白騎士の挑戦
外から突然、角笛の音が響いてきた。物々しい音にマリーは思わずぎょっとして身をすくめるが、他の子供たちは笑顔を閃かせた。
「白騎士様だ!」
誰かが叫んだ。それを合図に、子供たちは一斉に部屋を飛び出した。マリーとジローは顔を見合わせ、彼らの後を追いかけた。階段の上に立つと、玄関を出て行くレイヴンとドロシーの後姿が目に入った。その後を笑顔の子供たちが続く。
屋敷を出ると、そこには盾と槍を構えた、人の背丈ほどもある白いナイトのチェスの駒が、角笛を口に当てる白髪交じりの従者を伴って立っていた。どう言うわけか従者は、本がびっしり詰まった本棚を背負っている。
「ペイル伯爵」
レイヴンはお辞儀した。
「レイヴン男爵」
白のナイトも丁寧にお辞儀を返すが、彼は挨拶が終わるなり息巻いて言った。
「さあ試合を始めよう、男爵。今日こそ君に勝って、ドロシーさんを連れて帰るからな!」
「何度も言うが、伯爵」レイヴンはため息をついた。「君について行くかどうかは、ドロシーが決めることだ。我々の勝敗などではない」
「何度も言うが、男爵。そんなことはわかっている。ただ私は、尊敬すべき女性に偉大な勝利を捧げたいだけなのだ。四の五の言わず、私の挑戦を受けたまえ!」
ペイルは言うと、芝居がかった仕草でを高く盾を掲げて見せた。レイヴンは何も答えなかった。長い沈黙が続き、ペイルが不安そうに口を開いた。
「騎士の名誉が懸かってるのだぞ?」
しかし、レイヴンは首を振った。
「ならば」
ペイルは従者に目配せした。従者は背負っていた本棚を、地面にドスンと置いた。
「絵本や童話や教科書でいっぱいの本棚だ。君が勝てば進呈しよう」
「試合場へ行こう、伯爵。今日の私は、誰にも負ける気がしないのだ」
レイヴンは伯爵に背を向け、屋敷の裏手の方へ歩き出した。
「そう来なくちゃ!」
ペイルは嬉しそうにレイヴンを追いかけると、彼と鼻先を並べて歩き出した。彼らの従者は顔を見合わせ、苦笑を交わしてから主の後を追った。マリーは従者たちに駆け寄って、たった今行われたやり取りの説明を求めた。
「伯爵様は、ドロシーさんに求婚なさるおつもりなんですよ。お嬢さん」
ペイルの従者が答えた。驚いてドロシーを見れば、彼女は頬を染め、嬉しいのか迷惑なのかわからない表情を浮かべていた。
「ただし、ライバルである黒騎士様に勝ってからだと言い張って聞かないんです」
「ライバル?」
「ええ、そうですとも。伯爵様は白騎士、男爵様は黒騎士と対の異名をお持ちで、お二人とも武勲の数なら五分と五分。ところが伯爵様は、なぜか試合で黒騎士様に勝てたためしがありません。そりゃあ、黒騎士様の方がずっと年かさですからね。伯爵様より試合の機微に通じていらっしゃるんでしょうけど、それにしたって負けっぱなしと言うのも不憫な話です」
マリーは本棚についても聞いてみた。
「ああ、あれですか」ペイルの従者はニヤリと笑った。「黒騎士様は、しばしば他の騎士からの挑戦を断ってしまわれるんです。挑戦を断るのは本来、ひどく不名誉なことで臆病者のそしりを受けても仕方のないことなんですが、この国に黒騎士さまを臆病者呼ばわりできる人間なんていやしませんから、彼に挑戦を受けてもらうには一筋縄じゃ行かないんです。伯爵様も、これまで一〇〇回以上挑戦して、どうにか試合を受けてもらえたのは一二回。これじゃあ埒が明かないってことで私が一つ、伯爵様にアドバイスを差し上げました。黒騎士さまは養い子たちに、たいそうお優しい方ですから、子供たちが喜ぶような何かを持参して、それを試合に賭けてはどうかと。それを聞いて伯爵様は、ご自分の書斎から本棚を引っ張りだし、領内のあちこちから集めた子供向けの本を詰め込んで持参したってわけです。その効果たるや、てき面でしたね」
それでマリーも、ようやく顛末を飲み込めた。
「次は玩具を持って行くように進言してみましょう」
「それじゃあ、今からの試合は伯爵様が負けるって意味にならない?」
マリーが指摘すると、従者は笑って頭を掻いた。
「こいつはしまった。お嬢さん、伯爵様には内緒にしてくださいよ?」
マリーは頷き、太っ腹なところを見せた。
