4 運試し
なじみ深い屋根が見えてくると、琴が落ちつきなく玄関をうろうろしていた。雫玖が琥珀に抱えられているのを見、走り寄ってくる。
「姫さま、その御姿は、いったいなにが。東宮へ行かれたのでは」
「後で説明する。ずぶ濡れだけど、とりあえず無事だから。今は琥珀と話をさせて」
これは何を言っても無駄だと悟ったのだろう。琴は椅子と机ばかりの簡素な応接間に二人を通すと、戸口で一礼した。
「すぐに着替えをご用意いたします」
「ごめんなさい、ありがとう」
ばたばたと遠のく足音。椅子に降ろされ、ふと両手が震えているのに気づく。落ちつけ。阿南に妙な呪いをかけられただけだ、自分はなにも失ってはいない。
「そうだ、琥珀、あなた怪我は――」
言いかけてあんぐりと口を開けた。青年はもう投剣を引き抜き、無造作に卓上へ放り出していた。前合わせを開いて肩を晒せば、傷口は肉が盛り上がり、すでに塞がりかけている。
「嘘でしょっ、なんで。手当もしていないのに」
「俺はこういう特異体質でね。おおっぴらに言わないでくれよ、大騒ぎになるから」
元通りに襟を整え、ぶすっとした顔が、いたずらを咎められた悪童のようだ。思わず吹き出してしまう。笑っているうちに、さざ波だった心が凪いできた。
「わかった。それ、兄さまは知っていたの?」
「ああ、知ってた。それより雫玖、その髪……、阿南王子にやられたのか」
気づかわしげな視線を感じて頭に手をやる。お気に入りの銀簪を抜いてみると、足が折れ曲がっていた。どうやら髪もぐちゃぐちゃなようだ。はあ、と深く息をつく。
「――告白されたの」
「え?」
「好きだ、妾になれって」
「……あの阿呆王子はそんな理由で、よりにもよって、その因果の楔をはめたのかよ」
琥珀がするどく左手首を指す。声は静かだったが、いつも冷静な鬱金の瞳が不穏に輝いていた。ぴんとくる。これは予想外に、まずい状態なのかもしれない。
「ねえ、この蛇、そんなに危ないの? 今は冷えた鉄みたいに固まっているんだけど」
「見た目の地味さは問題じゃない。その蛇はかつて東の大国を一日で滅ぼしたという、破壊神の呪詛でできている」
ぞわり、背筋が寒くなった。――大国を一日で滅ぼした?
「なんでそんなこと、見ただけでわかるの」
「あのな。俺は大師だぞ。とにかく絶対に、無理に外そうとするな。命に関わるから」
雫玖は額に青筋を浮かせながら話す琥珀を、まじまじと見やった。
「そんな……じゃ、わたし阿南の妃になるって、もう決定ってこと?」
すると青年の動きが止まった。つかの間の沈黙。
「そのまえに、あんた自身は、あの王子をどう思ってるんだ」
「阿南? えーと、小さい頃は大嫌いだったけど、今はまあまあ嫌い。だってあいつ、すぐ高瀬兄さまをけなすのよ。それに俺様だし、しつこいし」
「そうじゃなくて。つまり、男として見た場合だよ。好きなのか?」
「えええ、阿南を?」思いきり顔をしかめてしまう。「ごめん。正直わたし、恋愛とか今まで興味なくて、全然わからない。ただ……そうね、恰好いいか悪いかってなら、琥珀のが断然、恰好いいと思う」
上目づかいに見やると、相手は豆鉄砲を食らったような顔になった。
「あれ、ちがった? 待って。ええとね、好きか嫌いかで比べたら、うーん、琥珀のほうがずっと好きかも」
「ちょ、待て。なんだよそれ、やめろ、俺といちいち比べるな」
なんでそんなに赤くなって慌てているのだろう。雫玖は唇を尖らせた。
「だって身近な男の人って言ったら、あと霜葉さまと、波布叔父さまくらいしか。あ、真雪もいたか」
「っ、もういい、この話は止めよう」
琥珀は眉を寄せ、気恥ずかしげに雫玖の肩をつかんだ。先ほどまで不機嫌だったのに、すっかり毒気が抜けたような顔だ。
「とにかく簡単に諦めて、すぐ王子の妻になろうなんて思うな。蛇は形代、つまり本人の身体の一部を与えれば仮封印できる。それに俺は呪詛の解法を知っている奴に一人、心あたりもある。って、おい、なにを」
「え? だって、形代がいるんでしょ?」
雫玖は髪をほどくと、卓上の投剣を取った。
「こ、こら、待っ」
躊躇無く髪に刃を入れ、引き抜く。それから落ちた毛束を琥珀の手に落とした。
「これでお願いできるかな、仮封印」
「雫玖……っ、あんた、ためらいがなさすぎだろ」
絶句する琥珀を見て、少しわかった気がした。この青年はさっきから雫玖の心配しかしていない。いつも冷静で利己的な印象だけれど、本当は懐深い人なのだ。
