには『気温高いんだから無理して走るな』って言われた覚えがある。

 次からは声をかけろ、とも言われた。

 よし。

「り……」

 私は数十メートル後方から彼を呼び止めようとして――しかし、またしても思いとどまる。

 こんなにいっぱい生徒がいるところで大声で陸くんを呼ぶのは恥ずかしい!

 クラスメイトなんだしそもそも彼氏なんだから呼び止める正当な権利はあると思う。でもここで大声を上げたら周りの人達にはばっちり聞かれてしまうわけで、それがただでさえ注目を集める有名人の陸くんともなれば尚更人目を引くことだろう。しかもそんな陸くんを夏休み空けたら名前呼びし始めたとか、いかにも夏休み中に何かありました感満載ではないだろうか。

 陸くんとの付き合いを隠すつもりはないしどうせばれるだろうけど、だからこそ普段は慎みある行動を心がけたい。陸くんの彼女としてふさわしくないなんて、誰にも思われたくないし。

 というわけで、結局走ることにした。


 私は硬いアスファルトを蹴って駆け出した。

 のんびり歩く他の生徒達にぶつからないよう、慎重にかわしながら次々と追い抜いていく。何人かが私の勢いに驚いて振り向いたようだったけど、遅刻でもないのに何を急いでいるんだろうって思ったのかもしれない。

 陸くんまでの距離は数十メートル、しかも走れば走るほど開いていく。彼が校門をくぐるまではあと十メートルもないように見える。追いつけるか、またしても玄関で追いつくことになるか。私が更に速度を上げようとした時だ。


 校門前で陸くんが、ふと立ち止まる。

 すぐに走ってくる私に気づいたんだろう。一瞬目を丸くして、それから何か言いたげに眉根を寄せた。

 いくら走るのが遅くたって、止まっている人に追いつくのはあっという間だ。私は勢い余って少しつんのめりながら、陸くんの前まで辿り着く。

「――お、おは……おはよ……」

 やっぱり息が上がって、挨拶にならなかった。

「おはよう、一穂」

 陸くんは当然ながら息も乱さず返事をした後、心配そうに言い添えてきた。

「気温高いんだから走るなって前に言ったろ。ぶっ倒れんぞ」

「そ、そうっすね。えへへ」

 叱られつつも、前に交わした会話を陸くんも覚えてくれていたことが嬉しかったりする。

 私は手の甲で汗を拭い、呼吸を整えてから言い訳をした。

「でも、何て言うか。皆が見てる中で大声出して陸くん呼んだら、注目集めちゃうかなって……」

 実際は集めるなんてものじゃない。絶対皆が見てくるだろう。そしてあの『向坂さん』を名前で呼ぶ女子生徒は何者だと憶測に次ぐ憶測が飛び交い、始業式を終えた頃の校内には噂が一通り行き渡って、私まで校内の有名人になっているかもしれない。そうなったら困るなあ、迂闊に授業中居眠りとか廊下歩きながらあくびとか家庭部でお菓子作り失敗とかできなくなりそう。

 あ、最後のはできなくて当然か。私は部長になるんだから。

 陸くんの彼女でいることと家庭部の部長になること。知名度が上がるのは果たしてどっちの方だろう。

 私の妄想じみた考え事をよそに、陸くんは唇を歪めて笑う。

「朝っぱらから全力疾走してる時点で、十分注目集めてたけどな」

「え!? 本当に?」

 恐る恐る振り返れば、ちょうどさっき追い抜いてきたと思われる生徒たちが私達の横を通り抜け、校門をくぐろうとしているところだった。確かに皆、不思議そうにこちらを見ている。もちろんそれは陸くんだからというのもあるんだろうけど、彼に全速力で駆け寄った私もそれなりに見られていたに違いなかった。

 これはこれで結構恥ずかしいかもしれない。と言うか、慎みある行動には程遠いような。

「具合悪くなってないならいいけどな。ちゃんと後で水分取れよ」

 陸くんが私の頭を撫でてくれたので、今更ながら髪が汗で濡れてないか気になりつつ、私は大きく頷いた。

「了解っす! 水飲んどきます!」

「あと、敬語な。ちょいちょい戻ってんぞ」

「あ! りょ、了解……いや、わかったよ! 任せて!」

 名前呼びは何となく慣れてきたけど、敬語がまだ抜けきらない。口調がちぐはぐで不自然な私を、陸くんはちょっと面白そうに見てくれている。

 陸くんの為に早く慣れたいなと思いつつ、こうやって笑ってもらえるのもいいなあ、なんて。


 あの日、水族館のイルカショーを見ながら陸くんが言ってくれたように、私は陸くんの幸せとか喜びとか笑顔とか、そういうものを一手に引き受ける存在でありたいって思う。陸くんを幸せにしたり、笑わせたり、私といると楽しいって思ってもらったり、そういうことをどんどんしてあげたい。ご褒美をあげられるような、って言うとちょっと偉そうかな。でも私から陸くんにあげられるものって、まだまだいっぱいあるって思うから、頑張ろう。

