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彼と彼女とアップルキッシュ(6)

 私は向坂さんが好きだ。

 どのくらい好きかと言うと、向坂さんの為なら何でもできる、どんな苦労も厭わないってくらい好きだ。向坂さんが食べたいお菓子があったら、それがどんなに面倒なお菓子だろうと作れるように努力する。その方がいいって言われたらもっと可愛くなる努力だってしてみせる。今までだって向坂さんが好きだから頑張れたことがたくさんあった。

 でも、どうしたってできないこともある。


「け、敬語なしっすか……」

 私が恐る恐る問い返すと、向坂さんは私の顔を覗き込んだまま頷いた。

「ああ。できるよな?」

 できない。

 私にとってそれはものすごく難しく抵抗のあることだった。

「向坂さんにタメ口なんて畏れ多いっす」

 首を振りながら答えた。

 すると向坂さんは不思議そうに眉根を寄せる。

「畏れ多いって何だよ。言っただろ、俺達は同い年だ」

「それはわかってるんですけど……」

「大体、俺はお前に敬われるような存在じゃねえよ」

 そんなことはない。向坂さんは特別だ。

 クラスどころか校内で畏怖を集める向坂さんのことを、私は好きになるよりも前から尊敬していたし、すごい人だなあと思っていた。

 教室に入り込んだ蜂を追い出した時はその勇敢さと手際のよさに感動したし、ボクシングのことは全然よくわからなかったけど強いんだなあとも思っていた。クラスの男子達だって向坂さんをものすごく慕っていて、私と同じように敬語を使っている。校内には向坂さんを本気で怖がっている人もいるけど、私が敬語を使うのはそういう理由からじゃない。

 向坂さんを特別だと思っているからだ。

「向坂さんはすごい人っすよ。私は本当にそう思ってます」

「そりゃ買い被りすぎだ。言っただろ、俺はボクシング馬鹿だって」

 そう言うと向坂さんは空いた方の手を私の頭の上に乗せた。大きな温かい手がそっと頭を撫でてくれる。

 いつもなら溶けそうなくらい嬉しくて心地いいのに、今はどうしてか胸が痛くなった。

「それ以外のことに関しては普通なんだよ。お前が思ってるより、ずっとな」

 向坂さんは言い聞かせるような、優しい話し方をしていた。

 その声に胸が痛くなるのは、もどかしいからだ。向坂さんの気持ちに寄り添えていない自分に焦っているからだ。

「向坂さんは、私が敬語じゃない方が嬉しい、ですか?」

 頭を撫でられながら私は尋ねた。

 すぐに、向坂さんは豪快に笑んだ。

「当然だ。お前が今よりもっと近くに来てくれたら、嬉しいに決まってる」

 私が敬語をやめたら、今以上に向坂さんに近づけるのかもしれない。

 それに、向坂さん自身が望んでいることだ。そうしてくれと言われたら、その通りにしてあげたい。

「でも、クラスの皆だって向坂さんには敬語使ってるじゃないすか」

「そうだな」

「あれだって、向坂さんを尊敬してるからだと思うし……私だって同じっすよ」

「あいつらも普通でいいのにな。タメ口使ったからってキレたりしねえよ」

 ぼやく向坂さんは少し寂しそうだった。


 それで私は唐突に、以前、向坂さんが言っていたことを思い出す。

 文化祭でボクシング部のベビーカステラをごちそうになった時、二人でとりとめもなくいろんな話をして、その時に向坂さんがふと言った。『もっと普通にされたい』って。

 クラスの子達に、まるで年上の先輩みたいに扱われるのがこそばゆいって。

 私も、クラスの子達も、向坂さんに悪い印象があってそう接していたわけじゃない。でも向坂さんにとっては決して嬉しくない接し方だったんだろう。向坂さんは普通がよかったんだ。他のクラスメイト同士がそうするみたいに。

 私は秀でたところもない普通の高校生だから、向坂さんみたいに特別扱いされる人の気持ちが完璧にわかるわけでもない。ただ、向坂さんには向坂さんなりの辛さとか居心地の悪さがあって、そういうものを私が解消できるっていうんなら、そうしたい。