試合場は、真ん中に長い柵を設えた、細長い通路のような場所だった。盾と槍を構えた二人の騎士は、柵を挟んでその両端に立ち対峙している。
「白騎士さま、がんばってー!」
マリーに天使の事を聞いてきた少女が、熱心に声援を送った。マリーが、なぜ養父を応援しないのかと問えば、彼女は目を輝かせてこう答えた。
「だって、白騎士さまってハンサムだもの」
よくよく見てみると、年かさの女の子の多くがペイルの応援をしていた。ペイルは彼女たちの声援に、いちいち盾を振って応え、その度に女の子たちはきゃあきゃあと声を上げた。一方、レイヴンの味方は男の子や幼い女の子が主だった。
不意に、子供たちの声援がぴたりと止んだ。二人の騎士から熱気とも冷気ともとれぬ圧力が、観客たちの元へ風のように押し寄せてきたからだ。何の合図もなく二人の騎士は柵に沿って同時に走り出した。その速度は見る間に増し、とうとう疾走と呼ぶほどになった。騎士たちは槍を水平に構え、ぐいと身体を前傾する。そして彼らが丁度、柵の真ん中に到達すると、雷鳴のような音が響き、二本の槍は粉々に砕け、空中に木片をまき散らした。騎士たちは次第に歩を緩め、柵の端でピタリと止まり、ペイルはどうとその場に倒れ込んだ。年かさの少女たちが「ああっ」と嘆息し、養父を応援していた子供たちは歓声を上げた。すぐにペイルの従者が主に駆け寄り、彼が起き上がるのに手を貸した。
「伯爵。なんだって君は私の全力の槍を受けて、平気で起き上がってくるんだ。私のささやかな自尊心が、それで傷付けられていることに、そろそろ気付いてほしいものだな」
レイヴンは敗者に歩み寄って言った。
「その言葉、そっくりそのままお返ししよう。そして、本と本棚は君のものだ」
「ありがたく頂戴しよう。ところで、うちの食糧庫に長らく置きっぱなしになっていたワインが一本あるのだが、飲めるかどうか試す勇気は残っているかね?」
「受けて立とうじゃないか。たとえ酢になっていたとしても、私は立派に酔っ払って見せるぞ」
「頼もしいな。ぜひ食堂に来てくれ、伯爵」
レイヴンがペイルに肩を貸し、二人は笑いながら歩き出した。それを取り囲むように子供たちがついて行き、口々に騎士たちの戦いぶりをほめそやす。
「困った人」主の背中を見つめながら、ドロシーがため息を漏らした。「伯爵様を、おもてなしできるようなものなんて、うちにはないのに」
「心配いりませんよ、ドロシーさん」ペイルの従者が言った。「実は表に荷馬車が停めてあって、中にはたくさんの料理や飲み物が積んであるんです。前に試合の後でやっぱり宴会になって、みなさんの一週間ぶんの食料を食べつくしてしまったことがあったでしょう? 伯爵様は、その事をずっと気に病んでいて、今日は自分で用意してきたってわけです」
「ありがとう、エドさん。本当に助かります」
ドロシーはペイルの背中に視線を向けた。
「伯爵様に、私が喜んでいたと伝えてくれますか?」
「もちろんです。ちょっとばかり大げさに言うつもりですけど、構いませんよね?」
エドは片目を閉じて言った。ドロシーは笑いながら、お願いしますと答えた。
「私は本棚を子供部屋に運び込んでおきますんで、積み荷の方を頼みます」
エドも去り、ドロシーとマリーが試合場に取り残された。少しの沈黙を置いてから、ドロシーが口を開いた。
「村の人たちが見た女の子は、ウサギなんて連れていなかったそうよ。それに女の子が、ぴかぴかに磨いた鍋に映っているのを見た人がいるの。あなたが鏡に映らないのなら、その子があなたであるはずがないわ」
そして彼女はマリーに頭を下げた。
「マリーちゃん、疑ってごめんなさい」
マリーは戸惑った。大人から、あらぬ疑いを掛けられるのはよくあることだが、濡れ衣だと判明しても、こんな風に真剣に謝罪されたことなど、今まで無かったからだ。
「お前、天秤みたいなやつだな」
不意にジローが言った。ドロシーは驚いたように彼を見た。ウサギが口を利いたのだから当然だった。
「公平なのは感心するけど、秤の目盛ばっかり気にしてると疲れるぞ。他人のはともかく、自分のヘマは大目に見ろよ。俺はそうしてる」
「覚えておくわ」
子兎の助言に、ドロシーは神妙に頷いた。
