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怖そうな話

怖そうな話 ~祖母が残したお守り~

作者: 歌多琴

 17歳の誕生日を迎えた二日の後、私は祖母の墓参りに来ていた。

 今日は祖母の命日である。

 私は一人、物寂しい緩やかな坂を登っていた。目に入る風景といえば、同じように加工された石ばかり。それが整列した景観というのはどこか不気味で、進むにつれ脚の重みが増している気さえする。


 こんなことなら、もっと歩きやすい格好で来るんだった。


 誰に見せるでもないのに、水色のワンピースを主体にした私の服装は少々間抜けであったかもしれない。


 いやいや。17歳になったばかりの私の姿をおばあちゃんに見せるんだ。


 そんな風に自分を言い聞かせていると、携帯電話から引っ張ったイヤホンの音が、妙に素っ気ない音になっているのに気がついた。たまらず私はイヤホンを外す。


 私の家のお墓はもうすぐそこ。


 ぼんやりと眺めた坂の先にふと目的地が入り込んだ。他の物となんら変わらない鈍色の直方体がそこにある。


 早く終わらして帰ろ。


 私はそんなことを思い、坂の入口で借りたバケツや箒といった掃除道具を一度地面に置き、持っていた手提げのバックに手を突っ込んだ。携帯電話の音楽を止めるためだ。

 イヤホンを引っ張って携帯電話を釣り上げる。嫌々するように現れたそれを掴むと、ある物が引っかかり、携帯電話と一緒に私の視界に入った。


 お守りである。


 それは死んだ祖母が私に残したお守りらしい。そう、母から聞いている。

 私が祖母と暮らした時間というのは、たった二日しかなく、もちろん私は祖母の顔なんて覚えていない。写真では見たことがあるけれど、そこら辺にいるおばさんと何も変わらないと思う。と言えば、随分冷たい言い方だろうか。

 何気なく私はお守りを取り出し握ると、また掃除道具を片手に坂道を登った。

 お守りは、どこにでもあるようなお守りだ。ただ他より味のある色をしている。

 これはどこか有名な神社で買ったお守りらしい。くすんだ紅色の布に縫いこんである文字を見ると、確かに誰でも聞いたことあるような名前をしている。


 一度気になって調べたことあるが、場所は本州の端っこの辺りだったと思う。詳しくは覚えていない。ただ私の住む地域からはえらく遠かったとだけ覚えている。

 そしてその裏には『安産祈願』と書かれてあった。


「…………」


 それを見るたびに私はいつも思うのだ。

 どうして祖母は『安産祈願』のお守りを私に残したのだろうか。今の私に渡すならわからなくもないが、生まれたばかりの赤ん坊に残すお守りとしては、少々異質だと思う。

 だから私はそのことを母に何度か尋ねたことがある。

 そのたびに母はなんだか渋そうな表情になるのだ。そしてすぅとその顔を別のもので上書きし、話してくれる。



     *****



 私はひどい難産だったらしい。

 難産の理由は教えてもらえなかった。ただこのままでは胎児が死んでしまう可能性が大きかったそうだ。

 それで急ぎ、祖母がその有名な神社でお守りを買ってきたそうだ。そして母に握らせた結果、最終的には母子ともに健康な状態で出産を終えることができたらしい。

 何かに祈るなりすることも馬鹿にしてはいけないのだろう。

 私が何気なく今地上を歩けているのは、祖母のおかげなのかもしれない。


 だというのに、だらだらと坂を登るお前は罰当たりだ。そう言われればぐうの音も出ない。

 しかし覚えていない祖母に感謝しろ、と言われても、できるのは薄っぺらいものだけなのは理解して欲しいのだ。だから私は「ふーん。ありがとね、おばあちゃん」そのくらいにか感謝できないし、それでいいと思っている。


 そこでようやく登りが終わった。

 私はまだまだ続く坂道にそっぽを向いて、墓石がずらと並ぶ脇道に逸れる。


 数えて五つ目が、私の家のお墓。


 墓の目の前に立つと、思ったより綺麗だった。砂埃が薄く膜をはっているが、周りの同じ物と比べるとそう思う。

 私はふぅと溜息を隠したような息を吐き出し、掃除に取りかかった。



     *****



 掃除には小一時間かかった。

 手箒で墓全体を掃き、その後バケツに水を汲んできて、水をかける。無駄に太陽の熱を吸収していたみたいで、それは単なる無機物でしかないのに、なぜか気持ちよさそうと私は思った。

 その後、私は線香を取り出し火をつけた。特に榊の枝などは持ってきていない。後日、両親も墓参りに来るそうなので、そのとき供えるのだそうだ。

 線香から灰色の煙が天に伸びる。しっとりとした匂いが私の鼻にも届いた。心が落ち着くような、優しくなれるような匂いだ。


 そこで私は手を合わせ、目を瞑った。

 漂う匂いのせいだろうか。今日が祖母の命日だからだろうか。それとも今日は、一人で祖母の墓の前に立っているからだろうか。

 私は心の中で祖母にお礼を言った。

 何を感謝していいのかよくわからないのは変わらないが、初めて素直な気持ちでお礼の意を浮かべられた気がする。


 お墓参りなんて面倒な行事だ。


 私は常々そう感じずにはいられなかった。

 うら若き女子高生。運動部に所属している私にとって、休みとは大変貴重なものなのだ。その一日をわざわざ返上してまでやることではない。

 普段の私はそう思っていた。

 もちろんその考え自体が変わっているわけではない。

 けれど、そう。一日くらいは見知らぬ祖母のために割いてもいいのかもしれない。


 ふと、合わせた手の中に祖母が残してくれた古い『安産祈願』のお守りを閉じ込めてみた。

 すると穏やかな気持ちが増した気がする。形だけの感謝ですら、本物になっているような、そんな満足感が私の中に生まれつつあった。


 そんなときである。


「彩音ちゃんかしら?」


 急に私の名前を呼ぶ声が聞こえ、ハッと私は目を開いた。



     *****



 初めは祖母の声なのかとも思ったが、そんなことはなかった。横を見ると、一人の女性が立っている。見たこともない女性だった。歳は20歳くらいだろうか。私より何歳か年上に見える。

 落ち着いた雰囲気のある女性で、目立たないが顔立ちがよく美人である。しかし歳の割には古臭い格好をしている人だった。

 私は警戒しながら問う。


「えっと……。どちら様でしょうか?」


 今日は祖母の命日だ。だから祖母の友人が墓参りに来てもおかしくはない。けれどこれほど若い女性となると、祖母との関係が見えてこないのだ。


「あぁ」


 すると見知らぬ女性はニッコリと笑い、丁寧に頭を下げつつ言う。


「私は沖瀬 澄子と言います」

「は、はぁ」


 そう言われても聞き覚えのない名前だ。

 それを理解したのか、沖瀬 澄子と名乗った女性が続ける。


「私、小さい頃に秋畑さん――秋畑のおばあちゃんに遊んでもらっていたのよ。とても良くしてもらったわ。……あなた、彩音ちゃんでしょ?秋畑のおばあちゃんのお孫さん」


 秋畑は私の性だ。


「秋畑さんがあなたくらいの頃と、どことなく似てるもの……」


 若い頃って……。あぁ、写真でも見たのか。そのくらい仲が良かったのかな?

