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彼と彼女とアップルキッシュ(5)

 濡れてしまった髪と服を乾かす為、私達は水族館の外へ出た。

 併設されている遊園地には売店やパラソル付きのテーブルもあって、風に当たりながら休憩するのにはぴったりだった。売店でかき氷を買い、パラソルの下で向かい合って食べる。

 海からの温い潮風が、濡れた髪やキャミワンピをぱたぱた揺らしていくのが気持ちいい。


「この分だとすぐ乾きそうだな」

 向坂さんは風に吹かれる私を見て、ほっとしたようだった。真夏だから風邪を引く心配はないだろうけど、頭から水を被っていたから気にしてくれたのかもしれない。

「そうっすね。いいお天気でよかったっす」

 私はメロン味のかき氷を口に運びながら応じる。連日の猛暑にはうんざりしていたけど、こうして水に濡れた後、冷たい物を食べながら浴びる真夏の日差しはいいものだ。

 ちなみに向坂さんのかき氷はイチゴ味だ。大きな手には細すぎるストロースプーンでかき氷の山をざくざく削っている。向坂さんの青いTシャツも水飛沫を浴びて色が変わるくらい濡れていたけど、ちょっとずつ乾き始めているようだ。私の服と同じように風にぱたぱた揺れていた。

「坊主頭って便利そうっすよね。乾きが早そうで」

 向坂さんの頭を見て、私は思ったことを口にしてみる。髪を乾かさなくていいのは楽だろうし、洗うのだってきっとあっという間だろう。

 でも向坂さんは不服そうに首を傾げた。

「便利ってほどでもねえぞ、一長一短だ。夏は暑いし冬は寒い。汗も垂れてくるしな」

「あ、それは不便そうっすね」

 冬の寒さは何かすごく想像がつくし、堰き止めてくれる髪がないから汗が垂れてくるのもわかる。全体的に無防備って感じだ。

「あとなあ……、卒業して大学行った先輩から聞いたんだけどな」

 そこで向坂さんは憂鬱全開という顔で溜息をついた。

「一旦坊主にすると次に伸ばした時、髪質変わって結構なくせ毛になりやすいって話なんだよ」

「マジっすか! へえ、初耳っすよそれ」

 そんな現象があるんだ。うちの学校にはボクシング部に野球部にと坊主頭の男子がそれなりにいるけど、その子達が髪を伸ばしたらどうなるのかは考えたこともなかった。皆がくせ毛になっちゃうなら大変だろうな、朝とか。

「俺も聞かされた時は耳疑った。マジだとすると伸ばすの悩むよな」

 そして氷イチゴの山をざくざくやりながら、がっくりと肩を落としてみせる。

「俺、絶対ちりちり頭は似合わねえと思うし……いっそ刈り込むしかねえな、そうなったら」

 意外と深刻に悩んでるっぽい。


 いや、実際私たちの年頃からすれば髪型の悩みなんてまさにナイーブかつ重大な問題である。

 向坂さんは大人っぽいけど私たちと同い年には違いないわけで、髪型で悩むことがあるのもある意味当然と言える。

 むしろ天パになるかもって悩んだり、お菓子に釣られてボクシングジムに通ったり、素の向坂さんは結構可愛い人かもしれない。


 そこまで考えた時、私はふと気づいて尋ねた。

「向坂さん、髪伸ばす予定なんすか?」

 今でこそ坊主頭の向坂さんだけど、ずっとこのままということはないはずだ。そもそも頭を剃っているのだって部の決まりなんだって聞いている。向坂さんも卒業した先輩の話としてくせ毛のことを語っていたから、その先輩も坊主だったのを伸ばしてみて初めて気づいたのかもしれない。

 案の定、向坂さんは軽く頷いた。

「卒業したらな。ボクシングに支障ねえ程度には」

「ふうん……」

 ということは、卒業後もボクシングは続けるつもりなんだ。

 そういえば前に見た試合動画、対戦相手の男子はしっかり髪生やしてたな。ヘッドギアからはみ出た感じになってたのを覚えてる。向坂さんも髪伸ばしたらあんな感じになるのかな。