 とりあえずはお菓子作りを。陸くんの為に、そして家庭部の為に。


 夏と同じ日差しが降り注ぐ中、同じスピードで歩いて、二人一緒に校門をくぐる。

 校門の傍らには始業式だろうと構わずジャージにサンダル履きの生活指導が立っていて、私と陸くんが一緒にいるのを見ると目を剥いた。まず間違いなく、以前校舎裏で私達を捕まえた時のことを思い出したんだろう。私も生活指導の顔を見る度に思い出して、あの頃の私は無知だったなあとか、あんなことに巻き込まれても怒らなかった陸くんは本当に優しいなあとか考える。

 さておき、生活指導は連れ立って歩く私達を見て何か言いたそうにしつつも、おはよう、と重低音を利かせて言い放った。

「先生、おはようございます」

「おはようございまーす」

 陸くんも私も頭を下げて挨拶をして、そのまま何事もなく通り過ぎた。

 生徒玄関はまだ空いている。私達はやはり一緒に自分のクラスの靴箱へ向かい、ほぼ同時に靴箱の蓋を開けた。そしてごっついスニーカーを脱ぎながら、陸くんがふと笑みを零す。

「何だかんだで、お前が追っ駆けてくるのが嬉しかったりするんだよな」

 それが言葉そのままの意味なのか、比喩的な意味合いなのかは測りかねたけど、どちらにしても私の答えは同じだ。

「私も、陸くんのことは追い駆けたくなっちゃうな」

 家から持ってきた上履きに履き替えて、私はそう言った。

 すると陸くんは私を横目で見て、靴箱に大きなスニーカーを押し込んだ。それからちょっと困ったような顔をした。

「嬉しいけど、暑い中無理して倒れんなよ。俺が心配する」

「大丈夫! 夏場はほどほどにするよ!」

 幸いにしてと言うべきか、夏はもうすぐ終わりだ。と言うか暦の上ではすでに秋だ。

 これからはより一層、陸くんを追い駆けやすくなることだろう。


 新学期の教室では、校門前の比じゃないくらいの注目を集める羽目になった。

 夏休み前の終業式でもちょっとした騒動があったけど、朝、私と陸くんが一緒に教室に入っていった時のどよめきと言ったらすごかった。担任の先生がいきなりモヒカンにしてきてもここまでの衝撃はなかったかもしれない。

 陸くんを慕うクラスの男子達は特に激しく動揺していた。皆で教室の隅に集まりおでこを合わせて密談していたかと思えば、次の瞬間には大じゃんけん大会を始め、そして最後に負けた男子生徒がびくびくしながら陸くんに歩み寄る。

「こ、向坂さん。つかぬことをお伺いしますが……」

「何だよ」

 自分の席へ向かおうとしていた陸くんが立ち止まり、片眉を上げて応じる。

 途端にじゃんけんに負けた男子はごくりと喉を鳴らした。見ていて心配になるくらい腰が引けていたけど、他の男子達からの無言の声援を受け、やがて恐る恐る口を開く。

「向坂さんは……その、茅野と仲いいんですかね」

「ああ。付き合ってる」

 全くためらわず、迷いなく、陸くんは即答した。

 そういう人だと知っていたけど、私は一人でめちゃくちゃ照れた。例の男子を覗いたクラス中の全員が一斉にこちらを見たから余計にだった。あとで質問攻めにされるかもしれないけど、陸くんみたいに堂々と、うろたえずに答えなくてはいけないなと思う。こういうことは変に誤魔化しちゃいけないよね。

「ええ!? マジですか!?」

 例のじゃんけんに負けた男子がすっとんきょうな声を上げ、仰け反った。

 そして陸くんと、自分の席に座っていた私とを見比べながら尚も尋ねる。

「で、でも、茅野って向坂さんとキャラ違いすぎるって言うか……ああいうのが好みだったんすか?」

 ああいうのって何だ!


 クラスの男子達と来たら毎度毎度ちょっと失礼すぎやしないだろうか。

 そりゃあ皆が思い描く『向坂さんの理想の彼女』とはかけ離れているかもしれない――と言うか確実にかけ離れてるんだろうなあ。皆のイメージはアルマーニでびしっと決めたヒットマン然とした陸くん、その隣に立つ出るとこ出た峰不二子的な美女ってところなんだろう。確かにそんな二人が並んで立っていたなら見た感じは私の出る幕じゃないくらいお似合いかもしれない。

 でも陸くんは普通の、高校生の男の子だ。アルマーニは着ないしヒットマンでもない。

 皆より、私よりも大人びてはいるけどまだ大人じゃなくて、ちゃんと高校生だ。そんな陸くんには出るとこ出てないし美女でもない私がちょうどいいに違いない。

 まあ私は私でもうちょっと努力が必要なところもありますが、それは追々。

 私だってまだ高校二年生、これから確変が起きてグラマーな絶世の美女になっちゃう可能性がなきにしもあらずだ!