 沖瀬さんは私の頬に向けてすっと手を伸ばし、けれど触れることなく手を引き戻した。

 はじめは怪しいと思った私であるが、わざわざ祖母の命日にお墓まで足を運んでくれている事実を思い返すと、自然と打ち解けることができた気がする。


「えっと……。私、秋畑 彩音といいます。秋畑 華子の孫です」


 秋畑 華子は私の祖母の名前だ。

 そのように私が改めて自己紹介すると、沖瀬さんは「うん、やっぱりね」と微笑む。


「秋畑のおばあちゃんのお墓参りに来てるのよね? あなたくらいの年の女の子が、わざわざ偉いわ」

「いえ……」


 そんな風に嫌味なく褒められると決まりが悪かった。今日はまだ良いが、いつもなら愚痴ばかり言ってお墓参りしている、なんて恥ずかしい。


「……私を守ってくれた、大切なおばあちゃんですから」


 だから私は咄嗟にそう誤魔化した。まったくの嘘ではないのだから、別にいいだろう。

 すると、どういうわけか、沖瀬さんの顔に陰りが生じるのがわかった。ぼそりと「そうね……」と呟く。


 なんでそんな反応するのよ。


 私が疑問に思ったところ、彼女は勝手に語り始める。



     *****



「彩音ちゃん。あなた、自分が生まれてくるとき、すごく大変だったこと、話してもらってる?」


 難産だったことだろう。詳細は知らないが、初耳でなかった分、私は小さく頷いて肯定した。


「そう……。それなら…………」


 沖瀬さんがチラと私を見た。できるだけ目を合わせまいとしたことがよくわかる、そんな目の動きだった。


「秋畑さんに感謝しないとね。本当に――」


 俯いた沖瀬さんが、やはりチラチラと私を見つつ、そして自身の表情を隠しつつ続ける。


「今満足して居られるのは、秋畑さんのおかげですものね」


 ゾクリ。そのときなぜか私の身体が震えた。

 腕を見ると、鳥肌が立っている。一体どうして、と気味悪く思っていると、沖瀬さんが唐突に踵を返した。


「え?」


 どうしてこのタイミングで帰ろうとするのだろう。お墓参りはまだじゃないか。

 それにこの鳥肌。私は何かを感じている。

 この人は言った。私が今満足して生きていられるのは、おばあちゃんのおかげだって。


 それはどう言う意味?


「…………」


 私は根拠なく思った。私の出生に関わること。そこにはお守り云々より、もっと深い真実があったのでは、と。

 だから私は彼女を呼び止めた。手には祖母が残してくれたお守りを握って。


「あの、沖瀬さん!」


 驚いたみたいに身体を硬直させて、沖瀬さんの歩みが止まった。


「えっと……。沖瀬さんは何か知っているんですか? 私が生まれてくるときにあった、出来事のことを!」


 そうだ。私は知りたい。私が生まれてくるときに何があったのか。変哲もない難産だったっていうオチだって構わない。だけど答えを隠され、このモヤモヤを放置されるのは勘弁して欲しい。

 私が聞きたいことを言い終えると、しんと時間が流れた。なおも線香の煙が上へ上へと昇り、そして透明な大気に溶け込むように、その色が失われている。


 どうしたのかしら。


 そう私が焦り始めたとき、ゆっくりと沖瀬さんが振り返った。

 その表情はなんとも言えない。

 不思議そうで、恐ろしそうで、しかし楽しそうでもあって。まるで一つの言葉だけでそのときの彼女の表情を言い表すことは不可能であったのだが、あえて一番近いものを選ぶとしたら、それは混乱であったように私は思う。


「あなた、何も聞かされていないの?」


 じりじりと私の方へと戻りながら、沖瀬さんがそう尋ねてきた。



     *****



 それは突拍子のない話から始まった。


「ねえ、彩音ちゃん。あなた幽霊って信じる?」

「ゆ、幽霊ですか?」


 私は困惑した。そんな在り来りな話題、幾度となく友人と話したことがある。

 しかしそんな今までの、どうでもいい状況と今は違うのだ。


「え、えっと……。居ても、おかしくないと思いますけど」


 すると沖瀬さんはニッコリと不気味に笑い、私の考えを訂正する。


「いいえ。幽霊はね、居るのよ。それは絶対よ」

「……何を根拠に言ってるんですか?」


 短い沈黙のあと、私の当然の疑問に対する答えを彼女は口に出す。


「だって、秋畑さんには霊感があったんですもの。よく言ってたわ。今、私の隣に幽霊が居るって」


 まさか。


 そう私は思った。何かの冗談だ。沖瀬さんはどうしてそんなありえないことを言いだしたのだろう。私はなおも混乱する。

 祖母に霊感があった。そんな話を私は全く知らない。

 きっとこの人は、私をからかっているのだ。なんて人。祖母の命日に、祖母の墓の前で、祖母の実の孫である私に向かってする冗談にしては悪質過ぎる。

 そう感じる一方で、私の頭は思いを決することができずにいることも、また事実だった。

 どうしてか感じる。沖瀬という女性が冗談を言っているのではないと、どうしてか感じてしまうのだ。


「そんな話……信じられません」

「そうよね」


 すぐさま彼女はそう言った。ケロリとした口調だった。


「でも事実よ。実際に一緒にいて、ちゃんと秋畑さんの口から出た言葉として聞いたもの。……あなた、本当に何も知らされていないのね」


 また一歩、沖瀬さんが私に近づく。目の前に居るのに、ひどく気味の悪い存在に思えてならず、私は無意識に祖母が残してくれたお守りを握りしめていた。

 と、彼女の視線が私の顔から離れる。たどり着いた場所は、私の胸の前。両手で握るお守りだったと思う。


「……そんな警戒しないでよ、彩音ちゃん。まさか、私があなたに危害を加えるなんて思っていないでしょ?」

「わ、わかりません!」


 私がそう言い放つと、沖瀬さんは残念そうに「……そう」と呟いた。そして小さく後ずさり言う。


「教えてあげましょうか、あなたが生まれるときに何があったか。知らないのでしょ?」

「…………」

「聞くだけでもいいじゃない。信じるか信じないかは、そのあと好きに決めればいいし」


 そこまで言われると、私も引くことができなかった。見知らぬ女性の聞いたこともない話に多少の恐怖を抱いていながらも、好奇心というものは騒ぎ出すものだ。

 だから私はためらいながらも頷いた。


「それじゃあ……、参考までに聞かせてください」

「えぇ。もちろんよ」


 沖瀬さんはまたも気味の悪いくらい完璧な笑顔でそう言った。



     *****



「秋畑の人はね、みんな霊感があるんですって」


 沖瀬さんの話は、またもオカルトじみたものから始まった。


「秋畑のおばあちゃんも持っていたし、秋畑さん曰く、あなたのお母さんも持っているらしいわ。そして彩音ちゃん。例外なく、あなたにも幽霊を感じたり視たりする力が引き継がれているのでしょうね」


 私に霊感が? それにおばあちゃんにも、お母さんにも?