 ずっと、気がつけなかったな。向坂さんのこと、好きなのに。

「……すみません。気がつかなくて」

 切なくなって謝ると、大きな手が私の頭をぽんと軽く叩いた。

「馬鹿。こんなこと気に病むなよ」

「で、でも、向坂さんは気にしてたんすよね? だったら……」

「だからってお前が謝るのは違うだろ。今は俺が頼んでんだ」

 知ってたけど、向坂さんはめちゃくちゃ優しい人だ。

 言葉も、態度も、私を撫でてくれる大きな手も。

「茅野。もっと俺の、近くに来てくれ」

 身を屈める向坂さんの顔が目の前にある。

 私は、好きな人の為になら頑張れる。

 きっとこんなの、告白をした時よりは勇気も必要ないはずだ。同い年の男の子に――と言うか彼氏に、他のクラスメイトや友達と同じように自然に話しかける。たったそれだけのことができないなんておかしい。向坂さんは特別な人だけど、そんな向坂さんの普通の高校生らしさも私は好きだ。今日一日で十分わかったはずだ。

「あの、今すぐすんなりと、とはいかないと思いますけど」

 おずおずと、私はようやくついた決意のほどを打ち明ける。

「なるべく頑張るんで……敬語、使わないように」

「そうか。ありがとな」

 向坂さんは嬉しそうだ。目を細めて私を見ている。

 その視線に若干プレッシャーを感じつつ、私は続けた。

「えっと、その、私も向坂さんになるべく近づきたいなって思ってるし、それで」

 何か、何を言っても不自然な感じがする。

「向坂さんが喜ぶことをしたいとも思ってるんで、なるべく頑張るつもりだから、あの……」

 下手なスピーチみたいに支離滅裂でぐだぐだだ。

 でも向坂さんは口を挟まず、私の言葉の続きを待っていてくれた。

「こ、こんな感じで……いいかな? 変じゃない、かな」

 私は日本語にすら不慣れな外国の人みたいに、たどたどしく問いかけた。

 そんな私をじっと見つめた向坂さんが、次の瞬間、吹き出した。

「なっ……な、何で笑うんすか向坂さんっ! 私、頑張ったのに!」

「悪い、けどおかしくて笑ったんじゃねえからな」

「じゃあ何で笑ったんすか! そこは笑うとこじゃないっす!」

「そうだな、悪かった。茅野のこと好きだなって改めて思ったんだよ」

 またこの人はそういうことをいともたやすく口にする。

 私が直前のささやかな怒りも忘れて固まると、向坂さんは唇に笑みを浮かべながら尚も言った。

「上手く言えねえけど、お前のこと好きだとか、可愛いなとか、頑張ってるとこがいいなって思うと、なぜか笑えてくるんだよ。お前が嫌ならやめるようにする」

 そんなこと言われて、じゃあやめてくださいなんて言えるはずがない。

 むしろ、向坂さんって意外とわかりやすいんじゃないかなって思ったりして、今日一日振り返ってみてもどんな時に笑ってたか思い出せば、ああ確かにって納得するところもあったりして――すごく恥ずかしいけど嬉しい、でもやっぱり恥ずかしい!

「や、やめなくていいっす……」

 現金な私は、ぶんぶん首を横に振りながらお願いした。

 向坂さんがまた笑う。

「茅野、敬語に戻ってる」

「あっ、ええと、すみませんあの、とっさには出てこなくて……」

「いいよ、ゆっくり慣らしていけばいい。俺も慣れとかねえとな」

「向坂さんが慣れる必要あります? ――じゃなくて、必要ある、の?」

 私がまだ超不自然な口調で問い返すと、向坂さんはまた笑いそうになったのか、形のいい唇をぐっと引き結んだ。そしてさっきまで歩いてきた道を振り返る。


 いつの間にか日が沈み始めていて、水族館の方角では空が早くも夜の色に染まりかけていた。

 目を凝らせば微かな星の光が見える。相変わらず静かな道を、今ちょうど一台の車がこちらに向かって走ってくるところだ。眩しいヘッドライトが道の途中で立ち止まっている私達の前を薙ぐように照らしたかと思うと、すぐに離れて遠くなる。車の音も遠ざかり、波の音が戻ってくる。

