ミカエルの聖堂
扉を抜けて、マリーの目に飛び込んで来たのは、甲冑を纏う天使の像を描いた大きなステンドグラスだった。天使は右手に炎の剣、左手に秤を持ち、足には竜を踏み付け、その長い首に燃える剣を、今にも振り下ろさんとしていた。
大抵の人たちは、これを見て、勇ましさや力強さと言うものを感じるだろう。しかしマリーは、どれほど勇ましい恰好をしていても、この天使が武勇をひけらかしているようには、どうしても思えなかった。だから彼女は、陽光を透かして輝くその姿を見て「きれい」と、一言呟いた。もっとも、それはステンドグラスが美しいと言う意味ではなく、洗い立ての靴下や、磨いてピカピカにしたお皿を指す「きれい」だった。描かれた天使には、そんな清浄さがあった。
「ミカエル様だ」
ハリーがそわそわしながら言った。彼は真珠のように真っ白な髪と、ラズベリーのような真紅の瞳と、純白の小さな羽根を持つ天使だった。見た目はマリーより二、三歳ほど年かさの美少年に見えるが、実際のところはわからない。天使の年齢など誰が知り得よう。
「お前とは大違いだな、へぼ天使」
マリーの腕に抱かれた包帯だらけの子兎が、喉の奥でくっくと笑った。
「ミカエル様が特別なんだよ」
ハリーは苦々しい面持ちで言った。彼はここへ来たときから、どうにも落ち着きがない。
「ここは教会よ。どうして天使のあなたがビクビクしてるの?」
マリーは率直に聞いた。彼女が言うように、ここは教会の聖堂だった。こじんまりとしていて、主祭壇の背後を飾るミカエルの姿を描いたステンドグラスを除けば、きらびやかな物はなく、全体的に質素な雰囲気だ。
「魔物の俺が平気なのに、妙だよな?」
子兎が言った。
「ジロー坊ちゃま、魔物だったの?」
マリーが聞き返すと、子兎はフンと鼻を鳴らした。
「今まで何だと思ってたんだ?」
「白ウサギの子供でしょ?」
当然じゃない、とマリーは言った。
「化け物に変身する子兎が、どこの世界にいる」
ジローは今の見た目こそ子兎だが、実は鱗とトゲに覆われた恐ろしい怪物に姿を変えることもできるのだ。その醜悪さは、このステンドグラスに描かれているドラゴンにも引けをとらない。
「でも、私も変身できるわ」
マリーが言うと、ジローはため息を吐いた。
「お前の変身とは、ちょっと種類が違うんだ」
ジローはハリーに目を向けた。
「それより、へぼ天使。お前は何を怖がってるんだ?」
「俺が怖がってる?」ハリーは憤慨した。「違うね、ビビリまくってるんだよ。入社一年目の平社員が、部長のオフィスに呼び出されたようなもんなんだぞ。普通でいられるわけないだろ!」
マリーはぜんぜんわからないと正直に言った。
「とにかく、落ち着かないから俺は外で待ってる。じゃあな」
先ほど通ったドアを開けて、ハリーはそそくさと出て行った。扉の隙間から、緑でいっぱいの田園の風景がちらりと見えた。
「俺たちはどうする?」
ジローが聞いた。マリーがどうしようかと考えていると、背後の扉が乱暴に開け放たれた。ハリーが戻って来たのかと思い振り返れば、そこには一人の農夫がいやらしいニヤニヤ笑いを浮かべて立っている。
「見つけたぞ、イタズラ娘。アベル、カール、ダリル、こっちだ!」
農夫が外に向かって呼ばわると、すぐに三人の農夫が駆け込んできた。
「まさか、本当にいるとはな」
後からやって来た三人のうち、一人が言った。
「教会に隠れましょうなんて、わざとらしく言いながら逃げるから、どうせ嘘だろうと思ってたが……まったく、図太い娘っこだ」
「だから言ったろう、カール。裏の裏を読むんだよ」
最初の農夫が言った。
「お前の言う通りだ、ビル」カールは頷いてから、マリーをじろりと睨んだ。「よくもやってくれたな。お前のイタズラのせいで、村はめちゃくちゃだ」
「私、イタズラなんてしてないわ。ここには、ついさっき来たばかりだもの」
「嘘をつくんじゃねえ!」
ビルに大声で怒鳴られ、マリーは思わず首をすくめた。
「俺は見たんだからな。カールの畑の小麦を踏み倒して、おかしな模様を作ってただろう」
「うちは牛の横っ腹に、大穴が空いたように見えるラクガキをされたんだ。おかげで、それを見たおいらの女房は卒倒して寝込んじまった」
「俺んところは、婆さんがオーブンに閉じ込められた。火を入れる前だったから大した怪我は無かったけど、助け出した時はひどく怯えてたよ」