 到底信じられなかった。母からそんな話を聞いたことはないし、私自身幽霊を視たこと、感じたことなどない。


「幽霊が視えるって素敵だと思わない? 私にはそんな力ないから、とても羨ましいわ」

「わ、私にはそんなモノありませんよ」


 言葉にすることで、私すら知らない私を否定したかった。が、それはすぐに却下される。


「いいえ。きっと持っているわ。秋畑さんがいつかそんなことを言っていたもの」


 私の知らない私の祖母を知っている。それが私の脳内を麻痺させるようだった。実際に祖母が言ったとは限らないのに、本当に言ったのだと思い込もうとする私がいる。


「きっと、あなたもすぐに理解できるわ」

「どうして……どうしてあなたにそんなことがわかるんですか? へ、変だと思います」

「どうしてって……」


 沖瀬さんは一瞬困ったような表情になった。しかしすぐにそれを取り払い、続ける。


「まぁ、それは私より彩音ちゃんのお母さんに聞いたほうが早いかもね。ちゃんと問いただしてみなさい。彩音ちゃんも、もう17歳でしょ? きっと教えてくれるわ」


 理由を話さないのではなく、親族の口から聞いたほうが手っ取り早い。そのときの沖瀬さんの口調はそのような感じだった。


「さてと……。彩音ちゃんってひどい難産だったらしいわね?」


 その前置きにどんな意味があったのかは不明だが、話は本質的なものへと移行していた。


「その理由は教えてもらった?」

「……いえ。私は知りません」

「そうよね」


 彼女はすぐさま予想通りだという反応を口にする。


「霊感があるってこと自体教えてもらっていなかったんですもの。知るはずないか」

「なんですか、それ……。なんの関係があるって言うんですか!」


 沖瀬さんには悪いが、いい加減その態度をやめて欲しかった。優位に立ち、弄ぶように私の過去を伝えようとする。


 さっさと教えなさいよ。私は少しだけ苛立ってしまった。


 と、彼女は再度クスクスと笑い言う。


「彩音ちゃん。さっき私は霊感があって素敵だって言ったけど、霊感があるって良いことばかりじゃないのよ」


 そもそも私は霊感があったとしても、それが良いこととは思っていない。


「霊感がある人ってね、やっぱり良くないモノも惹きつけちゃうらしいのね。秋畑さんがいつかぼやいていたわ」


 ドキリとした。今までふざけた内容だった話が、途端に何か得体の知れない黒いモノに変化した瞬間でもある。


「それって……」


 ポツリと私が声を漏らすと、沖瀬さんが続ける。


「あなたがあなたのお母さんのお腹にいたとき、悪い霊が原因だったそうよ。……難産の、ね」



     *****



 そんなことがありえるだろうか。


 私の中で色々な感情が渦巻く。


「お医者さんから見れば、原因不明の難産だったってね。――それは当たり前。でもあなたのお母さんや、秋畑さんにはわかったそうよ」

「それ……本当なんですか?」


 ここで沖瀬さんはようやく笑を浮かべるのをやめていた。


「だから、信じる信じないはあなたの自由よ。霊感があるって知らなかった彩音ちゃんにとっては、胡散臭い話に違いないものね」

「そういうつもりでは……」


 沖瀬さんを見ていられなくなり、私はゆっくりと俯いた。そこには自分の両手がある。そしてその手の中には、祖母が残したというお守りが入っている。

 沖瀬さんの話が嘘か本当かはわからない。でも『安産祈願』のお守りを残された私にとって、その話は頭ごなしに否定できるものではなかった。


 このお守りは……何?


 手に握ったお守りが、私の中で安産を願っただけの代物でなくなってもきている。


 それに、そうだ。


 今日は祖母の命日。私が生まれた二日後だ。

 どうしようもなく、嫌な因果を連想してしまう。


「ねえ、彩音ちゃん」


 自分の名を呼ばれ、私はジリジリと顔をあげた。


「……何ですか?」

「難産の原因って、誰にあったと思う?」


 なんて……質問をしてくるのか。


 私はそう思いながらも、それこそ向き合わなければいけない真実だと直感できた。


「私に……あったっていうんですか?」

「嫌な言い方をすると、そうね」


 沖瀬さんは隠すことなく、躊躇することなくきっぱりとそう言い切った。


「秋畑さんが言っていたわ。あなたはこれまでにないくらい、強い力を持った子だって」

「…………」

「あなたが母親のお腹の中で一人の人間として確立したとき、すでに強い霊感が宿っていたんですって」


 私はぎゅうとお守りを握り締めた。日差しが強いせいだろうか、時折目眩さえもしてきた気がする。


「……秋畑さんにはもっと感謝しなくちゃいけないわね」

「ど、どう言う意味ですか?」


 沖瀬さんの瞳の奥。ずっと暗いものが立ち込めていて気がする。


「ここからは、あったままに話すわね」


 トッ、トッ、トッ、トッ。


 彼女が私に近づき言った。胸の前に握る両手から、自分の緊張が伝わってくる。



     *****



 そして彼女は語り始める。


「あなたが母親のお腹の中で大きくなっていったとき。そのときは誰も、あなたに強い霊感が宿り始め、良くないモノを惹き寄せているなんてわからなかったんですって」


「それはすでに霊感を持っていると自覚していた秋畑さんも、あなたの母親もわからなかったそうよ。たぶん……あなたの力が強すぎて、そしてあなたに近すぎる場所にいたから、二人にはあなたから伝わる力を霊感だと認識できなかったのね。その感覚はわかるかしら? ……人間ってそういうものよね。目の前に小高い山があると思っていたら、実は獣の背中でしたってね。……あまり上手い例えじゃなかったかしら? でも、人が自分の通常から逸脱したものを目にしたとき、きちんと把握できないのはわからなくもないわよね」


「ともかく、そうして知らず知らずの間に、あなたは良くないモノを惹きつけた。けどそのときはまだ難産になる傾向なんて皆無だったらしいわ。それはあなたの母親と、秋畑さんのおばあちゃんのおかげだったのよ? 霊感というモノは良くないモノを惹き寄せる一方で、良くないモノを払う力でもあるんですってね」


「強い力を持っているといってもまだ胎児。成熟した力を持つ者が、常に身近にいたんですもの。近寄ることは出来ても、実際に悪さをできるまでには近づけなかったのよ。二人は無意識に追い払っていたのね」


「でもあるとき状況が変わったの。あなたが生まれる数日前。秋畑さんは旅行に行ったそうなの。前々から計画していたんですってね。ためらったらしいけど、あなたのお母さんはせっかくだからと背中を押したそうよ」


