桜ヶ丘
ホラーっぽくないけどホラーですので、よろしくお願い致します。
桜ヶ丘は名のとおり、桜の美しい村だ。
村のほとんどは山で、下千本、中千本、上千本と、桜の開花は下から順にやってくる。
桜たちは人より遥かに長い、その生の中で、時に気紛れに人と関わり、人を弄ぶ。
昔はよく人が桜に惑い、道を失った。そして静かに降る花びらが、彼らをそっと、きれいに消してしまう。
“神隠し”と呼ばれる不思議は、桜ヶ丘村では桜が起こしていた。
そう信じられたために大昔から伝わる秘密の儀式があった。
毎年、上千本が咲いてから下千本が落ちるまでの数日、村は桃色の闇に陥る。その期間に、儀式は行われる。神隠しを起こす桜たちを鎮めるために、生け贄を桜に捧げる。
生け贄には多くの場合、何も知らない余所者の旅人が選ばれる。
今は当然廃れた儀式だけれど、今でも桃色の闇が村を覆うとき、変事は起こる。
「…っやめろよ。ってか、今んとこ余所者って言ったら俺じゃん?」
僕は毎年、この時期に叔父の家へ泊まりに来る。
いつもはその家がある辺りの下千本が咲く頃に来て、中千本が咲く前に帰るのだが、高校を卒業した今年の春休みは長いので、山が完璧に薄紅色に染まる頃を選んでやって来た。
そんな僕に従姉妹は気味の悪い怪談話を聞かせたのだ。
従姉妹の愛は自分を睨みつける僕に笑って見せる。
「心配しないで光くん、今はもうそんな儀式はないのよ」
僕は溜め息を吐く。
「ほんとにそんな儀式があったのか?」
「さぁ?」
愛は笑って肩を竦めた。
「だけどちょうどこの季節には毎年よく生き物が死ぬのよ。人も、何人か死んだ人がいるし、犬とか猫とか鳥とかね?」
愛はそう言って笑みをやめた。
「人…も?」
「うん。山で迷ってね。…兄がいなくなったのも、この時期だったよね」
愛は立上がり、僕の借りている客間を出ようとする。
僕は愛の兄を思い出す。愛の兄の心太兄さんは歳の離れた従兄弟で、愛と同い年の僕もかわいがってもらった。いなくなったのは、彼が高校1年生の時…。しかし、それが思い出せない。
目を丸くする僕の前で、愛ははたと立ち止まって振り向かずに付け足す。
「あぁでも、みんなきれいに消えてしまってて、どこを探しても死体は見つからないのよ」
「…みんな?」
僕が気味悪そうに問う。
愛は戸口で振り向いて頷く。
「みぃんな」
戦慄する僕を見て、クスリと笑い、愛は言葉を接いだ。
「お風呂沸いてるから、お先にどうぞ」
生温い風に、僕は目を覚ました。
水を飲もうと、客間を出る。
春の初めとは思えない温い風に、桜が揺らめくのが窓から見えた。
「あんまり見てると誘われるわよ?」
「…愛」
後ろからの声に振り返ると愛が立っていた。
「眠れないの。…ほら、お兄ちゃんがいなくなったのもこんな生温い風の日だったでしょ?」
「…え?」
僕は首を傾げる。愛の言葉は、まるでそのとき僕もここにいたかのようで…。
愛もキョトンとする。
「…?もしかしてほんとに覚えてないの?光くん。あの時も光くん、遊びに来てたじゃない」
愛の目が見開かれる。
「だって俺は、下千本が咲く頃だけで…。生き物が死ぬのは上千本が咲いてから…」信じられない様子で、彼女は首を振った。
「あの年は叔母さんの都合で、上千本が咲いてからもここにいたでしょ?」
信じられないのは僕も同じだった。まったく覚えてなかった。
「心太兄さんは、ほんとに死んだの?」
僕は呆然と愛に問うた。
「…最後にお兄ちゃんを見たのは光くんでしょ?」
僕は愕然とした。
その僕の様子を見て、愛はくるりと後ろを向いた。