 頭の上に置かれていた向坂さんの手が、不意にぐっと力を込めて私に上を向かせた。

 向坂さんの顔が目の前に、と思えたのは一瞬だけだった。

 私の唇に、ものすごく柔らかい何かが押し当てられた。

 お菓子に例えるならホットケーキみたいな、美味しそうな柔らかさだった。ほんのり温かいところも同じだ。でもお菓子どころか食べ物じゃないのはわかっていたし、わかったせいで一切の身動きが取れなくなった。

 多分、心臓も呼吸も止まってた。そのくせ体温がかあっと上昇して、頭の奥が痺れるような妙な衝撃があった。硬直する私を向坂さんは両手で支えてくれ、お蔭でどうにか倒れずに済んだ。


 唇が離れた後、向坂さんは堪えていたものをゆっくり解放するみたいに息をした。温かな吐息が私の唇をかすめ、私も思い出したように息を吹き返す。

 顔全体がはっきりと見える距離から、向坂さんが照れながら言った。

「ほら、こういうふうにしたくなるから、慣れといた方がいいだろ?」

 私は、言葉もなかった。

 黙ってふらふらと後ずさりして、腰が道の脇に立つガードレールにぶつかると、そこでずるりとしゃがみ込む。向坂さんが慌てて手を引っ張ろうとしたので、涙目になりながら言った。

「た、立てないっす……」

「いや、そこまでのことはしてねえだろ」

「そこまでのことっすよ、だってこんな、こういうのって!」

 ずっと呼吸を止めていたせいか、私は息も絶え絶えだった。

「し、幸せすぎて、マジ立てなくなるっす……!」

 キスしたいって、さっき、ちょっと思ってた。

 しかしそれはキスの何たるかを知りえなかったが故の軽はずみな発想だった。してみたら何かもう想像以上にすごい、幸せすぎてすごい。こんなことを全世界のカップルが普通にしちゃってるとか世界中幸せだらけじゃないですか。この世の中は私の知らないところでこんなにも幸せに満ち溢れていたんだって今知った。そしてこんなにも幸せな気持ちになれる、恋ってきっとすごいことだ。

 私はもう全身が心臓になったみたいにばくばくしていて、向坂さんの顔は見られないわ、腰が抜けちゃってるからずっと手を引っ張ってもらっているわで非常に無様な状態にあった。それでありながらめちゃくちゃ幸せでふわふわしていた。水族館から大分歩いてきたというのに、まだ海の底にいる気分だ。