「それがダメだった。霊にとってこれほどのチャンスはなかったでしょうね。自分を払っている力の半分がいなくなったんですもの。すぐにあなたのお母さんの様態が急変した」


「原因は不明。母子ともにこのままだと危険だと診断された」


「そのことを聞きつけ、すぐさま秋畑さんは帰ってきたそうよ。そのときはもう、秋畑さんもあなたのお母さんも何が起きていたか理解していたそうね」


「……秋畑さんは有名な神社を巡っていたそうよ。そこで『健康祈願』のお守りを買っていたんですって。相応に歳も取りつつあったから、どこか身体を悪くされていたのでしょうね」


「そしてお守りを握って帰ってきた秋畑さんは絶句したそうよ。すでにあなたや、あなたのお母さんに影響し始めた霊を取り払うことはできない。無自覚に霊を払える程度の力では、もうどうしようもないところまできていたのね」


「……本当に感謝しないといけないわ」


「秋畑さんは買ってきた健康守りを握り締め、祈ったそうよ。『どうか、我が娘と我が孫をお守りください』ってね」



     *****



「するといつの間にか、『健康祈願守り』が『安産祈願守り』へ変わっていたそうよ」


 お守りが変わっていた?


「そんなこと……ありえないです」


 でも、そうだ。どうして私は小さい頃からまだ不必要である『安産祈願』を持っているのか。


 その答えが……。


 と、私は自分の呼吸が荒くなっているのに気がついた。必死に空気を吸い込み、人としての機能を保っているよう。


「……信じられないわよね。きっと買い間違えたんだ。普通そう思うわよね。でも確かに秋畑さんは『健康祈願』のお守りを購入したそうよ。後日、一緒に旅行に行っていた秋畑さんの友人も、そう言っていたわ」

「そんなことって……。信じられない」


 そのとき、ふっと世界が揺れた。


 あれ?


 私はこっそりと胸に手を当ててみた。驚くほど心臓の動きが早い。


「……すぐさま秋畑さんは、その変わった『安産祈願守り』を、自分の娘に握らせたそうよ」


 そう。そしてそのお守りは、母から子へと譲られて――。


「そして出産はというと……」


 沖瀬さんは言葉を濁して語り終えた。その最後の様子から、その後祖母に何が起こったのか、想像するに難くない。

 出産自体は無事に終えたのだ。母子ともに健康の状態で。

 それは今の私と私の母が何よりの証拠だ。


 ……でも。


 クラリ。世界が揺れた。私はちゃんと立っているだろうか。話を聞くたび。話が進むたび。私の身体は私に不調を訴えるようになっていた。


「おばあちゃんは、その後どうなったんですか?」


 結果など知っている。それでも私は教えて欲しかった。

 沖瀬さんは悲しそうな目を作って私を見ている。


「亡くなったわ。あなたが生まれた二日後にね」


 ……まただ。


 今度は先ほどよりも大きく視界がぶれた。たまらず私は右手で頭を押さえる。それでもしっかりと、左手でお守りを握り締めた。


「力を使い果たしたのね、きっと。眠るように安らかに亡くなったわ」


 グラリ。……グラリ。

 目を閉じて感じる。脳が揺れている。私は両足を少しだけ開き直し、必死に立っていた。


「だからね。こうして今、元気に居られるのは――」


 わかった。もう、わかった。


「秋畑さんのおかげよ」


 私はおばあちゃんに感謝しなくちゃいけない。


 おばあちゃん。……おばあちゃん。


 どうして私は今、こんなにも苦しいのだろうか。


 今までお世辞にも、私が祖母へきちんとした感謝をしたことないことのツケだろうか。

 真実を聞き、今までの自分が許せなくなった拒絶だろうか。


 それとも……まさか。おばあちゃんが怒って、いるのだろうか。


 私はゆっくりと目を薄く開いた。沖瀬さんに迷惑をかけるわけにはいけない。

 と、彼女は心配している様子はなかった。ただぼんやりと私の目の前に立っている。


「彩音ちゃん。ちゃんと、秋畑さんに感謝しなくちゃダメよ」


 視界が回った。地面から墓石を経由して、青く晴れた空へ。そして。


「えぇ。感謝……しなくちゃね。秋畑さんには、ちゃんと……」


 沖瀬さんの笑った顔を最後に捉え――。

 そこで私は意識を失った。



     *****



 私が生まれてくるときに、私はともかく母までも危険に陥れたのは私だった。

 だけど自己の確立していない私に何の責任があるというのだろうか。

 誰のせいでもない。ただ秋畑の人が受け継ぐ力が、変な方向に現れてしまっただけ。

 これは秋畑家ならではの事故みたいなものだったんだ。

 だから私のせいではない。

 だけど、だからといって私は自分を責めない、そんな傲慢な人間でもない。


 母を苦しめ、そして祖母を亡くしてしまった。

『難産だった。でも無事に生まれてこれたからよかった』

 母がいつかそんなことを言っていたっけ。

 でも誰もが無事ではなかった。


 私が招いてしまった現象を、必死に止めようとしてくれた存在がいた。

 おばあちゃんは命がけで、私の生を願ってくれたのだ。

 それがたとえ自らの命を使い果たそうとも。


 …………。


 ……。


 私にはまだ強い霊感というものがあるのだろうか。

 霊を感じる力。

 霊を払う力。

 そして、霊を惹き寄せてしまう力。


 たぶん……それはまだ残っている。

 だけど自覚しなくて済んだのは……。自覚し、真実を察してしまわずに済んだのは……。

 きっとこのお守りのおかげだ。

 女子高生である私には必要のない物。

 ずっと昔から持たされ、ずっと必要ないと思っていた物。


 けれどそう。

 このお守りは祖母が私を守ってくれた、守ってくれている物なんだ。

 ……私は感謝して持っていただろうか。


 そんなことはない。

 真実を知らなかったとはいえ、血の繋がったおばあちゃんの命と引き換えに残してくれたお守りなのだ。それにまったく気が付くことができず、もうずっとぞんざいに扱ってきた。


