第三話 優しき地界から人界へ
地界での暮らしは、レンガにとって驚く事ばかりだった。
他者が、自分に気安く声をかけ、様子を気にかけてくる。
言葉を発しても怒られない。
何より、身体への暴行を受けた事が無かった。
逆に、身の守り方を教えてもらった。
始めこそ、天界人は捕食される恐れがあると、超大型のヘビであるゼクトレイユがレンガを囲い込むようにして不意打ちで喰われないように守ってくれもしてくれたが、そのうち存在は知れ渡り、エサではないという認識に落ち着いたらしい。
地界人は天界人に比べて気性が荒いはずだったが、同時に彼らは感謝の念に敏感だった。
レンガが初めて与えられる一つに静かに感激するのが伝わるらしく、彼らはレンガを受け入れていった。
ヤギのような姿のフィルトレンの方は、魔術や洞察や知識を得意としていた。
フィルトレンはレンガに様々な話を教えて聞かせた。まるで教師のようだった。
レンガは地界で、自分が笑う事ができるのを知った。
他者と笑いあえることを知った。
『お前がそのようにいるのは喜ばしい事だ』
ヘビのゼクトレイユがレンガに言った。
『レンガよ。お前の名は天界では汚れを意味すると言った。地界ではそれはお前の名でしか存在しない。汚れでも何でもない。レンガという名がどんな意味を地界で持つのか、それはお前の生き方で決まるだろう』
『レンガ。お前は認められた。ここにずっといるが良い。お前の場所はここにある』
ヤギのフィルトレンがレンガに言った。
『だが一方で、お前はやはり天界人なのだ。地界を出ていける。いつ出ても構わない。いつ戻っても構わないのだから』
いつの間にか、レンガの身体中の湿疹は綺麗に治っていた。
あれは、身体の悲鳴だったのだとレンガはここに来てやっと知った。
自分が口に出せない言葉が、身体の方に吹き出した。我慢の限界が来ていたのだろう。そして、誰かに、それを知ってもらいたかったのだろうか。
***
地界で幸せに暮らすうち、レンガは人界に興味を持った。
ヤギのフィルトレンが人界について話をしてくれるからでもあるし、そもそも天界と地界は人界に介入する存在である。
レンガはヘビのゼクトレイユとヤギのフィルトレンを揃って呼び出し、決意を打ち明けた。
「私は、少し人界の様子を見に行ってこようと思う」
『なるほど分かった。だが十分気を付けろ。あそこには天界の者も出入りしている。我らが知識を持ったお前が、そうそう天界人にやられるとは思えまいが』
『普通の人界の者には、我らの姿は見えない。だが、幼子や死に近いものには見えるのだ。くれぐれも注意を払って行け。念のため我が分身を与えよう。困った時に頼るが良い』
「ありがとう。ゼクトレイユ。フィルトレン。行ってくる」
レンガは、オレンジ色の光に照らされながら自分を見送ってくれる多くの者たちに手を振って、地上への階段を登っていった。
***
人界に足を踏み入れる。
空は曇り、陰鬱としていた。
天界のような白い輝きでもなく、地界のような黒さでもない。なるほどこれが人界かと、レンガは感慨深い気持ちになった。
自分と似たような姿の者が、歩いている。傍には、地界の皆のような存在が、うろうろとしている。
天界と地界が混ざり合う。曖昧ゆえに、葛藤も多く生み出されると聞く。
天界はそれら苦しみから引き揚げて人界の者を救うのだ。
地界はそれら苦しみごと抱え込む。ある者は抱えたまま眠らせ、ある者は抱えきれないものを吐き出させる。
天界は地界のやり方を『ただの欺瞞』と呼び、地界は天界のやり方を『傲慢な切り捨て』と呼ぶ。
どちらが正しい言葉かはレンガには分かりかねる。
ただ、レンガにとって、地界の方が暖かで器が広いと知っている。地界の彼らが凶悪な面を持つことを教えられていても、地界こそが理想の世界だ。
家が建っている。
窓から様子を覗く。
人界で生きる者は、基本的に天界人や地界人の姿を見ることができない。だから気ままに見て回る。
そんな中で、窓の中の少女と目が合った。
明らかに気づかれたので、レンガは会話を求めて窓と壁をすりぬけてその少女の傍に行った。
少女は簡素なベッドに横たわり、死の淵にいるのが明らかだった。
「嬉しい。天使様が、お迎えに」
少女はレンガを見て途切れ途切れにそう呟いた。
「私を、天国に、連れて行って、ください」
レンガは目を見開いた。天国。人界において、それは天界を意味した。
レンガは慌てて、正直な自分の状態を告げようとした。
だが少女は待たずに呟く。
「苦しまなくて良い、ところに、もう、行きたい。幸せに、いたい。天使様の、国に、連れて行って、ください」
レンガはその言葉に瞬いた。
苦しまなくて良い場所。それはレンガにとって天界ではない。地界だ。
確認した方が良い。
「苦しまなくて良い場所。私の場所に、行きたいのか?」
「はい」
スゥ、と消えそうな呼吸で返事が来る。
「それは」
「お願い、します」
少女が手を伸ばす。レンガは思わずその手を握った。握れた。という事は。この少女は、すでに人界から相当遠ざかっている。
初めての事態に息を飲むレンガに、少女は嬉しそうに微笑んで、そのまま息を引き取った。
レンガは言葉を失い、一瞬茫然としたが、ハッと気づいて、ベッドの身体から浮き上がってくる淡い光に呼びかけた。
「こちらへ」
光は少女の笑顔をふわりと浮かばせて、レンガの手のひらに寄ってくる。
レンガは、その光を見つめながら、自分についてきてくれているフィルトレンの分身に呼びかけた。
「フィルトレン。この子を、地界に」
『待て。それではいけない』
「なぜ。この子の最後の望みだ。叶えるのが我々の努め」
『そうだ。だが、お前は誤解している』
「誤解? この子は、苦しみの無い場所に行きたいと言った。私の場所に。地界でしか、あり得ない」
小さな小さなフィルトレンの分身は首を横に振った。
『我輩にはとてもそうは思えぬ。だがそこで願いを聞いたのは間違いなくお前だ。指示は出せぬ。だから助言だと思って聞け。小さな保管箱を用意する。それにその子の魂をいれて旅を続けろ。そうしたら、どこに連れて行けばいいのかがおのずと分かるだろう』
小さな小さなフィルトレンが宙に魔方陣を浮かび上がらせて、そこから緑色に光る正方形の虫かごを生み出した。
レンガはその箱を持ち上げて、助言のままに、少女をそこに入れてしばらく共に旅に連れていく事にした。