「…お兄ちゃんは、生きてる」
「あ…い?」
「だって、死体も何も見つかってないんだもの…」愛はもう一度僕を見て言い、にこりと微笑んだ。
「じゃあね、おやすみなさい」
その夜僕は夢を見た。内容はよく覚えてない。
ただ愛がいたことは覚えてる。
夢の中で愛は言った。
「光くん、いつから自分のこと、俺って呼ぶようになった?」
そのあまりに些細な問いの答えを、僕は覚えていなかった。
僕は、それを必死で思い出そうとしていた。
「光くん、ゆうべはよく眠れた?」
叔母に言われて僕は曖昧に微笑んだ。
「それより叔母さん、俺、今日は山の方に行きたいんだけど、だめ?」
下千本、中千本、上千本、それはそのまま、その辺りの地域名になっている。愛の家は下千本、つまり山の麓近くにある。
叔母は僕の申し出に少し困った顔をした。
「でも山は危いわよ?光くんに何かあったら大変だし…」
渋る叔母に、僕が落胆しかけたとき、それまで黙って朝食を食べていた愛が口を開く。
「私がついて行くわ。それならいいでしょ?危険なところへは近付かない」
愛の言葉に、叔母は渋々了承してくれた。
「なんでついてきてくれるんだ?」
二つの500mlペットボトルに麦茶を入れる愛に問うと、微笑みと問いが返された。
「光くんはなんで山に行きたいの?」
「…それは…」
特に理由はない。ただ知りたいだけ。
愛は小さく笑って、僕にペットボトルの一つを押しつけた。
「私はあなたを守りたいだけ」
僕は胸に広がる不安を押え付けて笑った。
「大袈裟だな?熊でも出るの?」
「桜のおばけがでるんだよ」
冗談めかした答えに、何故か笑えない僕を残して、愛は台所を出て行った。
桜の間を歩く僕たちを、花が見ていた。
まるですべて終わろうとしているかのような静寂の中で、そんな視線を、僕は感じていた。そして、
「ひか…る…」
誰かに名前を呼ばれたことに、僕は気付かなかった。
愛はただ僕の前を歩いて、何も喋らずにいる。
気を張り詰めているようだった。
僕は愛の持たせてくれた麦茶を飲む。
「どこまで行くの?」
僕は愛に問う。
「中千本の途中に沼があるの。そこまでよ」
「沼?」
「あなたが最後に、お兄ちゃんを見たところ…」
「…儀式の沼?」
愛は頷く。
「底無し沼よ。沼の表面をすべて桜の花びらが覆うの。まるで沼に沈んだ生け贄を隠すように…」
「心太兄さんは…」
愛は微笑んだだけで何も言わず、歩調を速める。
僕も黙ってついて行った。
沼についたのは夕暮れ時だった。
「暗くなってきたな」
「お昼食べてから出かけたからね」
愛は淡々と言う。
沼から少し離れて立ち尽くしたまま、愛はそれ以上何も言わなかった。
しかし、僕が沼に近付いて覗き込むと、口を開いた。
「儀式は余所者を生け贄に行われる。でも、ほとんど人の来ない村だから、罪を犯した村人が生け贄にされることもあった。神隠しも同じ。余所者か、罪人が、神隠しに会う」
僕は振り向こうとして、真後ろに愛の吐息を感じて凍り付く。
いつの間に移動したのか分からない。
愛は続ける。
「でもお兄ちゃんは何も悪いことしていない。それにあの時、村にはあなたがいたよね。…余所者の、光くんが、いたよね?」
「…愛?」
「お兄ちゃんは、あなたの身代わりになったのよ…」
愛の暖かい両手の平が、僕の背中にそえられた。
彼女が力を入れれば僕は底無しの落ちるだろう。
「愛?俺を殺すの?」
何故か冷静に、僕は訊いていた。
「あなたが私の前で、自分を『俺』と呼ぶようになったのも、私を『愛』と呼ぶようになったのも、それからよ」
僕は目を見開いた。
