The Sales Man
父さんが出かけるとき、母さんはいつもとびきりの笑顔で送り出して、でもドアが閉まった瞬間、その背中の哀しそうな様子ったらないんだ。
父さんには決して見せない背中。でも、ぼくにはわかってしまっている。母さんは、いつも無理をしていたってことが。父さんが「仕事」に出かける夜になると、とても淋しそうな目になるってことが…。
父さんは、2~3日に一遍、明け方に帰ってくる。帰ってきた父さんは、もうボロ雑巾のようによれよれに青ざめてて、タバコとお酒の匂いがすごい。そして倒れるように布団に潜りこむと、昼間はずっと寝てて、次の日の夜にまた出かけていく。
父さんはセールスマン兼エンジニア。しかも会社で一番の売上げ成績だと聞いてるので、そんな父さんは、いつもぼくの自慢。東京中を電車で走りまわっては、地図についての特殊なソフトウェアを売ってるんだって。
父さんは元々落ち着きのない性分らしくて、事務所の中で一日中、ウジウジ仕事をするのに耐えられないらしい。街で人と会って話をする、このセールスという仕事が大好きで、眠りから覚めた休みの日には東京のいろんな街、町の魅力を、目をキラキラさせて話してくれる。
「いいかい? 品川はね、東口が栄えてる。ビルが沢山並んでて、美味しいレストランがあって…/六本木はね、週末の夜がいちばん素敵なんだ。高く聳えるミッドタウンにヒルズ…/外苑前の緑もきれいでね…/東陽町の公団住宅群といったら…/何といっても新宿だろう…/大崎にも、最近ショッピング・センターができてね…/浜松町、大門から見える東京タワー…/銀座の人たちはなぜか小ぎれいでさ…/神田から秋葉原にかけての通りのネオンといったら…」
ぼくが、「そんなに沢山の所に行って、疲れない?」と聞くと、嬉しそうに、
「父さんは、この仕事が好きなんだ。電車と旅と、一期一会。毎日が出会いの連続。素晴らしいじゃない」
「イチゴイチエ…?」ぼくが聞くと、父さんは顔中が笑いみたいになった。
「人生短いんだから、限りある他人との出会いを最大限大切にしよう、ってこと。この仕事ってさ…相手の人生の中の、ある一定時間を、確実に一緒に過ごす訳だ。素晴らしいじゃない。相手の時間を、頂戴する訳だから。こんな贅沢なことって無いよ」
母さんには内緒だけど、ぼくは父さんが街中のホテルを独り泊まり歩いていることを知っている。
父さんは、人と会うことに疲れると、それ以外の時間はよっぽど一人でいることが好きみたいで、とても寂しい、しなびたホテルに泊まる。駅前や繁華街の裏手にあるカプセルホテルやビジネスホテルがお気に入りで、寝る前にTVを点けながら独り携帯のトランプ・ゲームをするのが一番心が落ち着くって言ってた。
「街の中にいる限り、父さんは恐くない。“都市の孤独”なんて言うけれど、隣の部屋のTVの音や咳払いを聞き、ホテルの窓越しの眩いネオンを眺めるだけで、わくわくしてくる。街の活気!人類の英知と営み! 街の灯は素敵だよ。かえって人が愛おしくなるんだ」
しかも、売り上げは順調に伸びていたから、お金の心配はない。会社支給のクレジットカードがあれば銀行なんて行く必要がないし、ホテル代や夕食代は、会社の経費で出ると言っていた。もう、自給自足。ぼくらの生活費はもちろん、お給料として出る。
「街は、何でも揃う。誰でも居る。ずっとお前たちに会えなくても、寂しくはないよ」興奮して喋る父さんの目はギラギラ怪しく輝いてて、母さんがいつも「心の病気みたい」って言ってるのはきっとこんな目つきなんだろうな、って思う。
けれど最近、父さんは、「疲れた、疲れた」と言ってばかりいる。家で寝ていても、ずっとうなされている。夢の中で、お客さんと喋ってるみたい。
また、夜中に上司から携帯に電話がかかってくることもしょっちゅう。起き出しては、電話口で怒鳴ってるんだ。
仕事から帰ってくる度に、父さんの顔がやつれ、白くなっていくのが分かる。
「もうそろそろ仕事辞めて、ここでゆっくりしてもいいかな…」父さんが言うと、皿洗いしながら母さんは一瞬、顔を輝かせる。でも、次の瞬間には、とても複雑そうな目に戻る。
「バ、バカね…好きなんでしょ、仕事? 戻ってきてどうするのよ」