農夫たちは口々に受けた被害を並べ立てるが、どれもマリーには身に覚えがない。しかし、心当たりはあった。それは間違いなく、彼女の影の仕業だった。もっとも、それを話したところで彼らが信じてくれるとは思えない。四人とも、マリーのイタズラだとすっかり思い込んでしまっている。
「どうする。縛りあげて納屋にでも吊るしておくか?」
カールが提案した。
「いいや、それじゃあ生ぬるい。どうせなら、裸にひんむいて豚小屋に放り込んでやろうじゃないか。それも鞭で引っ叩いて、足腰立たなくしてからな」
ビルが下卑た笑いを浮かべて言った。
ジローが腕の中で身じろぎしたので、マリーは小声で「だめよ」とたしなめた。こんなところで変身されては大騒ぎになってしまう。しかし、このままでは影の代わりに、ひどいお仕置きを受けるのは明らかだ。どうしたものかと途方に暮れていると、声がした。
「ちょっといい?」
教会の入り口に女の人が立っていた。年の頃は、大人になったマリーと同じくらいに見えるが、彼女はスカートではなくズボンを穿いている。青を基調とした男物の服の上からマントをを羽織り、騎士のような恰好をしていた。
「こりゃあ、ドロシーさん。おはようございます」
明らかに年下の彼女に対して、農夫たちは意外にも帽子を取り敬意を表した。
「ごめんなさい、話は聞かせてもらったわ。この件、私に預けてくれるかしら?」
農夫たちは顔を見合わせた。
「みんなが腹を立てるのはわかるわ。どれも本当に、ひどいイタズラだもの」
ドロシーが同情するように言うと。農夫たちは熱心に頷いた。
「でも、彼女が違うと言うからには、本当に間違いがないか調べなきゃいけないの」
「いやいや、こんな悪ガキのために、ドロシーさんの手を煩わすワケにはいきません。こいつがやったのは、俺らがこの目でちゃんと見てるんです。やってないなんて嘘に決まってます」
ビルが異を唱えた。
「まあ。そんなこと私もわかってるわ」
ドロシーは大げさに驚いて見せた。
「私は彼女がその嘘を、領主様の前でも言い張れるのか見てみたいの。イタズラの罰に加えて、嘘の罰まで受ける覚悟が、あるのかどうかね。それとも、今ここで彼女から嘘を取り上げて、代わりに罰から逃れるチャンスを与えようって言うの? 確かにそれは神の家にふさわしい、とても慈悲深い行いだと思うけど、罪は正しい機会に正しい場所で裁かれるべきじゃないかしら。そして、彼女にふさわしい罰が与えられますように」
ドロシーは祭壇に向かって頭を垂れた。農夫たちもそれに倣い、「同意します」と唱和したので、マリーの身柄はドロシーに預けらることになった。裸で豚小屋に放り込まれるところを救われたマリーは、彼女に「ありがとう」と言った。しかし、ドロシーは冷たい眼差しをマリーに向けた。
「勘違いしないで。領主さまのお考え次第では彼らが言った以上の罰が、あなたに下されることもあるの。せいぜい自分の罪を思い返して反省しておきなさい。そうすれば、どんな罰を受けても当然と思えるでしょうから」
マリーたちが連れてこられたのは、教会からやや離れた場所に建つ古ぼけた屋敷だった。玄関ホールはラビーノ伯爵の舘の半分ほどの広さもなく、調度品はおろか絨毯すら無い。
「ドロシーお姉ちゃんだ!」
二階から声が聞こえるので見上げれば、年齢も性別もばらばらな子供たちが数人、欄干の隙間からこちらを覗いていた。兄弟姉妹と言うわけではなさそうだし、領主の子供と言うには身なりもみすぼらしい。
「その子は誰?」
「ばーか、新しい兄弟に決まってるだろ」
「お名前は?」
聞かれたので「マリーよ」と答えた。
「あなたたち、勉強はどうしたの?」
ドロシーが眉を吊り上げて言うと、子供たちはわっと叫んで逃げ出した。マリーがもの問いたげにドロシーを見上げると、彼女は苦笑を返して言った。
「みんな孤児なの。私も含めてね。領主様が引き取って育ててくれてる」
「優しい領主様なのね」
子供たちは身なりこそみすぼらしいが、誰ひとり不潔ではなかった。裕福に見えても、ラビーノ伯爵の子供たちがゴミ溜めのような部屋に押し込められていたことを思えば、彼らがたっぷりの愛情を受けて育てられていることは、マリーにもわかった。
「優しくても厳しい方よ。子供だからって、大目に見て貰えるとは思わないで」