それから間もなく食堂では宴会が始まり、マリーは子供たちが白騎士の来訪を喜んだ理由を、ようやく理解した。試合の度に必ずお祭り騒ぎがあるとしたら、その先触れである彼を歓迎しないはずがない。
驚いたことに、食堂にはジローの席も用意されていた。それをやった犯人は、マリーのお話を聞いて以来、すっかりジローに心酔してしまった例の男の子だった。期待に満ちた彼の視線を受けて、ジローは普通の子兎のふりをあきらめ、お行儀よく椅子に腰掛けた。隣の席には、当然のように男の子が着いた。
テーブルの上には、たくさんの料理が並んでいた。お菓子もたっぷりあったし、いい匂いがする蜜蝋の蝋燭まで灯っている。使用人を雇う余裕のないレイヴンの屋敷では、子供たちが協力して家事を行っているから、これらの準備も彼らが手ずから行ったはずなのだが、ご馳走を前にした子供たちは、まるでそれらが突然現れでもしたかのように、目を丸くしている。
まず、レイヴンが気前のいい伯爵に礼を述べ、子供たちもそれに倣ってありがとうを唱和した。ペイルは立ち上がり、彼らの礼に応じてから、次回の宴が必ずや自分の勝利を祝う物になると約束して、男の子たちの野次と女の子たちの声援をたっぷり浴びながら、ワインのグラスを高々と掲げた。それを合図に、みなは食事に取り掛かった。
料理もお菓子も、驚くほど美味しかった。しかしマリーは、それよりもペイルが持ってきた本が気になって仕方なかった。彼女は話すのと同じくらい、お話を読むのが大好きだったからだ。食事もそこそこに席を立ち、レイヴンに本を見てきていいかと問えば、彼はもちろん構わないと答えた。
「勉強熱心だな」
ペイルが感心した。
「勉強は嫌いです、伯爵様」
マリーは正直に言った。
「本を読むのと勉強は、同じことじゃないのか?」
「もちろん勉強のための本もありますけど、私が好きなのはお話の本なんです。お話をたくさん知っていると、それだけみんなに、たくさんのお話を話してあげられるから。それに――」
「それに?」
「お話を読んだり聞いたり話したりしていると、お話の中の人たちが一緒にいてくれてるような気がして、とても楽しいんです。ひとりぼっちで寂しい時でも」
「なるほど」
ペイルは頷き、ふと遠くを見るような目つきをした。
「私は幼いころに父を亡くして、早々に家を継ぐことになってな。子供なのに、大人として振る舞うことを周りから求められ、ひどく寂しい思いをした覚えがあるのだ。君のように本の楽しみ方を知っていれば、寂しさも少しは紛れていたのかも知れん。惜しいことをしたものだ」
「惜しいことなんてありません、伯爵様。大人だって、寂しくなるときはあるでしょう?」
「それもそうだ」ペイルは笑って、レイヴンに目を向けた。「賢い娘じゃないか。君は戦ばかりでなく、子育てにも長けているようだな?」
「いや」レイヴンはきまりが悪そうに言った。「彼女は客人で、私の娘ではないのだ。少々、込み入った話だから追々話そう」
「もう行ってもいいですか?」
マリーは大人たちに聞いた。
「ああ、構わんよ。引き留めて悪かったな」
ペイルが言った。
マリーはお辞儀をして、二人の騎士の前を辞した。
食堂を出ると、ジローがひょこひょこと後から付いてきた。食事はいいのかと問えば、彼は鼻をひくひくさせて頷いた。
「もう、じゅうぶん食べたし、人間の子供にちやほやされるのも、そろそろ飽きてきた」
マリーはジローを抱き上げ、階段を昇り誰もいない子供部屋に入った。ペイルの本棚は、元からあった隙間の多い本棚の隣に据え置かれていた。マリーはどれから読もうかと、わくわくしながら背表紙を眺めるが、すぐにがっかりした。本の並びが、めちゃくちゃだったのだ。仕方なく彼女は、本の並べ替えに取り掛かるが、それは思った以上に重労働で、しかも時間が掛かった。一番上の棚に探している巻があったりすると、背が届かないので踏み台の椅子に昇って降りてを繰り返さなくてはならない。
