盗まれたメダル
「娘よ」
ハリーは光を放ちながら、ドロシーに真紅の瞳を向けて厳かに言った。ドロシーは畏怖に打たれた様子でその場にひざまずき、頭を垂れた。
「顔を上げ、立つのだ。我を拝んではならない。我は御使いであり汝が神ではないのだから」
ドロシーは言われるまま、のろのろと立ち上がった。ハリーは並んで立つマリーとドロシーを交互に見て、にんまりと笑った。
「俺好みのおっぱいが二つも!」
ドロシーはぎょっとして胸を押さえた。
「いや、正確には四つかな? まあ、どっちでもいいや。おっぱいがいっぱいなのは同じだし」
マリーは子供の姿に戻ると、ハリーのお腹に思いっきりキックを入れた。ハリーは数ヤード転がってから飛び起き、足音を鳴らしながらマリーに詰め寄った。
「ちょっとは加減しろよ!」
わざわざ子供に戻ってから蹴ったことを指摘すると、ハリーは「そうか」と納得した。
「おい、へぼ天使。今までどこで何をしてたんだ?」
ジローが言うと、ハリーは彼にあかんべえを一つくれた。
「ちゃんと説明して、ハリー」
マリーは腰に手を当てて眉を吊り上げた。
「天使様と、お知り会いなの?」
ドロシーは恐縮した様子で、ちらちらとハリーを見ながら聞いてきた。
「前に、ジロー坊ちゃまのご両親に食べられそうになってたところを、私が助けたの」
「ジロー坊ちゃま?」
「俺の事だ」
ジローが言った。
「食べられそうになったのも助けたのも、お互い様だろ?」
ハリーは抗議した。
「ええ、そうね。その節はどうもありがとう」
「どういたしまして」
二人は互いにお辞儀をして、くすくすと笑いあった。
「それで?」
ジローが言った。
「急かすなって。今は、この姉ちゃんに用事があるんだ」
それからハリーは、珍しく真剣な顔でドロシーを見た。
「あんた、ドロシーさんだろ?」
「はい、天使様」
「ハリーでいいよ。それと、畏まるのもナシな」
「わかったわ、ハリー」
ドロシーはハリーが差し出した右手をぎこちなく握った。
「あまり楽しい知らせじゃない。男爵さんが捕まった」
「なんですって?」
ドロシーは蒼ざめた。
「どこから話そうかな」ハリーは頭を掻いた。「まあ、いいや。最初っからにしよう。前半はドロシーさんや男爵さんには関係ない話だけど、ちょっと辛抱して聞いてくれるか?」
ドロシーが頷くのを見て、ハリーは話し始めた。
「俺たち三人はオンボロ兎の屋敷から、鏡のマリーを追い掛けて教会へやって来た。でも色んな事情で、俺は別行動をすることになった。村の辺りをぶらぶら飛び回ってると、鏡のマリーがこそこそうろついてるのを見付けて、とっ捕まえてやろうと思ったんだけど、結局、見失っちまった」
「だから、お前はへぼ天使なんだ」
ジローが舌打ちした。
「あいつ、何かいかさまを使ってるんだよ」ハリーは渋い顔をした。「あっちの家に入ったかと思ったら、ぜんぜん違う家から出てきたり、目の前でイタズラしてるのに誰も気付いてなかったりって、まるで幽霊なんだ。ひょっとして、マリーが大人に変身できるように、あっちのマリーも妙な力を使えるんじゃないか?」
ハリーの言うことが本当なら、実に厄介だ。そんな力を持っているなら、どんなに追い詰めても簡単に逃げられてしまうではないか。
「俺は影を探すのをあきらめて、教会へ戻ったんだけど、その時にはマリーも子兎もいなくなってた。あちこち探し回ってると日が暮れてきて、困ってるところにペイル伯爵と出会った。俺たちは、お互い真っ白ってことで、すっかり仲良くなって、俺は彼の屋敷に一晩泊めてもらうことになった」
マリーとドロシーは顔を見合わせた。
「お屋敷に着くと、俺はマリーとボロ兎のことを話した。ペイルさんは心当たりがあると言って、この屋敷のことを教えてくれた。それから俺たちは夜食を食べてたんだけど、そこへカラスみたいに真っ黒な騎士が訪ねて来た。騎士はペイルさんの日記帳を持ってて、返して欲しかったら金目の物を出せと言ってきた」
「領主様がそんなことするはずないわ!」
ドロシーが叫んだ。