「ありがとうございますっ、向坂さん!」

 思わずお礼を言うと、向坂さんは一旦目を瞬かせてからゆっくり顎を引いた。

「お……おう。礼言われんのも変な感じだな」

「いやもう、ありがたいっす。幸せっす。一生の思い出にします!」

「……まあ、そうだな。俺もそうする」

 向坂さんは私の手を引いて立たせると、ふらつく私の背に手を添え、照れ笑いを浮かべてこう言った。

「嫌じゃねえならよかった。お前のことが好きで、たまらなくなったんだ」

 それで私が再び呼吸を止めると、念を押すように言い添える。

「もっと近くに来てくれ、茅野」

 私の答えは決まっていたから、思いっきり大きく頷いた。

「はいっ。大好きです、向坂さんっ!」


 それから私達は再び手を繋いで歩き始めた。

 バス停を一つ通り過ぎた後も離れがたくて、もう少し歩くことにした。頭上には美しい満天の星空が広がっていて、水族館で見た深海の色にも似てるなと思う。

 私はまだ海の底を歩いている気分だったけど、向坂さんが手を繋いでくれているお蔭でどうにか浮かずに、地に足をつけて歩いていられた。

 そうして歩きながら、なるべく敬語を使わない為の練習をした。

「もうすぐ夏休みも終わっちゃいます……終わっちゃうね」

「毎度のことだけどあっという間だよな。もうちょっと遊びたかった」

「あ、向坂さんでもそう思うんすか……いや、そう思う?」

「そりゃあな。今年は特に、遊んでくれる相手ができたしな」

 向坂さんが横目で私を見る。

 私は照れながら、うへへと笑い返しておく。

「じゃあ次は九月の連休とかどうっすか? ……じゃなくて、どうかな」

「来月か。一日くらいは空けとくようにする」

 心に刻み込むように向坂さんは言い、それから真面目な顔で付け足した。

「十月に国体があるんだよ。その為の練習もあるからな」

「国体? インハイとはまた別の試合っすか? ……試合なの?」

「ああ。国民総体、聞いたことくらいはあんだろ」

「うーん、すみません。スポーツ全般に本当疎くって」

「ならしょうがねえか。とにかく、また試合やるからな」

「はいっ、応援してま……してるよ! すごく!」

 さっきから言い直してばかりの私を、向坂さんがふっと笑う。

「なかなか慣れねえみたいだな。今日一日でってのはさすがに無理か」

「そっすね……あ、いや、頑張ってはいるんだけどっ」

 敬語がどうも抜けきらない。

 とは言えこれも練習あるのみ、頑張れば意外とどうにかなってしまうかもしれない。


 ただ、夏休み終わって新学期になって、学校行き始めてからが心配だなあ。

 私が向坂さんにタメ口利いてるってクラスの皆にびっくりされそうだ。いや、付き合ってるんだから何もおかしなことないんだけど――むしろ私を真似て、皆も普通に話しかけるようになったりして。どうかな。

 そうなったら向坂さんも、嬉しいのかもしれないな。よし、頑張ろう。


「いっそ呼び方も変えるか? お互い名前で呼んだら、もっと早く慣れるかもしれねえぞ」

 不意に、向坂さんがそう言った。

 私はとっさにその顔を見上げて聞き返す。

「名前? ってことはあの、つまり――」

「下の名前。そっちの方がほら、より付き合ってるって感じすんだろ」

 向坂さんは首を竦めると、一呼吸置いて、何の気負いもない口調で続けた。

「お前はどう思う、一穂」

 こういう時の向坂さんの度胸はさすがである。まるで以前からそう呼んでいて、すっかり呼び慣れた名前みたいに口にする。男子から下の名前を呼ばれる機会などついぞなかった私は、すっかり舞い上がってしまった。

「何か、向坂さんに呼ばれるとすごくいい名前みたいに聞こえる!」

「何言ってんだ、もともといい名前だろ」

 いい笑顔で向坂さんが私の名前を誉めてくれた。前にもそう言ってもらっていたけど、改めて嬉しい。現金なもので、実は結構いい名前なんじゃないかなって思えてくるから不思議だ。

 浮かれた勢いで、私も、思い切って言ってみた。

「じゃ、じゃあ、私も名前で呼んでみていい?」

「ああ。好きに呼べ」

 向坂さんの了承を得たので、私は少し考える。

 下の名前には主に三通りの呼び方がある。でも呼び捨てというのはいくらなんでも不躾と言うか、乱暴な感じがするし、かと言って『さん』付けは何かいまいち変化に乏しい。向坂さんって呼ぶのとあまり変わらない気がする。

 だから、

「陸くん。……って、呼んでいい、かな?」

 照れながらそう呼んでみたら、向坂さんは私を見て目を丸くした。

 それからはにかみ笑いを押し隠すみたいな顔をして、私に言った。

「もっかい呼んで」

「え? り、陸くん……」

「もっかい。今度はもうちょい大きい声で」

「う、うん。あの、陸くんっ。……これでいい?」

 私が精一杯の声を張り上げると、向坂さんはしみじみと浸るように目をつむり、何だかすごく幸せそうに言った。

「ああ、いい。すげえいい。これからずっとそう呼んで」

 精悍な顔つきがひなたぼっこをする猫みたいに、心地よさそうに緩んでいる。

 私は今、この人を確かに幸せにしてるんだなって、そう確信した。

「陸くんって、名前で呼ばれるの好きなんだね」

「俺をそんなふうに可愛く呼んでくれるの、お前くらいだからな」

「そ、そっか。じゃあ頑張るっす……頑張るよ。早く慣れるように」

「頼むぜ、一穂」


 次のバス停までの距離もあっという間だったけど、私達は楽しんで歩くことができた。

 それもこれも今日が、お互いに幸せになれる素晴らしいデートだったからに違いない。

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