 ……ごめんね、おばあちゃん。


 それから、ありがとう。


 本当に、感謝しています。


 私はようやく心から祖母にお礼を言えた気がした。



     *****



 目が覚めるとまず、ひどく心配した両親の顔が入り込んだ。


「彩音!」


 母が喜んだような、患えたような声で私の名を呼んだ。


「……お母さん」


 ポツリと私が口を開くと、途端に母の目に滴が溢れた。


「あぁ、よかった! 彩音。大丈夫?」

「うん……。たぶん」


 隣の父を見ると、彼もそこでようやく安心したような表情となっていた。

 見回してみると、そこは見知らぬ部屋だった。どうやら病院らしい。なんの可愛らしさもないベッドで私は横になっている。

 日付は変わっておらず、倒れた日の夕暮れに私は目覚めた。

 と、私の頭の横にはあのお守り。私は自分の身体より、そのお守りをなくしていなかったことの方により安堵する。


「私……どうなったの?」


 私は母に尋ねたつもりだったのだが、質問には父が答えてくれた。


「お母さんのお墓の前で倒れたんだよ。熱中症だってさ。医者はそう言っていた」

「そっか……」


 それは妙に納得できた。頭がぐるぐる回り、気分が悪かったからだ。むしろ、あれが熱中症というやつか。なんて、私はあっけらかんとしてもいた。


「それじゃあ、沖瀬さんが救急車を呼んでくれたの?」


 両親の表情が凍った。

 いきなりの変化に私は「えっ?」と小さく声を漏らした。

 母は驚き、どこか恐怖に引きつっている。父は訝しげで、何かを警戒する態度をとった。


「彩音」


 斬りつけるような口調で父が私の名を呼んだ。


「な、なに?」


 正直、怖かった。なんでそんな顔に、口調になるのかわからない。


「沖瀬って、お前……。会ったのか? お母さんのお墓の前で?」


 父が私を問いただす。わけもわからず、私は焦って肯定した。


「う、うん。沖瀬 澄子っていう二十代前半くらいの女の人に、私会ったよ」


 すると、両親が顔を見合わせた。

 しばらくの間、彼らは見つめ合う。口には出さないが、彼らの間では何かを伝え合っていたように思う。

 そしてまず父が顔を伏せ、溜息をついた。


「このことについては……任せていいのか?」


 父が母に尋ねていた。母はわずかに私へと視線を向けつつ「えぇ」と了解する。



     *****



 カーテンで遮られた狭い空間に、私は母と二人きりになった。

 母の目は真剣だ。けれど私はどうしていいかわからない。せっかく祖母へ、心から感謝できるようになったと報告できるのに、それどころではない。


「あのね、彩音」


 私の名を呼び、母が話し始める。


「あなた、本当に沖瀬 澄子という女性に会ったのね?」

「……うん」

「嘘じゃない? まさか、からかったりしていないわよね?」


 もちろんだ。むしろ今のこの雰囲気。母こそ私をからかっているのではないか。そうまで思える。


「嘘じゃないよ。沖瀬さんにいろいろ教えてもらった。私の生まれたときのこととか、それから――」

「あなた、それを信じちゃいないわよね?」


 私の話を遮って、母がきつい口調で私を問うた。

 そんな空気に、私はいよいよ我慢できなくなってくる。


「ねぇ! 何がいけなかったの? 私、何か悪いことした!?」


 そう言い返すと、母は一度キッと私を睨み、ほどなくして溜息をついた。


「……ごめんね。あのことは……ちょっと繊細なのよ。いろんな意味でね」

「何のことよ。ちゃんと説明……して」


 母はすっと手を伸ばし、私の頬を撫でた。そして手を握る。


「落ち着いて、彩音。お願いだから」

「…………」

「沖瀬さんに何を言われたの? まずはそれを話してくれない?」


 母はいつものような穏やかな口調に戻っていた。小さく震える手が私の手を覆っている。


「うん……。わかった」


 そして私は沖瀬さんから聞いた話を母に伝えた。

 だんだんと話していくうちに、母の顔が青ざめ、手の震えが大きくなっていったようにも思えた。

 そうして私が祖母のお墓の前であったことを話し終えると、母はまず言うのである。


「彩音。その話、変だとは思わなかった?」

「変って何が? 私が生まれてきたときのこと、お母さんが話してくれるよりずっと納得できたよ」


 すると母は黙ってしまった。小さく「もう少し大きくなってから――」などと呟き、最後の方は声をして認識できなかった。

 沈黙が私と母を包む。

 私は言いたいこと言った。不満があって、私に何かを伝えたいのは母の方だろう。そう思い、私はあえて口を閉ざしていた。

 と、再び母が話し始める。


「ごめんね、彩音。あなたが産まれたときのこと、確かにちゃんと伝えていなかった。でもいつか言おうとは思っていたの。あなたがもう少し、精神的に落ち着いたときに話そうと思っていたのよ」


 17歳の私。それでもまだ、母から見た私はひどく不安定なのだろう。それに対して不満はあるが、反論はしなかった。


「……その沖瀬さんって人は、おばあちゃんの友達だって言ったのよね?」

「友達っていうわけじゃ……。小さい頃、よく遊んでもらってたって――」

「そんな子いなかったわ。絶対にね」


 母はそう言い切った。


 そんな子はいなかった? それってどういう――。


「その沖瀬さんが子供の頃って言ったら、たぶんおばあちゃんが亡くなる頃の話よね?」

「うん……。そうなるかな」


 沖瀬さんは二十代前半に見えた。それでも24歳とかそんな感じじゃなかった。おそらく20歳か、21歳か。


「きっとそのとき、沖瀬さんは3歳か、4歳くらいよね。そんな頃に遊んでもらったおばあちゃんのことを想って、今わざわざお墓参りにくるかしら?」

「……来ないとはいえないでしょ」


 母は「そうね」と、私の意見を否定せず、そして続ける。


「もう一度言うけど、おばあちゃんが亡くなる頃、そんな歳の子はいなかったわ。……たぶん母さんが知らないだけ、ということはないと思う」


 私の反論を先読みされ、先手を打たれた私は何も言えなかった。


 それじゃあ、あの人は一体……。おばあちゃんとはどんな関係だったっていうの?


 そんな顔をしていたのだろう。母は優しく、また語り始める。


「沖瀬 澄子。その人ね、おばあちゃんの友達だった人よ」


 友達? それはさっき違うって言ったじゃない!


「は? よくわかんないんだ――」


 母が私の手を話し、言葉を止めるようそっと私の唇に触れた。


「沖瀬 澄子さんはね、おばあちゃんの昔の友達よ。おばあちゃんの同級生だった人」

「…………」

「…………もうずっと昔に自殺した人なの」



     *****



 それは私が生まれるよりずっと昔のこと。

 おばあちゃん。秋畑 華子が今の私より少しだけ大人だったときのこと。

 おばあちゃんと沖瀬 澄子は同級生だったらしい。仲が良く、親友だったそうだ。


 けれど一人の男性の登場でその関係は崩れた。

 その男性とは、私のおじいちゃんのことだ。

 沖瀬 澄子はおじいちゃんに恋をした。けれどおじいちゃんは華子を好いたらしい。

 そんなありきたりな、でも誰にでも起きえること。


 そして決定的な出来事があった。

 おばあちゃんがおじいちゃんの子を身ごもったのだ。それが私の母である。

 その事実を知ったとき、沖瀬 澄子はおばあちゃんを責めたらしい。ひどい雑言を吐き、子をおろせとまで言ったそうだ。


 しかしそんなことはおじいちゃんが許さなかった。

 手切れ金としてある程度のお金を握らせ、沖瀬 澄子を拒絶したという。

 最愛の人からの拒絶。それに沖瀬 澄子は耐えられずはずもなく、泣く泣くおじいちゃんを諦めた。


 その後は何事もなく日々が過ぎ、母も無事産まれ、大きくなっていったらしい。

 が、沖瀬 澄子にとって、それこそ耐えられない存在となってしまったのだ。

 愛する人から拒絶されるよりも、愛する人の血を受け継ぎ、しかし自身の血は受け継いでいない母の存在にこそ、沖瀬 澄子は耐えられなかったのだ。そう祖母は思っているらしい。