誕生日に、ぼくは父さんから都内の鉄道路線図を貰った。とても大きくて複雑で、人の血管の網目のように細かく張り巡らされた線路たち。ぼくは興奮した。父さんが言うように、それぞれの町や駅から、人々の生活が浮かび上がってくる気がしたからだ。
「今、父さんは、京浜東北線に乗っている。新橋を出たところだよ。澄んだ青空に、汐留のビルがとても綺麗だ。直接見せてやることができなくて、本当に残念だ…」そんなメールが来る度に、ぼくはワクワクしながら地図を開く。そして父さんのいる場所をなぞる。「ここを今、父さんが走っている…」
ある夜、牛乳を地図の上にこぼしてしまったぼくは、牛乳を拭きながらニュースを見ていた。先ほどから降り出したにわか雨によって、近くの川の氾濫により、私鉄が止まったと言っていた。地図を見ると、牛乳のシミの場所とぴったり。
ぼくは、とてもびっくりして、母さんにそのことを伝えた。けど、母さんは笑って、「ばかねぇ…」優しく笑うと、お芋の皮むきに戻ってしまった。
夜中の電話が頻繁に鳴り出したのは、ここ数日のことだった。
父さんは目を血走らせ、それこそもう、毎回狂ったように怒鳴り散らしていた。そして全く眠れずに仕事へ向かう日々が続いた。
家に帰る日も、五日に一日、一週間に一日と、どんどん減っていき、しくしく泣く母さんと口論しては、父さんもわんわん泣き散らすありさま。
もう、父さんの精神状態もボロボロだった。
「あの人を、もう、休ませてあげたい…」まさか母さんの口から、そんな言葉が飛び出してくるなんて、ぼくはそれこそもう、本当に悲しくなってしまった。
ある朝、TVニュースの音がうるさくて、ぼくは目覚めた。
珍しく母さんが起きていて、TVの前でしくしく泣いている。
ニュースでは、山手線が脱線事故を起こし、人がたくさん死んだと報じていた。原因不明の線路の断切によって死んだ人たちの名前の中に、父さんの名があった。
母さんのもとに駆け寄ると、そこにぼくの鉄道路線地図が置いてあった。その脇にはカッターが置かれ、見ると山手線の、新宿と渋谷の間に小さな切れ込みが…。
「母さん…!」ぼくは叫んだ。「父さんは…父さんは、こんなこと望んでいなかったと思う!」
「だって…だって…」目を真っ赤にして、母さんは申し訳なさそうに言った。「あの人…可愛そうで…見ていられなかったんだもの…」
「父さんは、ひょっとしたら、早くぼくらと暮らしたかったかもしれない…。けど…けど、まだまだ仕事がしたかったと思う。電車に乗っていたかったと思うよ!」
ぼくはとっさに地図をつかむと、自分の部屋へ持って行き、消しゴムで、山手線とぼくらの住む町を結ぶ路線を消した。それから、勢いにまかせて、他の路線、JRや私鉄、地下鉄を、全て消していった。ゴシゴシと、ポトポト落ちる涙といっしょに…。
その日、やっぱり父さんは帰って来なかった。いや、これから先、ぼくらの家へ帰って来ることは無いと思う。
だって、ぼくが自分で決心して、父さんの家への帰り道を消してしまったんだから。
母さんは哀しんだ。とても哀しんで、三日三晩、ベッドから出てこなかった。
けど、ぼくはこれでいいと思っている。山手線に閉じ込められても、父さんは幸せなんだ。だって、これからずっと、大好きな街々を巡っていられるんだから。しかもストレスもなく、それこそ終点もなく、延々と。
母さんはぼくが守っていく。この世界で、これからもずっと。だから父さんには父さんの世界で、じぶんのしたいことをして生きていって欲しいと願っている。
時々、父さんからぼくの携帯にメールが来る。
「元気か? 父さんも元気だ。相変わらず、新宿とか品川とか、ぐるぐる回ってる…。お前たちと暮らせなくてやっぱり寂しいけど、これはこれで、仕方ないんだと思う。昔お前たちにしてしまった事を考えると、父さんにはそんな資格、まだないだろうし。それに、この街は、子供を育てる場所じゃない」
ぼくが「こっちも相変わらず、一日中夜みたいに真っ暗だけど、そっちは賑やか? 人がたくさん居て寂しくない?」ときくと、父さんからは、画面からも喜びが溢れ出てくるような返信が届いた。
「ああ。とっても賑やかだ。街と人いきれに囲まれて、今でも毎日が楽しいよ。世の中は大変なものだけど、街は楽しい。世界は美しい。人生って、素敵なものだよ…」
2007年11月4日に書いた作品です。