「どんな髪型にするつもりっすか?」

 私が食いつくと、向坂さんはきょとんとしてから今はまだつるりとした自分の頭を撫でる。

「どんなって……あんま伸ばしても似合わねえだろうし、邪魔だからな。適当に短めにしとく」

「是非見てみたいっす、その時の向坂さん!」

 今の向坂さんももちろん精悍で格好いいけど、髪が生えたらもっと大人っぽく、そして格好よくなるんじゃないだろうか。見てみたいなあ、卒業してからっていうなら少なくとも一年半は先の話だろうけど。

 向坂さんはますます不思議そうにイチゴ味のかき氷を食べる。

「黙ってたって見れるだろ、一緒にいたら」

 何でもない調子で、あっさりと言われたから、余計にどきっとした。

「そ、そっすね。楽しみっす」


 一緒にいたら、というのは願望でも理想の未来でもある。

 でも同時にまだ高校二年の私には、卒業したらどうするかなんて想像の範疇を超えた話だったりするのだ。大学には行くつもりだし、漠然と受験勉強のことも考えつつはあるけど、今のところ夢でも見ているみたいに非現実的な話だった。

 ボクシングが大好きな向坂さんは、やっぱり卒業してからもボクシングをするみたいだ。きっと自分の体の一部みたいに切り離せるものじゃなくなっているんだろう。私はそんな向坂さんが好きで、この先も一緒にいたいと思っているけど、それなら向坂さんの試合も応援できるようにならないとな。

 ううん、なりたい。

 向坂さんを、向坂さんが好きなボクシングごと受け止められるようになりたい。


「髪、結構乾いたな」

 不意に向坂さんがパラソルの下で腕を伸ばし、私の髪に大きな手で触れた。髪を手で梳くように、くしゃっと掻き混ぜる。優しいその手つきに身体は硬直し、指先がかすめた片耳だけが熱くなる。

「お前の髪、柔らかいよな」

 こうやって触られるの、どきどきするけど、好きだ。

 私がテーブルの上のかき氷と同様にどろどろ溶けかかった時、向坂さんがなぜか軽く吹き出した。

「いや、柔らかいのは髪だけじゃなかったな。お前は二の腕も柔らかかった」

「え?」

 何で、急に、二の腕?

 予想外の言葉に私が戸惑っていれば、向坂さんは笑いながら続ける。

「バスの中で座ってた時とか、手繋いで歩いてた時、ちょっとぶつかったりしてたろ。その度に柔らけえなって思った」

 そりゃまあ、鍛え抜かれた向坂さんの腕と比べたら、私の腕なんて怠惰と油断の象徴みたいなものだろう。あるいはそれこそが私の日常、ありのままの日々の答えとも言えるかもしれない。要は何の努力もしてないってことです。

「鍛えてなくてすみません。もうちょい引き締めた方がいいですかね……」

 私は剥き出しになった自分の二の腕をつまむ。どれだけつまめたかは秘密。

 すると向坂さんはまた笑って、

「そのままでいいだろ。お蔭で俺は、お前と手繋ぐのが楽しかった」

「は、はあ……? いいんすか、このままで」

「ああ」

 私の問いかけには大きく顎を引いてみせた。

 それから、多分、時間を気にしたんだと思う。売店のある広場に設置されたポール時計に目をやった。私も一緒にその視線を追い、現在の時刻が午後四時少し前だと気づく。

 いつの間にかもう夕方だ。空はまだ明るいけど、ほんの少しだけ日が傾きつつある。

「まだ時間あるだろ?」

 向坂さんが視線を時計から私へ戻し、尋ねてきた。

「お前が疲れてないならでいいから、よかったらこの後、少し歩こうぜ。手繋いで」

 当然、私は疲れてなんかいなかったし、その誘いを断る理由もなかった。

 だけど押し寄せてくる謎の予感に、緊張もまた否応なく高まっていくのがわかる。

 今更だけど、何かこういうのってすごく、絵に描いたようなデートっぽい!