 そして沖瀬 澄子は自らの命を絶った。

 母の存在から逃げるためなのか。

 祖母に自らの命を重荷として背負わすためのか。

 自殺に秘められた本当の想いは、残されていなかったという。



     *****



「だけど、おばあちゃんには霊感があった。それは私にも、彩音にも引き継がれているわ」


 母はベッドの端を見ている。しかしそこにはまったく焦点があっていない。


「私にはいつも視えていたわけではないけれど、おばあちゃんはよく言っていたわ。『澄子がいる』って」


 私は何も言わず、母の話を聞く。


「『私を呪っている』『まだ許してくれないの』って」


 そういえば、と私は今さらながらに思い出した。

 私が会った沖瀬 澄子は言っていた。『若い頃の秋畑さんによく似ている』と。

 それを聞いたとき、私は写真でも見たのだろう、と何も怪しむことなく思った。それが今となっては実に不気味なのだ。


 秋畑さんの若い頃。それはおばあちゃんのこと? それともお母さんのこと?


 どちらでもありえたし、両方でもありえたのだ。


「その頃からよ。おばあちゃんは体調を崩したわ。もちろん医者に診せても原因は不明。でもおばあちゃんにはわかっていたし、なんとなく私にもわかっていたわ。沖瀬 澄子がお母さんを呪っているんだってね」


 母の目が動き、あるものをとらえた。私の隣に置いてあった『安産祈願』のお守りだ。

 母はそれに手を伸ばし握る。じっと見つめ、古びた赤色を撫でた後、そのお守りを私に握らせた。


「だけどそのことを知ったおじいちゃんがね、そのお守りを買ってきたの。どこか有名な神社で、確か特別に作ってもらったって言ってたと思う」


 ……そっか。


 私は改めて握った古びたお守りをそっと手で包んだ。


「だいたいね。一人娘が初めて子供を産むっていうのに、のんきに旅行に行くわけないじゃない。おかあさん……おばあちゃんは、ずっと私の近くにいてくれたわよ」


 沖瀬 澄子がでっち上げた祖母を母が否定する。私の知らない祖母の姿を、間違えて知って欲しくないといった感情が込められていたように私には思えた。


「……このお守りをもらってから、おばあちゃんは良くなったってこと?」


 ようやく私は聞くだけでなく、問うこともできるようになっていた。


「そうね。おばあちゃんの病気は治ったわ。そのお守りを持ってから、沖瀬さんを視る回数もずっと減ったそうよ」

「そっか……。お守りなんて役に立たないものだって、私ずっと思ってた。でもそういうわけじゃないんだね」


 そう私が言うと、母は優しく微笑んだ。


 結局、私が視た沖瀬さんの言ったことは何もかも嘘だったんだ。


 おばあちゃんを恨んで、死んでもなお、おばあちゃんが他人からよく思われないように、きっと今もどこかをさまよっているんだろうな。

 そう考えると、私は沖瀬 澄子という人を憎むに憎みきれない気がした。どちらかというと、可哀想な人だと、そう思う。

 ぼんやりと今日聞いた話を思い出しながら、そしてその半分を否定しながら、ふと私は思った。


「あぁ、でも、おじいちゃんも変たよね。どうして『健康祈願』のお守りをもらって来なかったんだろ。普通、『安産祈願』なんておかしいよね」


 にこやかに私が母に尋ねた。気軽な気持ちで答えを求めてしまったのだ。まだ、この話は終わっていないのに。

 なぜだか私はすべてを聞き終え、その後の展開に見当をつけ、改めて祖母に心から感謝しようなんて結論づけていた愚か者だった。



     *****



 私の問いに母の顔にまた陰りが生じた。また雰囲気が重くなる。

 真剣な視線が私の顔に向けられる。それが徐々に下がって、私の握る『安産祈願』のお守りへ到達した頃、再び母が語り始める。


「……もちろん、おじいちゃんが買ってきたのは『健康祈願』のお守りだったわよ。それは私も見ていたから絶対」


 私は口を閉ざした。よくわからない話だ。それにさっきの今で、どのような口調で声を出せばいいか、その答えが見つけられない。

 しかし母がこれから語ってくれるだろう内容を、私は察することができる。私はそう思った。

 始めは『健康祈願』だったお守りが『安産祈願』になった話。

 そうか。沖瀬 澄子の法螺話は、すべてがそうだというわけではなかったのか。


「おばあちゃんはずっと『健康祈願』のお守りを持っていたわ。自分を救ってくれたお守りですものね。大事に、いつも大事に持ち歩いていたわ」


 ゆっくりと一語ずつ、私の理解がちゃんと追いつくのを待ってくれるような話し方である。


「それから月日は流れ、私もおばあちゃんから『沖瀬 澄子』の名を聞かなくなり久しく経った頃ね。私は結婚したわ。それからしばらくの後、妊娠もした」


 私は一人っ子。その妊娠とは、私が生まれるための妊娠だったのだ。


「順調にお腹の中の赤ちゃんも大きくなり、おばあちゃんも、私も、お父さんも、皆あなたが産まれてくるのを楽しみにしていたわ。……そんなときね。母子ともに危険な状態になったの」


 そうだった。私は難産だった。その事実は沖瀬 澄子が語ろうと語るまいと変わらない事実なのだ。


「原因は不明。このままじゃあ、私もお腹の中の彩音も死んでしまうかもしれない。そんな緊迫した中、慌てておばあちゃんがそのお守りを持ってきてくれたわ」


 そう言って母が指差したのは、汚れた赤色のお守りである。


「すぐにおじいちゃんがおばあちゃんを助けるために渡したお守りだってわかった。でも変なの。見ると、縫いこんである文字が変わっていたのね。『健康祈願』でなく、『安産祈願』って」


 そこだけ切り取ると、沖瀬 澄子の話と同じであった。なぜだかよくわからないが、お守りの意味合いが変わってしまった。


「すぐさまおばあちゃんは私にそのお守りを握らせたわ。おばあちゃんは言ったの。『産まれてくる子供は強い力を持っている。だから良くない霊を惹きつけているんだ』って」


 あぁ、そのセリフも私は聞いた。


「『だから、これを握っていなさい』ってお守りを私に握らせたわ。私は変わってしまったお守りに驚いて言ったわ。『これ、どうしたの? なんで安産祈願に変わってるの』って。そしたらおばあちゃんが答えてくれた」


 私は口を挟むことなく、ただ黙って母の話を聞く。


「『それはとても力の強いお守り。今までは私を守ってくれていたけれど、秋畑の者がもし私と同じように霊に犯され苦しむようなら、それから守ってくれるお守りなのだろうね。だから変わってくれたのでしょう。私の健康は叶えてくれたから、今度はあなたたち母と子を守ろうと、してくださっているのよ、きっと』」