本棚の前で腕組みをして考え、ふと名案を思い付いた。マリーはきょろきょろと辺りを見回し、勉強机の上に目的の物を発見した。それは小さな置き鏡だった。懐中時計を取り出し大人に変身すると、彼女は一番上の棚から全部の本を引っ張り出し、床へ下ろした。後はここから必要な巻を探し出し、他の棚に並べるだけだ。空っぽになった一番上の棚を見て、彼女はにんまりほくそ笑んだ。その時、手のひらほどの小さな冊子が棚の奥にあるのを見つけ、彼女はそれを手に取った。表紙にはタイトルが無く、訝しく思いながら開いてみると、中身はペイルの日記だった。日々の出来事の他に、ドロシーへの愛を詠う詩がびっしりと書かれていたので、マリーは思わず表紙をぱたんと閉じた。
「どうした?」
足下で絵本を読みふけっていたジローが顔を上げて言った。
「伯爵様の日記帳を見付けちゃったの」
「面白そうだな。読んでくれよ」
「そんなこと、出来るわけないでしょ!」
ともかく、これは持ち主に返すべきだ。マリーは子供の姿に戻り、急いで食堂へ取って返すが、ペイルはとっくに帰ってしまっていた。ふと窓の外を見ればすでに夕暮れ。本の整理に思いのほか時間を取られたようだ。レイヴンに事情を話すと、彼は日記帳を受け取り席を立った。
「走れば途中で捕まえられるかも知れん。ドロシー、準備を頼む」
「はい、領主様」
ドロシーは食堂を飛び出して行った。
レイヴンはマリーに目を向けた。
「君は、これからどうするつもりかね?」
「影を追いかけます」
「それは上手い方法ではないな。村人はまだ君が無実だと言うことを知らないから、下手にうろつけばまた騒ぎになるだろう。それに、じき日も暮れる。今夜は泊って行きなさい」
マリーは頷いた。
「明日の朝にでも私の名前で村にふれを出し、君には無実を証明する手形を作って渡すとしよう」
ドロシーが戻ってきて、主に出立の準備が整ったことを告げた。レイヴンは「夜には戻る」と彼女に告げ、慌ただしく食堂を出て行った。
しかし、約束の夜になってもレイヴンは帰ってこなかった。マリーはドロシーに、他の子供たちと一緒にベッドへ押し込められたが、気になって朝早くに目を覚ましてしまった。寝室にいる他の子供たちは、まだぐっすりと寝ていたし、窓の外を見ればようやく月が沈もうとしている。夜着から着替えてまだ寝息を立てているジローを抱き上げると、彼はぶつぶつ文句を言った。階段を降りると、玄関ホールで不安げに立ち尽くすドロシーに出くわした。聞けば、レイヴンはまだ戻っていないと言う。
「野党にでも襲われたか?」
不吉なことを言うジローに、ドロシーはきっぱりと首を振って見せた。
「領主様が野盗ごときに後れをとるなんて、ありえないわ」
マリーも、それには同感だった。昨日の試合の様子を見れば、襲ってきた野盗など跡形もなく粉砕されてしまいそうである。しかし、それならレイヴンはどうして戻ってこないのか。探しに行こうと言うマリーの提案に、ドロシーは頷いた。
「もうちょっと明るくなったら、そうしてみましょう。他の子たちにも事情を話して手伝ってもらわなきゃ。でも、マリーちゃんはお留守番よ。村の人たちは、まだあなたがイタズラの犯人だと思ってるから、出歩くと危ないわ」
マリーは鏡を貸してくれるようドロシーに頼み込んだ。ドロシーは訝しがりながら、ポケットから手鏡を取り出した。マリーはジローを足元に置いて手鏡を受け取ると、それを覗き込みながら懐中時計の蓋をぱちんと開け、大人に変身して見せた。
「驚いた」ドロシーは目を丸くして言った。「でも、人前で裸になるなんて、はしたないわ」
マリーは唇を尖らせた。変身の途中で裸になるのは、どうにかならないものだろうか。
「こいつの特技のことなら、あんたも聞いただろ?」
ジローが指摘した。
「そうだけど、見るのと聞くのとでは大違いよ」
ドロシーはマリーを頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと眺めた。
「これなら、誰も子供のマリーちゃんだとは思わないわね」
「でも、あまり長い時間は変身してられないの。この手鏡、借りて行ってもいい? 途中で、変身しなおすことになるかも知れないから」
「もちろんよ。でも、こうなると留守番は私がした方がいいわね。領主様が戻ってきたら、あなたに知らせを送れるようにしておかないと」
二人が探索計画を立てていると、玄関の扉がノックされた。ドロシーが扉を開けると、そこに立っていたのは天使のハリーだった。