愛の手が、背中にそえられたまま震える。
涙声が言葉を紡ぐ。
「お兄ちゃんがそうしてたみたいに、私を『愛』と呼び捨てにするようになったのは、それからよ…」
「愛を守らなきゃって、思ったんだ。心太兄さんの代わりに」
「お兄ちゃんは、どうなったの?」
愛の手が背中から離れて、僕は愛の方を見た。
「分からない」
僕が答えると、愛は泣きじゃくる子供のように首を振る。
慰めることもできなくて、僕は愛の手の平を僕の胸に当てた。
「少し押すだけで、僕は愛ちゃんの前から消えるよ」
幼い頃の呼称で言ってから、僕は目を見開いた。
僕の胸に当てた愛の手に、別の誰かの手が重ねられる。
僕らより少し幼い、男の子の手。それは透き通っている。
比喩ではなく、本当に向こう側が透けている。
「…心太、兄さん?」
僕の声に反応して、その場に浮き上がるように現れたのは、いなくなった当時の心太兄さん。
「兄さんも、僕を恨んでるの?」
不安に掠れる声で言うと、彼は少し微笑んで、驚く愛の手をそっと、僕の胸から離した。
「愛、光、ごめんね」
愛が呆然と口を開く。
「お兄…ちゃん?幽霊?」
「少し違う。俺は神隠しにあった」
「神隠し?」
「そう。うーん例えば、お前たちの持ってるペットボトルが俺だとする。で、麦茶が俺の気」
心太兄さんは僕のペットボトルを指差す。
「き?」
僕は麦茶が半分に減ったペットボトルを見た。
「うん、気力とか、気配とかいうもの。それを。桜に半分だけ吸われた。全部吸われたら消えちゃうけど、半分だから消えない。そこに桜が自分の気を入れる」
「桜の、気…?」
「そう。それを水だとする。その半分になった麦茶に、水を足したらどうなる?」
「…薄くなる」
「うん、そう。そんな感じで、俺は今、とても薄くなってる。ここで生活できないほどに…」
「戻れるの?」
「桜の気を体から抜いて、新しく気を溜めれば」
「今どこにいるの?」
「気を溜めるのに適した所。でも、ちょっと心配になって、抜けて来ちゃった」
「気を溜めるのってどれくらいかかるの?」
「時間がかかるよ。元に戻るのは、もしかしたらお前たちがいなくなった後かもしれない」
「そんな…」
「やだよ。心太兄さん…」
「ごめんな。でも頼むから、仲良くして…」
心太兄さんの足が薄くなる。指先から消えはじめて、だんだん上へ上って行く。
「…時間切れだ」
心太兄さんは呟き、そしてついにはその姿のすべてが消えた。
その瞬間に、風が、桜を散らした。
「今の俺は半分桜だから、今なら桜たちを鎮めて、お前たちを無事に帰せる。早く帰れ。母さんが、心配…してる…」
心太兄さんの声は、か細くなって消えた。
僕たちは、頬を濡らす涙を拭わずに、抱き締め合うこともできず、しばらく泣いた。
家に帰った僕らは叔母に叱られながらご飯を食べて、順番に風呂に入った。
「どこ行ってたんだい?心太…」
「桜ヶ丘ですよ」
「盆でもないのに里帰りかい?」
「幽霊扱いしないでください。もう俺はここでなら実体を保てるんですよ」
「あたしの力の賜物だろう?」
「桜ヶ丘で、愛と光の前でも実体になれましたよ。薄かったけど」
「会いたい人に会えて、一時的に気の濃度が高くなったんだろうよ。なんにしても、ムリするんじゃない。いいね?」
心太は渋々頷いた。
「分かってます。もう気を溜めることに専念しますよ…」
「そうしな。…ああ心太?」
「なんです?」
「妹と従兄弟が無事で、よかったな?」
「…はい」
心太は目を細め、桜ヶ丘に思いを馳せた。
E
なんだか続きそうな終わり方ですが、一応短編ですので。笑