 母の瞳からすぅと涙が溢れた。

 そっか。もしこのお守りがなかったら。そう思うと、とっても辛い出来事だっただろう。


「そうして私は『健康祈願』から『安産祈願』へと意味が変わったお守りを受け取ったわ。……出産に関してはそれだけね。私は無事だったし、もちろん彩音も元気で生まれてきてくれたわ」


 そう。でも私達を守るためにおばあちゃんは……。


「……ねぇ、お母さん」

「ん? ……なあに?」


 取り出したハンカチですっと目元を吹きながら、母が聞き返した。


「おばあちゃんが死んだ理由って、やっぱり私にあったのね」

「……どうして、そうだと思うの?」


 短い言葉であったが、丁寧に私を促すように母が尋ねた。


「だっていくらなんでも『健康祈願』のお守りが、勝手に『安産祈願』へ変わるわけないよね? 誰かがそう願わないと、そうならないと思う。おばあちゃんがお守りに祈って、そして霊的な力をそこで使い果たして、そして私が産まれた二日後に力尽きてなくなった。……そうなんでしょ?」


 私が予想した内容を口に出し終えたところで、母は私から小さく目を背けた。何かに悩む様子だ。また焦点が定めないままベッドの端を見ている。

 そんな母の姿から、私にとても気味の悪い何かを連想させた。

 これで全てではない。そう私は直感する。


「ねえ……、お母さん」

「…………」


 母が横目で私の顔を伺う。


「教えてよ。……全部を、教えて欲しいの」


 その後しばらく母は口を開こうとしなかったが、次に開いたときは何か決意した表情であった。


「彩音。……霊感なんて、そんな曖昧なモノをあんまり信じ込まないで。幽霊なんて、普通視えないモノに心を揺さぶられないで。私やあなたには人とは違う力が、ちょっとだけ備わっているだけなの。普通の人なら辿り着けない事実でも、時として辿り着ける場合があるわ。でもだからと言って、それに感化しすぎないで。霊感がある者は霊を払いもするし、惹き寄せもする。でも逆に、霊に感化されたり、惹かれたりもするのよ」


 一言、一言。私に言い聞かすように。


「……それを約束してくれる? 心がけてくれる? それなら話すわ。」


 私は生唾を一度ゴクリと飲み込んだ。真剣な母親の横顔。きっとそれを聞くことは、今後の私の生き方にとても影響してくるのだと、否が応でも感じ取ってしまう。


 一息吸い込む。そして私は覚悟を決めた。


「わかった。約束する。……だから聞かせて欲しい」


 母は辛そうな顔で「もう、彩音も大きくなったものね」と呟き、母は最後の話を語り始める。



     *****



 ようやく視線をベッドの隅から離し、母は私の手を取った。二人の両手で、あの『安産祈願』のお守りを包むような感じとなった。


「何から訂正すればいいのかしら。……いつかは話さないといけないと思っていたのだけれど、いざそのときになってしまえば、もうめちゃくちゃよ」


 母が力なく笑う。


「……別に何からでもいいよ。今日はまだ時間あるでしょ。それに熱中症で倒れちゃったんだもん。私、明日の部活は休むわ」


 私はニヤけた笑顔をわざと作って母を応援した。


「そうね。……私がさっき話した内容は全部本当よ。でもそのあと、お母さんが死ぬ前に私に教えてくれたの。私の出産にまつわる本当の話ね」


 そこで母は大きく息を吸った。私の目をしっかりと捉え、その瞳からも緊張が伝わってくるようだ。


「まず……そうね。あなたの霊感について話しましょうか」

「お母さんや、おばちゃんより強い霊感があるって話よね?」

「そう。……でも、それは嘘なの」


 え?


 声には出なかったが、私はポカンと口を開け驚いた。

 沖瀬 澄子からならまだしも、肉親からも言われていた霊感の強さ。でもそれは嘘だと言われた。


「おばあちゃんもお母さんも、霊感はあるわ。それはふとしたときに霊を感じたり、視たりする力ね。それはあなたも同じ。彩音にも霊感はあるわ。でもそれ以上でも、それ以下でもない。その程度の力よ」


「そ、それじゃあ、難産は!? おかしいじゃない!」


 ここに来て話の根本が崩れた気分だった。いや、実際そうなのだろう。私は病室ということも忘れ、声を荒げてしまった。

 母はそれをなだめつつ、続ける。


「それに彩音はおばあちゃんが、私や彩音のために祈ったことで『健康祈願』のお守りが『安産祈願』へと変わったって思ってるみたいだけれど、それも間違い。おばあちゃんにそんな力なかったわ」


 それじゃあ、どうやって。


 私は咄嗟に握りしめていた手の力を緩めた。その隙間から、赤い布がちらりと見える。


「……ここからはあなたが産まれた後、おばあちゃんが死ぬ前に私に話してくれた内容よ。おばあちゃんからは……彩音には知らなくてもいいことだ、とも言っていたし、でも知りたいと願うようなら、私が判断して伝えてあげなさい、なんて言われてた」


 そこで私はしっかりと悩んだ。答えは決まっている。けれど亡きおばあちゃんは、簡単な決意で聞くべき話ではないと言っているようなものだ。

 しっかり悩んで……それでもやっぱり私は知りたいと思うのだった。


「うん。教えて欲しい。話してよ、お母さん」



     *****



 母は優しく溜息をつき、私の頭を撫でた。そしてまた、その手を私の手の上へ重ねる。


「……私や、私のお腹の中に入っていた彩音を呪って苦しめたのはね、沖瀬 澄子さんだったって」


 予想外だった。といえば嘘になる。だけどそれはあんまり意味がないように、私は思っていたのだ。


「それは……どうして? やっぱり子供が生まれることに、強い殺意のようなものをもっていたから?」


「……さぁ。でも確かにそうね。こんな言い方したくないけど、沖瀬 澄子さんが自殺した原因って、言ってしまえば母の子である私が産まれてきたことにあったみたいだし。おじいちゃんの血を引いた子を、また見たくないって想いも確かにあったのかもしれないわ」


 その言い方は、可能性として考えられるが、その可能性より高い理由が他にある。そのように私には聞こえた。


「……私や彩音を祟ったのは沖瀬 澄子さんだった。でもね、おばあちゃんが持っていた『健康祈願』のお守りを『安産祈願』のお守りに変えたのも、澄子さんだと思う。そうおばあちゃんは言っていたわ。いえ……絶対にそうだ、って言っていた」