「ペイルさんも同じこと言ってたよ。とにかく、ペイルさんは三ポンドくらいありそうな金のメダルと交換に日記帳を取り返すと、すぐに逃げた黒騎士を追い掛けた。でも、お屋敷の外に黒騎士の姿は無くて、彼を見つけたのは川を渡ってすぐ側にある、船着場の小屋の中だった。今、男爵さんはペイルさんのお屋敷に捕まってる。俺は今日の日暮れまでに、男爵さんが無実だって証拠を見つけるように、ペイルさんに頼まれたんだ。もし証拠を見付けられなかったら、ペイルさんは友だちの男爵さんを罪人として裁かなきゃいけなくなる」
ハリーはマリーに目を向けた。
「手始めに何をする?」
マリーはペイルの屋敷へ行くべきだと主張した。誰にも否やは無かった。彼らは慌ただしく屋敷を出て、伯爵領との境になる河岸へとやって来た。そこには川を横断するロープで繫がれた艀を係留する船着場があって、その側には小屋が建っていた。扉を開けて覗き込むと、中は意外に広く、修理用のロープや板切れが転がっていた。
「男爵さんは、ここに居たんだ。ペイルさんが男爵さんを見付けたとき、彼はメダルを持っていなかった」
ハリーは言った。マリーたちは小屋の中を探し回ったが、特段、おかしな物は見付からなかった。もちろん、ペイルのメダルも。
「誰か来る」
ジローが耳をピンと立てて言った。マリーは念のため大人に変身して外へ出た。
やって来たのは、マリーを裸で豚小屋に放り込むと言った農夫のビルだった。彼はハリーの姿を見て、ぎょっと目を剥いた。拝んだりひざまずかれたりされても面倒なので、マリーは何気ない動きで背中にハリーを隠し、ドロシーも声を掛けて彼の気をうまく逸らせた。
「おはよう、ビル」
「おや、ドロシーさん。おはようございます。あのイタズラ娘はどうなりました?」
「まだ裁きは決まってないわ」ドロシーは大人のマリーをちらりと見て言った。「領主様が伯爵様のお屋敷へ行ったまま、帰って来てないの」
「それじゃあ、今からお迎えに?」
「そうよ。あなたは、どこへ?」
「伯爵様の領地の村に、ちょいと用事がありましてね。お、ついてるな。艀がこっち側にあるじゃないですか。向こう岸にあると、引き寄せるのに手間が掛かりますからね。しかも、どう言うわけか、急いでいる時に限って反対側にあるから始末に終えませんや。昨日の晩も、それで往生したもんです。ところで、みなさん一緒に乗りますか?」
彼らは艀に同乗して川を渡った。艀を降りると、ビルは約束の時間があるからと言って、そそくさと立ち去った。そこからペイルの屋敷までは歩いて三〇分ほどの距離があり、マリーは途中で何度か変身しなおすことになった。先ほどのビルのように、イタズラの被害者と、ばったり出くわさないとも限らないので用心することにしたのだ。
屋敷を訪れると、ペイルの従者のエドが彼らを出迎えた。彼は、何かの間違いに違いないから、心配するなとドロシーを励まし、一行をペイルの書斎まで案内した。
「こんなことになって、申し訳ないと思っている」
エドが部屋を出て行くと、ペイルは頭を下げた。
「あんたのせいじゃないよ、ペイルさん。あんたは法に従っただけなんだ」
ハリーが慰めた。
「わかっているとも、ハリー。しかし、友人と法を天秤に乗せ続けるのは、これでなかなかに辛いものなのだ」
ペイルは嘆息し、それから大人のマリーに目を向けた。
「はて、見かけないお嬢さんだ。あなたの新しいご友人ですか、ドロシー?」
「はい、伯爵様」ドロシーは微笑んだ。「でも、伯爵様もよくご存じのはずですよ」
マリーは懐中時計を取り出すと、変身を解き子供の姿に戻った。
「これは驚いた」
ペイルは目を丸くした。
「マリーは面白い特技を持ってるんだ」ハリーは簡単に説明した。「捜査を始めていいか?」
「もちろんだ」
「それじゃあ日記帳だけど、どうしてニセ男爵が持っていたか心当たりはあるか?」
ペイルが首を振るので、マリーは日記帳の発見からレイヴンに渡すまでの経緯を話した。
「するとニセ男爵は、どうにかして本物の男爵さんから日記帳を盗んだわけか。男爵さんにも話を聞いていいか?」
「私も一緒に行こう」
書斎を出た彼らが向かったのは隣の応接間で、扉には申し訳程度に小さな閂が掛けられていた。
「男爵は牢に入りたがったが、私は反対したのだ。これを取り付けることで、どうにか納得してもらえた。彼はもうちょっと柔軟になるべきだと思わんかね?」