 水族館からすぐにバスには乗らず、海沿いの道を次のバス停までぶらぶら歩くことにした。

 夕暮れ時の海から吹く風は日中よりも涼しく、すっかり乾いた私の髪や服、あるいは向坂さんのTシャツをぱたぱた揺らしていく。気温は相変わらず高くて、歩いていると繋いだ手のひらにじんわり汗が滲んでくる。だけど私は手を離したくなかったし、向坂さんもしっかりと私の手を握って、離そうとはしなかった。もう片方の手で提げたバスケットは来た時よりも軽く、今日の終わりを意識してしまう。

 オレンジがかった太陽はまだ海面と距離があり、海は太陽と同じ色に眩しく光っている。片側一車線の細い道の周囲は水族館から離れると建物も少なく、ひたすら光る海と、寄せては返す海水を被る消波ブロックと、その景色を見下ろす道沿いに張られたガードレールだけが続いている。この時間じゃ車通りも少なくて、水族館帰りと思しき自家用車が前へ走り抜けていく他は静かだった。

 歩き始めた直後はいつものようにいろいろ喋っていたのに、ここ数分、会話はぱったりと途絶えてしまった。お蔭で私は車道側を歩く向坂さんの顔を見ることができず、海ばかりを見ている。

 気まずい。

 それも嫌な気まずさじゃない。心臓が今にも爆発しそうでどきどきしていて苦しいくらいの、幸せな沈黙だ。

 でも向坂さんの顔は見られないし、緊張している。

 それはもうしょうがない。こういうの、初めてなんだから。


 正直に言えば、帰りたくないなって思ってる。

 名残惜しい。楽しすぎて今日が終わるのが嫌だ。向坂さんと離れたくない。

 だけどその気持ちを告げたところでどうにかなるわけでもないし――と言うか、どうにかなっちゃったら困るし! そういうのはさすがに早すぎると思うし、心の準備もできてないから駄目だし、だからつまり当然のように、私達はお互いの家へ帰らなくちゃいけない。

 だから代わりに、というわけじゃないけど、デートがこのまま終わってしまうのは寂しいし、今日は十分すぎるほど楽しくて向坂さんのこともいろいろ知ってしまったし不満はないけど、物足りないという気持ちもなくはなかったりする。

 いや、違う。物足りないんじゃない。

 したいことが、して欲しいことがある。


 勇気を出して、少しだけ顔を上げてみた。

 前髪越しにかろうじて向坂さんの口元が見えた。軽く引き結ばれた唇の形はきれいで、尖った犬歯は今は見えない。あの唇の感触を、当たり前だけど私はまだ知らない。

 キスしたいって思うのは、おかしなことだろうか。

 一度もしたことなくてどんなものかも知らないのに、してみたい。されたらどうなるのかなんて想像もつかないくせに、試してみたいと思ってしまう。今日のとても楽しくて思い出深い時間の最後を、そういうわかりやすい形で締めくくりたくて仕方がなかった。安易な憧れと言えばそうだし、だけど向坂さんとだったら、それは本当に素敵な思い出になりそうな予感もしていた。

 でもこういうのってどう切り出していいのかわからないって言うか、よもや向坂さんにそんなお願いができるかと思う。とてもじゃないけど言えないし、言ってやんわり断られたら絶対立ち直れない。って言うかドラマとか漫画でも女の子の側からお願いして、ってシチュエーションはあんまり見ない気がする。ほとんど暗黙の了解みたいにするから、私のような恋愛初心者にはてんで参考にならない。

 ただ、前にそんな雰囲気になった時は、確かに暗黙の了解って感じだった。

 向坂さんが顔を近づけてきて、私が目をつむった。

 もう一度あんなふうになる為には、どうしたらいいんだろう。


 更に勇気を出して、もっと顔を上げる。視線も上げて向坂さんを見る。

 向坂さんも何か考え込んでいるようだ。思いを巡らせているのがわかる横顔が、日も暮れかけた道の先をじっと睨んでいた。どんなことを考えているのかはわからないけど、少なくとも私よりはずっと真っ当な考えをしていそうに見えた。

 と言うか私がおかしいんだ。本来なら切なくも幸せな気持ちで名残を惜しむべき雰囲気なのに、一人先走ってキスしたいだの何だのと――普通はもっとロマンチックなことを考えてしかるべきだ。初めての外デートの後に女の子がこんな欲望まみれの考え事してたら普通引くと思う。私ももっと真っ当な、普通の女の子っぽいことを考えないと。