 そこまで聞き、私は沖瀬 澄子という女性が何をしたかったのか、全くわからなくなってしまった。母や私を呪う一方で、助けるための道具ももたらしてくれた。


 それは一体どういう心理から生まれた行動だったのだろう。


 と、私はそのとき祖母の墓の前で会った、沖瀬 澄子の霊を思い返した。


 彼女はどんな表情をしていたっけ。


 ……そうだ。彼女は私を見て、よく笑っていた。それはまるで、孫を可愛がるような、そんな姿ではなかっただろうか。


 そこで私は「そっか」と呟き、自分の中にある沖瀬 澄子という人物について理解できたような気がした。

 ここまでの話を聞く限り、私は沖瀬 澄子を憎むはずだ。そうでなくとも、嫌悪感のようなものを抱くのが普通だ。


 そう。その人が本当に今までの話通りの人だったら。


 でも違う。たぶん違うんだ。


 どこか憎めない。可哀想な人。私がそう思ってしまう原因は――。


「沖瀬さんにも善意が残っていたのね」

「……え?」


 きっとそうだ。だってそうじゃないと説明がつかないもの。


「沖瀬さんは私やお母さんを呪う一方で、私達を助けようと頑張ったのよ。一つは悪意より、でも沖瀬さんにはまだ善意が残っていて――」

「あ、彩音……?」

「だから私とお母さんを守るため、おばあちゃんの持っていた『健康祈願』のお守りを『安産祈願』に変えたのよ。そうして、呪う一方で、救ってくれた。沖瀬さんはきっと、そんな人だった――」

「彩音!」


 突然の大声に私の言葉は止まった。


 見ると母は涙目になって、息を荒らしている。怯えた表情で、震える手で私の手を……祖母の残してくれたお守りをしっかりと握りっていた。


「な、なに。お母さん?」

「……彩音。今あなたが言ったこと、あなたは本当にそれが事実だと思う?」

「だって……そうじゃない?」


 母の瞳から雫が溢れた。さっと顔を伏せたかと思うと、私の手を握った自らの手に額を乗せ、小さく「どうか……どうか……」と呟いている。


「……なら、どうしておばあちゃんは死んだと思う? あなたが産まれた二日後に、たまたま、偶然死んだって、彩音は思うの?」


 そこで私は、ハッと気づいた。確かにそうだ。


 私は……私は何で、あんな解釈を……。


「いい? 彩音。沖瀬 澄子が私やあなたを呪い、お守りを『安産祈願』へ変えたのは、おばあちゃんからお守りを離すためよ! 沖瀬 澄子からおばあちゃんをずっと守ってきたお守りを、手放せるためよ!」

「…………」


「沖瀬 澄子ははじめから、おばあちゃんを呪い殺すために私達を呪ったの!」



     *****



 ………………。


 …………。


 ……。


 すぅと風が吹いた。


 カーディガンを羽織った私は一人、また祖母の墓参りにやってきていた。テンポよく進む私の手には、あのとき使っていたハンドバックとは別の、もっと気品あるバックがある。

 もちろんその中には、お守りが入っている。


 あの日、あの時。母はもう少しだけ話してくれた。


 自分を守っていたお守りを娘に授け、つまり失ってしまった祖母は、急激に体調を崩していったそうだ。

 医者に見せても、原因は不明。察することができたのは秋畑の者だけ。

 祖父は再度神社に向かおうとしたらしい。

 が、それを祖母が止めたのだそうだ。

 もう十分に幸せだった。これからは昔の友人と一緒に居てあげたい。彼女のそばにいて、彼女を救ってあげたい。

 そう涙ながらに、祖父に頼んだのだという。


 そうして私の祖母は息をひきとった。

 涙と苦痛に歪んだ、辛そうな最期だったそうだ。


 祖母の墓の前についた私は、線香を取り出し、早速火をつけた。

 今日はあまり時間がないため、掃除はできない。ごめんね。おばあちゃん。

 和の心地あふれる匂いが、あの時のように辺りを漂い始めた。

 私は墓の前に座り込み、手を合わせて目を閉じる。

 心から。自分の命を惜しまなかった祖母へ。……アリガトウ、と。


 しばらくの後、私は目を開き立ち上がった。

 足に血が滞っていたせいだろうか、少しだけクラリと脳が揺れる。


 まるであのときと同じみたい。


 私は天へ昇る線香の煙を追ってみた。高く、高く上がろうとして、しかしいつの間にか消えていってしまう白い煙。


「…………」


 私はあれから考えてしまうことがあるのだ。


 それは祖母の命日に会った沖瀬 澄子さんの幽霊が言った言葉だ。


『秋畑さんに感謝しないとね』


 彼女はしきりにそのようなことを言っていた。

 だけど今らならわかる。秋畑さんとは私のおばあちゃんのことを指しているとは限らない。

 おばあちゃんからお守りを引き離す要因となった、私や私の母に対して。


 そう思えなくも、ない、のだ。


 …………。

 ……。


 だけど、もしかしたら……。それハ、私の母に向けた、言葉、だったようにも、思える。


 私。秋畑 彩音ヲ、産んデくれ、てアリガトウ。


「おばあちゃん……」


 私はソウ祖母を呼ンだ。


 と、ナゼだろう。それに応えルように、イマ、私のナマエが呼ばれタような気がスル。


 嗚呼。おばあちゃん。ソコに居るノ?


「……おばあちゃん。大好きだよ」


 ソウ、私が呟いタ瞬間デ、ある。


 後ろから、強い風が私の背中を押した。


「――― !」


 たまらず私は目を閉じ、身を縮めた。


 …………。

 ……


 辺りの木々がざわめき、風が音を立てて私を襲う。


「…………」


 パタっ。


 ようやく風が通り過ぎたとき、そんな音が私の真下から聞こえた。

 そっと目を開けてみる。


「……?」


 落ちていたのは、私が大切にしている古いお守りだった。もう何十年も誰かの手にあり、元は鮮やかな紅色をしていただろう表面の布地は、随分と汚れ茶色くなっている。


「なんで、落ちちゃったんだろう?」


 風に飛ばされたのかな。


 お守りは確かにバックの中に入れていたはずなのだ。しかし、今は私の足元に落ちている。


 まぁ、こんなこともあるか。


 なんて私はちょっとくらいのありえないことでも寛容である。特にこのお守りに関しては。

 私は身をかがめ、そのお守りを拾い上げた。


「――― !?」


 しかし、今回ばかりは驚いてしまった。


 一度は『安産祈願』のお守りへ姿を変えた、この古いお守り。だけど今、私の手の中にあるお守りには――。


 『健康祈願』と、縫い込まれてあった。


 これは一体……。


 そう謎に思う一方で、私は妙に納得できたような気がした。


「…………ぁ」


 もう一度私は彼女を呼ぶ。


 秋畑 華子という、ちゃんと顔を合わせたことのない祖母を思い浮かべて。


「おばあちゃん。……ありがとう」


 優しい風がひと吹きし、線香の煙が天へと昇っていくように、私にはみえた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 呪いのオチというか目的にはヒネりがきいてました。 ただ、全体としては行間を空けすぎて読みづらく、中盤以降はセリフだけになったので、テンポは良いのですが同じ言葉を繰り返すだけで少々ダレました…
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