ペイルが閂を外し、扉を開けると、窓辺に立つレイブンの姿があった。彼は振り返るなり友人に抗議した。
「伯爵、君の領地では囚人に白パンを食べさせるのか? これでは美味い食事をあてにする犯罪者が増える一方ではないか」
「君はまだ囚人ではないよ、男爵。それよりも、君の助けになると思って探偵を連れてきたんだ。彼らの捜査に協力してくれないか」
マリーたちが部屋に入ると、レイヴンはドロシーの姿を認めて言った。
「心配を掛けてすまない、ドロシー」
ドロシーは首を振った。
「日記帳のことについて聞きたいんだけど、いいかな?」
「もちろんです、天使様」
レイヴンは畏まって言った。
「ハリーでいいってば」ハリーは渋い顔をした。「昨日、男爵さんがマリーから日記帳を受け取ったあとのことを、詳しく話して欲しいんだ」
レイヴンは頷き、話し始めた。
「私は屋敷を出て、すぐに伯爵を追い掛けたのだ。年は食っているが、これでも脚には自信があってね。私は船着場の側で首尾よく彼を捕まえ、日記帳を手渡した」
「しかし、私は君の偽物が現れるまで、日記帳は受け取っていないのだ」
ペイルが言うと、レイヴンは頷き彼の言い分を認めた。
「おそらく賊は君にも化けていたのだろう。私から日記帳を受け取った偽物の伯爵は、内密の話があるから小屋に隠れて待っているようにと言った。国家に対する重大な犯罪の証拠を、手に入れたと言うのだ。何も知らない私は少しも疑わず、小屋に身を潜めて君を待っていた。その後のことは、みなが知っての通りだ」
「なんとも、ずる賢いやつだな。そいつをとっ捕まえれば、男爵さんの無実も一発で証明できるんだろうけど、どうやって探せばいいのか、見当もつかないや」
ハリーが泣き言を言った。
「偽物の領主様が、どっちへ逃げたか見てた人はいないのかしら」
ドロシーが呟くと、ハリーはパチンと指を鳴らした。
「それだ。村へ聞き込みに言ってみよう」
「ちょっと待ってくれ」
さっそく部屋を出て行こうとするマリーたちを、ペイルが呼び止めた。
「聞き込みについては賛成だが、ここで起こった事件については内密にして欲しいのだ。兵や屋敷の使用人たちにも同じことを命じているし、彼らは日暮れまで屋敷から出ないことになっている」
ペイルはちらりと男爵を見て続けた。
「人は疑わしいと言うだけで、その者を犯人とみなす癖があるからな。無実の男爵が犯罪者呼ばわりされるのは我慢ならん」
「わかってるよ、ペイルさん」
ハリーは請け合った。
「それに、事件について細かいことを知ってるか知らないかも、大事な証拠になるんだ。ぺらぺらしゃべって、それを台無しにするつもりはないよ」
村へ着いてわかったのは、ハリーが聞き込みには向かないと言うことだった。話し掛けられた人たちは大抵、恐縮してしまってまともに話せなくなってしまうからだ。
「いっそのこと村の真ん中でピカピカ光りながら、知ってることを全部話せって命令してやろうかな」
ハリーはいらいらしながら言った。マリーは面白そうだと賛成したが、ジローに止められた。
「盗み食いをしましたとか、お祈りを忘れましたとか、つまらない懺悔話を山ほど聞くことになるぞ」
するとドロシーはマントを脱いで、それをハリーに掛けた。
「羽根さえ隠しておけば、ちょっときれいな男の子にしか見えないでしょう?」
それから彼女はマリーに目を向けて言った。
「手分けして聞いて回った方がいいと思うの。この村は広いし、時間も惜しいわ」
彼らはその場で別れ、それぞれ聞き込みを開始した。しかし、マリーはすぐに、目撃者を見つけ出すことが、ほとんど不可能であることを知った。日暮れともなれば、大抵の人たちは夜盗や獣を恐れて村から出ようとはしないし、ペイルの屋敷は村から少々離れた場所にあったからだ。
「悪いな、お嬢さん。日が沈んだ後は、ずっと酒場にいたんだ。村の外どころか、ジョッキの外にだって大して注意を払って無かったからな」
マリーが捕まえた赤い鼻の男は、申し訳なさそうに言った。しかし、しょんぼりして立ち去ろうとするマリーを、彼は呼び止めた。
「そうそう、思い出した。男爵様の村のやつが飲んでるのを、見かけた気がするんだ。ありゃあ、アベルとカールとダリルだったかな。あんな時間に酒場にいたんなら、帰り道で何か見てるんじゃないか。なんと言っても、あいつらは村を出なきゃ家に帰れないだろ?」
