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01.


 その少女は常人では考えられないほどに白かった。真っ白い少女が、目だけが深淵の黒をした少女はしっかと似狐のことを見つめる。彼女は呆然とする似狐に向かってにっこりと笑いながら口を開いた。

「お兄さんが殺したんですか?」

 その問いかけに似狐は答えることが出来ない。見られた、という絶望的な感情。自分が誰かを殺しているというところを見られたという苦しいほどの絶望感に満ち溢れた感情と、そしてそれと相反する謎の救済感に包まれている。それはどこか神様を目前にした人間の感情に似ていた。自分の罪を暴かれるという感情。そして、それと同時に救われる、という救済のための感情。

 その相反する感情に包まれて似狐は呆然とナイフを握りしめたまま彼女を見つめることしかできない。彼女は何も言わないし、彼を見て叫びだすこともない。似狐よりも頭ふたつ分程度低いその少女はただ落ち着き払って微笑んでいた。

「お兄さんが殺したんですか?」

 少女はもう一度問いかける。彼女には何かを詰問するという意思もないようで、楽しそうに笑っていた。彼女は真っ白いサンダルを履いている。血濡れになって赤くなった世界に、彼女は躊躇なくその新雪を塗り固めたようなサンダルと足で血の中に踏み出した。彼女の足がずぷり、と血の海を踏みしめる。靴底までが白い、何処かを歩いてきたとは思えない足を初めてその赤が濡らした。

 彼女の爪の先は何かの色に彩られているということもない。彼女の足は透明なほどの白さだ。無邪気に歩いてきたその透明な白を血の色が鮮やかに彩る。白と赤。世界で一番美しく残酷で、どうしようもなく危険な色を彼女は身に纏っていく。その色合いに、似狐は状況も忘れてほぅ、と低い溜息を吐き出してしまった。

「お兄さん」

 少女はまた呼びかける。

 あまりおいしくない煙草の煙の味も、殺人の昂揚感の甘さも忘れるような苦しすぎる陶酔を訪れさせる声だった。まさに、鈴の鳴るような声。月並みな形容詞だが、もし似狐が詩人であったとしても彼女の声を形容しきることは不可能であっただろう。彼女は本当に美しく、柔らかく、輝くような声をしていた。

 似狐は立ち尽くしていた。

 彼を現実に戻したのは、自身が持っていたナイフを取り落す音だった。かたん、ともかちゃん、ともなんともつかない甲高い金属音が彼に夢のような時間の終わりを告げる。

「…あ、アンタ、何なん?」

「私はドールというものです」

「…ドール?」

 似狐は即座に人形を想像した。あまりに麗しい少女にはその人形じみたところというのも納得できるほどの柔らかさがあったのだ。確かに人間らしい質感がある。皮膚もきっと触れたら子供特有のあの暖かさがあるだろう。表情も、正しくころころと変わる。しかし、この血まみれの現場に乗り込んできて笑っているようなところは間違いなく可笑しい。

 間違ったプログラムを施されたドールのようなのだ。あの表情といい、近寄りがたいほどの愛しさすら覚えるほどの柔らかそうな質感のする肌。そのような人形じみた彼女の色合いはあまりにも愛しさを掻き立てられるものだった。愛されるために生まれたもの。作られたもの。人形。ドール。

 ドールは似狐が繰り返す自分の名前にこくんと薄くうなずいた。

「あなたに頼みがあります」

「は、はぁ…?」

「私は怖い両親に殺されそうなのです。なので、貴方がもしこの人を殺したのなら」

 ドールが足を振り上げた。

 そしてそのまま、足元に転がる死体の頭に足を振り下ろす。ぐじゃりと音がして頭蓋骨が割れた。人間の頭蓋骨はそんなに脆かっただろうか、なんてことを考える余裕は似狐にはない。彼女の美しい足首が、脳漿や血液に塗れる。汚されている。そんなことを思った。

 彼女は先ほどの笑みを消して無表情に言い放つ。

「この人のように、私の両親を殺してください」

「…何言うてるんですか」

 似狐は呆れたように溜息を吐き出した。場の空気に飲まれないように慎重に、息を吐き出す。簡単なことだ。目の前の女を殺せばいい。彼はずっと人を殺してきたのだから、目の前の少女をひとり屠ることなど簡単だろう。

 しかし、似狐にはそんなことが出来なかった。

 今週はもう二人も殺してしまっているから、と自分をごまかしながらも似狐は彼女を、ドールを殺すことはできなかった。ドールを殺そう、という意思を持つことが出来ない。上手く彼女のことを殺すことが出来ないのだ。地面に落としたナイフを拾うことすらままならない。

 体を自分の意思で動かすことが出来ないような錯覚に陥る似狐は、それでも必死で言葉を絞り出した。

「そんな、人殺しなんて怖いこと僕には到底できません」

「へえ、そうですか」

 ドールがいつの間にか取り出した携帯電話を似狐の前に掲げた。そこにははっきりと、嬉々とした表情で相手の首を掻き切る似狐の姿がおさめられていた。それはつい30分ほど前の光景だ。鮮明に映った自分の顔と、それを嬉しそうに見せびらかす少女。

「これを警察に公表しても構いませんか?」

「っ…」

「構わないならいいですけど…」

 ドールが残念そうに眼を細める。蠱惑的な瞳はあまりにも理不尽な色気を持っていた。

 むせ返るような血の香り。そして、鮮血の中にたたずみ、片足を血と脳漿に塗れさせながらもそれでも美しく妖艶に笑った。

 似狐は、彼女の瞳が怖かった。何を思っているのかわからない猫の瞳。否それは、狼なのかもしれない。狼のような、捕食者の瞳をしていた。その黒い瞳はずっと暗い深淵を覗き込んだ色合いをしている。

 似狐は、その瞳が怖かった。

「……そんなん、ただの脅しやんか…」

「そうよ。ただし殺してくれたらそれなりに報酬は払います」

「報酬?そんな子供に」

「払いますよ、ええ。お金ではないかもしれませんが」

 にい、と笑うドール。そして、ドールはワンピースのポケットからハンカチを取り出した。彼女に似合いの白のハンカチ。純白の少女に似合うそれに、似狐は今脅されていることも何もかもを忘れて見とれてしまった。

「…わかった。協力するわ」

「ついでに…私、両親に怖い目にあわされているから、貴方の家にかくまってくださいね?」

「…わかったわ」

 なぜだか似狐は彼女に逆らうことができなかった。彼女の甘い声や、瞳の動き。そっと伸びてきて自分の頬についた血液を拭ってくれるその指先の柔らかさに、ただただ虜にされてしまったのだ。

「…はよ帰らんと誰に見つかるかわからん。帰ろ」

「はい」

 少女は嬉しそうに似狐の手をとった。いつの間に拾ったのか、彼女の手には似狐の無骨なナイフが握られている。そのアンバランスさですらどこか愛しい。

 似狐の手を握るドールの指先には確かな体温が宿っていた。あまい、体温。それをしっくりと味わいながら、人間とこれほどまでに密着して歩くのはいつだったろうかということを想起させる。あまい感覚。緩やかに指先を握り返せば、自分を見るドールはあまりにも細やかな笑顔を浮かべていた。

「…しゃあないなぁ」

 口のなかでつぶやく。

 終わっていく夏の日のなかで、似狐という殺人鬼は、ドールと名乗る少女に出会った。

 それを祝福するような夕日はただぼんやりと、落ちていくだけだった。


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