ドロシーは釘を刺した。
マリーは応接間の硬いソファーの上に座って、裁きの時を待っていた。腕の中のジローを除けば、部屋には他に誰もいない。応接間の扉が開いた。現れたのは人の背丈ほどもある黒いナイトのチェスの駒だった。その後にドロシーが続き、扉をバタンと閉めた。マリーはソファーから立ち上がって、彼らを迎えた。
「この子か、ドロシー?」
ナイトが言った。
「はい、領主様」
ドロシーが答えると、ナイトはマリーの真正面に立って言った。
「私はレイヴン、この地方を預かる男爵だ。そこに控えている娘はドロシー。私の娘で従者を務めてくれている」
マリーはスカートをつまんでお辞儀した。
「お目にかかれて光栄です、領主様。私、マリーです」
レイヴンはマリーを見て、「ふむ」と呟いた。
「ドロシーから、君がひどいイタズラをしたと聞いた。何か弁解はあるかね?」
マリーは素直に影のことを話した。
「鏡から逃げ出した、君の影の仕業だと言うのか」
「そんな馬鹿な言い訳が通用すると思ってるの?」
ドロシーが厳しい声で言うと、レイヴンは無言で彼女を制した。ドロシーは恐縮し、頭を下げ控えた。
「もちろん、私を納得させられる証拠があるんだろうね?」
マリーは陽光の差し込む窓の前に移動した。
「私の影が見えますか?」
ドロシーがはっと息を飲んだ。レイヴンは「なるほど」と短く呟いた。
「鏡を貸していただければ、私がそこに映らないことも、お見せできます」
「いや、それには及ばないよ。私も鏡の像と足下の影が、同じものだと言うことくらい知っているからね。しかし、抜け殻の君はなぜ動き回れる?」
マリーは影の代わりに大人の自分が入っていることと、不思議な懐中時計で、その姿に変身できることも話した。
「変身して見せますか?」
マリーが言うと、レイヴンは首を振った。
「今は結構だ。他に、申し開きはあるかね?」
「私はずっとジロー坊ちゃまと一緒にいました。イタズラをした私が、包帯だらけの子兎を連れていたかどうか、村のみんなに聞いてみてください」
レイヴンはドロシーに目を向けた。ドロシーは頷き、応接間を出て行った。彼女の足音が遠のいてから、レイヴンは口を開いた。
「もちろん、君がイタズラを働いている間、そのウサギを隠していた可能性もあるわけだが、私はそこまで疑う必要は無いと考えている。しかし、ドロシーが裏付けを取ってくるまでは、この屋敷で大人しくしている方がいいだろう。そうすれば君の分身がもっとイタズラを働いて、君に濡れ衣を着せようとしても、君が無実であることを私が証明できる」
「ありがとうございます、領主様」
「私は隣の書斎にいる。君は――そうだな、二階にいる子供たちと遊んでくるといい。少ないが、玩具や本もあるから、退屈はしないだろう」
子供部屋にやって来たマリーとジローは、たちまち年少の子供たちに囲まれ、彼らの遊び相手を担うことになった。年長の子供たちはドロシーの言い付けを守って机に向かっているが、やはり新入りが気になるらしく、時折振り向いてはちらちらと床に座り込んで遊ぶマリーたちを見てくる。
「ねえ、マリーお姉ちゃん。ウサギさん、どうして怪我してるの?」
「私を守ってドラゴンと戦ったからよ」
「勝ったの?」
「そうじゃなきゃ、私たちはここにいないでしょ?」
「え-。ウサギがドラゴンに勝てるワケないだろ?」
同じ年頃の男の子に笑われたので、マリーは自分の冒険を話すことにした。大抵の子供がそうであるように、彼らもお話が大好きで、気が付けば年長の子供たちも、勉強を放り出して彼女の冒険譚に聞き入っていた。そしてマリーが全てを話し終わると、子供たちはわっと歓声を上げ、盛大な拍手を彼女に送った。
「ジロー坊ちゃま、すげぇ!」
ドラゴンに勝てるわけないと言った少年が、ジローに賞賛の眼差しを注いで言った。ジローは鼻をひくつかせたが、何も言わなかった。
「天使はどこへ行ったの?」
マリーより年かさの少女が聞いた。ハリーが教会から逃げ出した事を話すと、彼女はあからさまにがっかりした。
「会いたかったなあ」
「でも彼はエッチな事しか考えてないのよ?」
「ハンサムなら、そんなの欠点にもならないわ」
マリーには、よくわからない理屈だった。
(10/14)誤字修正。Veilchen様、ご指摘ありがとうございました