空
狭い筒の中に座っていた。
腕を少し左右に動かせば、壁に当たってしまう。自分の腕でできた影が暗く落ちて、シートの下は見えなくなる。
シートから伸びたベルトが、自分の肩や胸を押さえつけて、シートに固定していた。座り心地はよくない。安い合皮のごわごわとしたムラのある硬さで、すれそうだった。
前には斜めに切った鉄板がこちらを向いている。どれも遊系金属だが、重度が高い安物だ。
気圧式高度計はマイナスで停止している。対気速度計は、吹き付ける風で震えていた。コンパスは左に首をかしげ、水平計はまっすぐ左右に伸びている。流圧計は眠るようにピクリともしない。豆粒ほどの魔灯器がほんのりと光っている。魔導線の接続は良好。
深呼吸をして、顔を上げる。
目の前には風防の湾曲透板がビスできつく固定されている。多少の傷がある中古品だが、汚れひとつなく磨き抜かれていた。
首を曲げて、外に目を向けた。作業場は外装の残骸や工具で散らかっている。小さな採光窓から差し込む光が、舞う埃をちらちらと照らしていた。
機体の横腹から丸みを帯びた板が伸びている。直型飛翔板だ。
狭い座席の真ん中から突き生えている握りを掴む。
左に傾けると右の飛翔板の尻が割れて反り上がる。右に曲げると左が上がる。押すと、どちらも同時に下げている。
操縦桿から手を離し、シートの脇に生えるレバーを、一段下ろした。がくんと全体が揺れる。ネジのひとつも落ちていない。ひずんだところもない。
深呼吸する。
「大丈夫ですか?」
どこかふわふわした、しかし緊張にこわばった声が聞こえる。耳当てに埋め込まれたヘッドホンからだった。顎に巻きつけたマイクに触れて、笑う。
「俺は大丈夫。ユウラはどうだ?」
「ボクは平気です」
「さすが俺の相棒だ。よっしゃ、じゃあそろそろ行くぞ」
「は、ハイです!」
上ずった返事に笑い、左手の壁に据え付けられた握りを左手で掴む。
「開始」
マイクに声を吹き込み、左の握りを引く。
機体後部にある双口式の噴射口が開けられ、景色がゆっくりと後ろに流れていく。その流れが速くなり、機体が地面のへこみを踏んで揺れた。流圧計が面倒くさそうに左に振れる。
「ユウラ、力みすぎだ」
「ご、ごめんなさい」
「弱すぎ。緊張しすぎだ、リラックスして。いつも通りでいいんだよ。何度も練習したろ?」
「は、ハイ。大丈夫、頑張るです!」
減速していた機体が、またゆっくりと、一定の速度で動き出す。右に向いていた流圧計がほぼ真っ直ぐになる。やはり予定より速かったが、多少の誤差は織り込み済みだった。スロットルレバーを控えめに絞り、機体の速度を調整する。
がたん、と機体が大きく揺れた。同時に、機体が強い日差しに照らし出され、飛翔板がまぶしく輝く。
青が降ってくるような空の下、はるかに広がった平らな地面が、白線を引いて伸びている。
「東、風速ニーハチ。遊礫なし。最高の飛行日和だ、ユウラ隊員」
マイクに声を吹き込むと、くすぐるような笑い声のあと、明るい声が返ってくる。
「フライトは絶対成功するような気がするです、隊長!」
「同感だ」
笑みを刻んで、スロットルを予定通りに開けた。
左右に目を配る。
破線に翼端が重なって見えるタイミングで、右手のレバーを落としてギアを軽くする。機体はギアの重さの差に従って、ゆっくりと機首を曲げていく。景色が左回りにめぐって行き、道路の突起を掴んで機体が揺れる。機体を支えるギアが甲高くきしんだ。
はるか真っ直ぐに伸びた道路の中心を、白く輝く線が貫いている。
機首がその線に少しずつ重なっていく。
同時に胸も痛いほど、うずくほどに高鳴っていた。叫びだしたいのをこらえて、左右のギアを落とし同じ軽さにする。
機体は白い線にぴったり重なり、地面を走っている。作業場をはるか後ろに押し流していく。左右の破線とは完全に平行だった。
ギアを一気に押し倒した。
機体は鎖から解き放たれたように地面を走る。
速度計が驚いたように揺れる。
飛び出しそうな気持ちを抑えるように、小さな出っ張りで機体を激しく揺らしながら、速く速く滑走路を走っていく。全身を襲う衝撃は強く、ギアや飛翔板がバラバラになるかと思うほどだ。
遠くのフェンスが模様を変えていく。
速度計がみるみる右に振れていく。
放たれた矢のように、陽光に輝く機体は真っ直ぐ駆けていく。
スロットルを一気に開いた。
すべての音が消えた。
最高の気分とともに、重苦しい大地のしがらみを捨てて、機体は風を掴んで舞い上がる。
快哉を叫びたかった。立ち上がって踊りだしたかった。
その気持ちを機体に伝えるように、ギアを一番軽くしてウィンチを回す。ワイヤに引き上げられ、地面に突き立って機体を支えるギアが機体に格納される。太い支柱とタイヤが、足の両脇に傾いで引き込まれるのが見える。
その隙間から、眼下に広がる崖とへばりつくように積み重なった家々が見えた。ランディングギアが完全に格納され、狭い座席がさらに狭くなったが、贅沢は言えない。
邪魔な足をしまった機体はウキウキと踊るように、風を切って空を翔けていく。
スロットルを少し閉め、操縦桿を引いた。
機首が突き抜けた青空を指す。機体が傾いただけで、世界の景色はいささかも変わったようには見えなかった。ただ高度計と水平計だけが孤独に変化を告げている。
見渡す限りの青空と、遠くに泡ぶくのような白い雲、空に撒かれた黒い星のような浮遊島。
まるで自分が空とひとつになったような、風の一部になったような充実感が胸を占めた。叫んだり踊ったりするような無粋を働く気は、大地に置き去りにしてしまった。
ただ少しでも風を舞う感覚を充実したくて、強く操縦桿を握り締める。
操縦桿を左に引いて、機体を傾けた。ゆったりと旋回する機体から背後を振り返る。
飛び去った浮遊島と滑走路、そして街と港が、黒い巨岩にみすぼらしく張り付いていた。見捨てられた鉄くずのように、空に取り残されている。
空のなかを突き進む機体の下に、青空しか存在しない。
「やりました! ボクたち、飛んでるです!」
ヘッドホンから、はしゃぐ声が聞こえてきた。笑って、傾きを戻す。流圧計ははしゃぐのに合わせて踊っている。マイクに触れて、叫び返した。
「当ったり前だろ、ユウラ! 俺たちが作った飛翔機なんだ、飛ぶに決まってる!」
「そうです、その通りです! ボクたちは最高の機巧技師です!」
快哉と笑い声を上げて、飛翔機は高く飛んでいく。
風だけが彼らを包んで、世界の鎖から守っている。
空を飛んでいるのだった。
空が飛びたかった。だから書いた。それだけです。
最高。