「可愛いと思ってるし、好きだから付き合ってる」

 陸くんはまたしても躊躇することなく、きっぱりと言い切った。

 教室に私がいてもまるで気にしていないどころか、聞こえても問題ないと思っているみたいだ。そりゃ問題はないけど、何て言うか照れるし恥ずかしいしどうしていいのやら。

 そして陸くんはたじろぐ男子に対して、呆れたように溜息をついてみせた。

「そもそも、俺が茅野と付き合ってたらお前らに迷惑かかんのか? そうじゃねえならいちいち騒ぐな」

「い、いえ、迷惑ってわけじゃ……」

 男子が一歩後ずさりして、後方に控えた他の男子達を振り返る。彼らは怯えた様子でぶんぶん首を振り始めた。

「なら放っとけよ。誰だってこういう話に他人から横やり入れられたくねえだろ」

 念を押すように陸くんが言うと、男子は頭が外れるんじゃないかという勢いで何度も頷いた。

「わかりました。あのっ、すみませんでしたっ!」

 深々と一礼すると踵を返し、様子を見守っていた男子達の話に逃げ帰っていく。彼を迎え入れた集団はそれ以上大騒ぎすることもなく、各々が神妙な顔つきで散り散りになっていった。

 陸くんはそれを一瞥してから自分の席の椅子を引き、音もなく腰を下ろした。ちらっとだけ私の方を見て短い間苦笑して、私が照れながら笑い返すとほっとしたような表情になって、それから前へ向き直る。

 クラス中の関心を跳ね除けるような広い背中が、今はちょっとだけ寂しそうに見えた。


 誰もが知っている通り、陸くんは強い人だ。

 誰に何を言われたって意見を翻すことはないだろうし、ちゃんと自分の言葉で反論することができるだろう。そういう強さは素直に羨ましく思う。

 でもそんな陸くんだって、誰かにいろいろ言われて全く気にならないわけがない。

 皆はまだ気づいていないみたいだけど、陸くんは私達と同い年で、私達のクラスメイトだ。自分の知らないところでどんな女の人ならふさわしいとか、ウーパールーパー的な私が相手だとジャンル違いだとか、そういうことは言われたくないだろう。放っとけと言ったさっきの言葉も、彼の本音なのかもしれない。

 もちろん、しばらくは放っておかれたくてもなかなかそうはいかないだろう。陸くんは校内の有名人だし、彼に関心があるのはクラスメイトだけに限った話じゃない。うちの部長みたいに陸くんについてちょっとばかし誤解している人もいる。

 何を言われても正直でいられるように、私も陸くんみたいに強くなろう。

 でもって、そうこうするうちに皆の誤解が解けるか、あるいは噂に飽きるか何かして放っておかれるようになったら、その時こそ陸くんと一緒に高校生活を普通に、楽しく謳歌してやろう。それまではしばらく騒々しい日が続きそうだけど、しょうがない。陸くんとなら乗り越えられるに決まってるし、平気だ。


 始業式の日以降、予想通り私と陸くんは騒々しい毎日を送ることになった。

 陸くんは質問攻めにされることこそなかったものの、男子達に私とのことをそれとなく聞かれているとのことだったし、私は私でクラスの仲のいい子達から事の次第を問い質された。女子の皆は男子達みたいに失礼なことを言ったりはしないけど、デートしたのとかちゅーしたのとか聞いてくるのはすごく困った。

 正直でありたい私も、しかしながら花も恥じらう乙女ですので、その辺はノーコメントで『お察しください』を貫いた。


 そういう日が数日続くと陸くんはちょっと疲れてしまったようで、そのうち昼休みになると二人で教室を出て、人気のないところでご飯を食べるようになった。ほとぼりが冷めるまで、少しだけ静かに過ごせる時間が欲しい、とは陸くんの言葉だ。

「けど『ほとぼりが冷めるまで』なんて、まるでこっちが悪いことでもしでかしたみたいだよな」

 ぼやく陸くんと非常階段の途中に座り、お昼ご飯を食べる。その間、私は笑いながら宥めておいた。

「皆こういう話題は大好きだから。私も友達に彼氏ができたら、同じように質問攻めにしちゃうかも」

「そんなもんか?」

「うん、そんなもん」

 私が頷くと、陸くんは少しの間私を見つめてから、穏やかな面持ちになる。

「なら、しょうがねえな」

 毎日が騒々しい分、二人でいる時間はとても静かで、幸せだった。

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