マリーは礼を言うと、ハリーとドロシーを捕まえて、レイヴンの領地の村へ行こうと提案した。彼らから異論は出なかった。この村では、それ以上の手掛かりが得られそうにないことを、二人も知っていたのだ。
川を渡ると、そこには運良くアベルがいた。
「こんにちは、ドロシーさん。おいらのために、艀を運んでくれたんですか?」
「ええ、そうよ」
ドロシーはアベルの冗談にくすりと笑って見せてから、本題を切り出した。
「昨日の晩のことですか? 帰り道じゃ、誰とも会いませんでしたね。まあ、ひどい目には遭いましたけど」
アベルは渋面を作った。
「何があったの?」
「艀がこっちの岸にあったんで、ダリルと一緒に引っ張り寄せてたんです。ところがおいらは、そこそこ飲んで酔っ払ってたもんだから、足を滑らせて川に落っこちてしまいまして。おかげで、ダリルに引っ張り上げてもらった時には、すっかり酔いが覚めちまいました」
「カールさんは一緒じゃなかったんですか?」
マリーは聞いた。もちろん、今は大人の姿でだ。
「あいつは、おいらたちより先に帰りましたよ」
「時間はわかりますか。みんなで飲み始めて、帰るまでの?」
「飲み始めたのは酒場が開いてすぐですよ、お嬢さん。日没のちょっと前になりますかね。帰りは覚えてません。なんせ酔っ払ってたもんで」
アベルは眉間に皺を寄せて、しばらく考えた。
「思い出した。帰り道じゃありませんが、村の中で知った顔を一人、見掛けましたよ。ありゃあ、間違いなくビルです」
「いつ?」
「カールが帰って少し経ってからですかね。おいらは一度、しょうべ……」カールは女性たちの前であることを思い出し、言い直した。「ちょいと自然に呼ばれて、酒場の外へ出たんです。やつを見掛けたのは、その時でした。声を掛けようかと思ったんですが、それは野暮ってもんだろうと思い直してやめときました。だって、夜に自分ちでも酒場でも無いところを、うろついてるとなったら、大抵は女……」
「もう結構よ、アベル。とても助かったわ」
ドロシーが礼を言うと、アベルは愛想よく笑いながら艀に乗って、向こう岸へと渡って行った。
「時間なんて聞いてどうするんだ?」
ハリーが訝しげな顔で聞いてくる。
「ちょっと思いついたことがあるの。村へ行ってダリルさんを探しましょう」
村でダリルを捕まえたマリーは、アベルにしたのと同じ質問を彼に投げかけた。彼はアベルほど酔っ払ってなかったので、酒場でのことをよく覚えていた。
「給仕がテーブルの蝋燭を足しに来たのが一回で、カールはその時に帰りました。俺とアベルが帰ったのは、新しい蝋燭が燃え尽きた頃だから、二時間くらいは飲んでた計算になりますかね」
「ありがとう、ダリルさん。とっても助かったわ」
「お役に立ててよかったです」
ダリルは、にこりともせずに言って立ち去った。
「次はどうするんだ?」
マリーの考えを理解できないハリーは、少しいらいらしている様子だった。ドロシーも、マリーが無駄なことに時間を費やしているのではないかと、遠回しに不服を口にする。
「わたしもまだ、はっきりこうだとわかってるわけじゃないの。でも、どこにいるかもわからない犯人を追いかけるより、確実に領主様の無実を証明できると思うわ」
それで二人は、渋々ながらもマリーの考えに付き合うことを承知した。
次にマリーはカールを探し、彼を麦畑の側で見つけた。農夫は、無残になぎ倒され奇妙な模様を描く青い麦を、しょんぼりと眺めていた。
「こんにちは、カール」
ドロシーが声を掛けると、彼は思いもよらぬ行動に出た。背中を見せて走り出したのだ。マリーは抱いていたジローをドロシーの胸に押し付けると、全力で走って彼を追った。カールはさほど俊足と言うわけではなかったが、それでもスタートの差を埋めるのは、なかなかに骨が折れた。ようやく追い付くと、マリーはえいと声を上げて地面を蹴り、カールの腰に飛び付き彼を地面に押し倒した。
「大人しくして!」
じたばたともがくカールに馬乗りになって、マリーは言った。しかし、彼女はたちまち光に包まれ、子供の姿に戻ってしまった。時間切れだった。