「茅野」

 急に名前を呼ばれて、私はびくりとした。

「は、はいっ。何でしょう!」

 返事をした声が裏返ったからか、こちらを見た向坂さんがちょっと笑う。

「悪い、驚かせたか」

「あ、いえいえ……ちょっとあの、思考があらぬ方にぶっ飛んでたんで……」

「何だそりゃ」

「いえ何でもないっす! 今日楽しかったなあって思ってました!」

 嘘じゃないのが幸いだった。

 たちまち向坂さんは目を細める。

「そうか、そりゃよかった。俺も楽しかったよ」

 その言葉が嬉しい。私といて楽しいって、向坂さんには思ってもらいたかったからだ。

 と言うか、向坂さんにそう言ってもらえただけでも今日のデートの締めくくりとしては十分すぎるほどじゃないだろうか。不満なんてない。幸せだ。

「嬉しいっす。何か向坂さん、あんまり水族館とか来ないって話でしたし」

 私はでれでれと緩む顔を引き締めることもできず、照れながら続けた。

「今日は私の要望聞いてもらってばっかだったんで、楽しかったって言ってもらえてよかったなって」

「お前がいたから楽しかったんだよ」

 向坂さんも笑っている。

 いつもは厳ついくらいの顔に、優しく、柔らかい微笑が浮かんでいた。

「俺一人じゃサメの写真撮ろうとか、イルカショーの最前列に座ろうとか思わねえからな」

「へへ……楽しんでもらえて、よかったっす。光栄っす」

 駄目だ、にやにやしてしまう。

 緩む顔を隠そうと俯きかけた時、繋いでいた手がぎゅっと強く握られた。

 大きくて、分厚くて、ちょっとざらついている向坂さんの手は、噛みつくように力を込めて私の手を握る。

 思わず息を呑んだ私の喉がひゅうっと音を立てた時、向坂さんが静かに切り出した。

「なあ、茅野」

 辺りには波の音だけが響いている。

「な……なな、何でしょう……」

 私の声が震えているのも、絶対ばればれだと思う。

 向坂さんはそれでも私の手を離さず、私から目を逸らさず、ゆっくりと歩きながら言った。

「茅野。俺達は、同い年だよな」

「え? も、もちろんっすよ」

 どうしてそんなことを聞かれたのかはわからなかったけど、私は即答した。

 私と向坂さんは同い年だ。同じ高校二年生で、クラスも一緒だ。向坂さんはめちゃくちゃ落ち着いててしっかりしてて大人っぽいけど、その事実だけは疑いようもない。

「どっちかが年上ってこともねえし、そもそもクラスメイトだ。俺達は、対等だよな」

 続けて向坂さんが確かめてきたから、私はぎくしゃくと頷く。

「そ、そうっすね。向坂さんと同じクラスで本当、よかったっす」

「俺もだ。お前がいてよかった」

 そう言うと、向坂さんは私の手を引いた。私の肩が向坂さんの腕にぶつかり、どきっとした私がとっさに足を止めると、向坂さんもそうするのがわかっていたみたいに立ち止まる。

 夕暮れ時の光を受けて、向坂さんの真剣な表情が一層張り詰めた、揺るぎのないものに見えた。

「だから俺は、お前ともっと近くなりたい」

 向坂さんは形のいい唇を動かして言った。

「茅野。お前にも、もっと傍に来て欲しい。だから……」

 私の頬に、向坂さんの手が触れる。

 大きな手だ。ざらっとした感触が心地よくてくすぐったい。

「敬語なんてやめて、普通に話してくれよ。俺と」

 身を屈めて私の目を覗き込む向坂さんが、今、とても近くに感じられた。

 前にもあった。あの時と同じように。

「俺はお前とは、そういうのがいい。一番近くに来て欲しい」

 向坂さんの言葉は命令するでもなく、言い聞かせるでもなく、ただせがむような切実さに聞こえた。


 私は何を言われたか飲み込めないまま、向坂さんの表情に吸い寄せられるように見入っていた。

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