「なあ、よかったのか、髪を下ろして。俺は高瀬に『長髪は奥宮では、女性美の象徴だ』と聞いていたんだが」
「ああ、それ。よく言われてる話よね、知ってるー」
雫玖はからからと笑ってみせた。
「でもわたしはね、自分が美しいかどうかは、このわたしだけが決められる権利だと思っているの。だから押しつけの奥宮常識や他人の評価なんて、はっきり言って興味ないでーす。毎朝、髪結うの面倒だったし、さっぱりしてちょうどよかったわ。以上」
「……なるほど。あんたの言い分はよくわかった」
琥珀はなにかを考えるそぶりで、雫玖の手の黒蛇に緑髪を巻きつけた。
「とりあえず、まずは仮封印をする。じっとしてろ。『諸諸の禍事罪穢有らむをば、祓え給い清め給え――封』」
呟くと手首が一瞬光り、たちまち毛束が蛇の身体に吸収されていく。
「えっ、これだけ? もう終わり? 早っ」
「ああ。ただ、この封印はあくまで仮処置だからな」蛇は自分の尾を噛んだ形で固まった。「薬を飲むように、定期的に術を施さないと効力が薄れちまう」
「それでもいいわ。助かった、ありがと琥珀」
雫玖は少し笑った。きっとこの髪を見たらまた、そんなじゃお嫁に行けませんと琴の小言が始まるだろう。奥宮はなにかと窮屈だ。もっと自由に生きられたらいいのに。
「あーあ。でも困ったわよね、肝心の真澄鏡が壊れちゃって。これからこの国はどうなるのかしらねぇ。龍と交信できなくなったって知ったら、他国が攻めてきたりして」
「雫玖は自分の身より、国が心配か」
「そりゃ、ね。だって国が乱れたら何百人、何千人という民が生活を脅かされるのよ。王女一人と大勢の民じゃ、どっちが大事かなんて考えなくても決まっているじゃない」
「……あんた、やっぱり生粋の姫さまなんだな」
しみじみと感心したように琥珀は息を吐いた。それから決意したように顔を上げる。
「わかった。じゃあ一つ、提案がある。俺と鷲蓬山に詣でて、運を試さないか」
「え? なんの話?」
「あの山の頂には、龍が湧かせたと言われる無熱湖がある。その湖底には龍門があって、龍神たちの支配する蒼海国へとつながっているんだ」
雫玖は耳を疑った。
「どうしていきなり、そんな提案をするの」
「蒼海国には、黒蛇を外せる青龍がいる」
「あ。さっき言っていた心あたりって、その龍?」
「ああ。それに上手くいけば、新しく真澄鏡用の宝鱗をもらえるかもしれない」
「嘘。そんなことが可能なの?」
雫玖は首をかしげた。平生なら到底考えられない、奥宮の姫が都の外へ出るなど。でも今はたまたま神器が無くなるという国の一大事が起きている。蓮国のために宝鱗を取りに行くという名目なら、あるいは波布王も外出を許すかもしれない。
「……そっか。ちょうどいい具合に、わたしは王族で霊香院付の身分だから、龍に嘆願しにいくには最適者ってこと?」
「ああ、そうだ」
「前から奥宮の外に出たがっていたし、龍に直接、直談判もできる好機なんでしょ」
「物わかりがいいな」
雫玖はしげしげと相手を眺めた。
「なんだよ」
「感動したの。琥珀ってやっぱり英才だわ。前に兄さまが絶賛して『宰相にしたい』って言っていたけど、今、とても納得した」
すると青年は視線をそらし、なんとも面はゆそうに首に手をやった。なるほど。この大師、嫌味な物言いにはめっぽう強いが、真正面からまっすぐ本心をぶつけられると弱いのだ。ひねくれている。でも可愛い。頬が緩んでしまう。
「なんて顔してるんだよ。褒めてもなにも出ないぞ」
雫玖のまなざしがこそばゆくなったのか、琥珀はしだいに早口になった。
「その呪詛は仮封印していても、早く外さないと寿命を吸いかねない。雫玖が良ければ、さっそく手続きにかかるが、いいか」
「いいわよ」
「じゃあその間、あんたはまずゆっくり休め。阿呆王子とその侍従が来ないように、磬宮に結界を張っておく。ぴょんぴょん飛び跳ねずに、じっとしてろ。外に出るな」
「わかった」
応えると琥珀は軽く頭を撫で、そっけなく部屋を出て行ってしまう。あいかわらず淡泊で内心が読めない。けれど、その背の隣に、亡き兄の姿をかいま見た気がした。
高瀬は努力家で秀才だったが、冴えた頭脳は持ち合わせていなかった。それでも持ち前の人当たりの良さで、適材適所に要人を配せる能力には長けていたと思う。琥珀もしかりだ。思わずほろりと呟いていた。
「……やっぱり阿南は、王の器じゃない。ああ兄さまに、王になってほしかったな」
兄を中心に、有能な人材たちが生き生きと働く様を見てみたかった。その末端に気まぐれに加わって、蓮国のため有益なことができたら、どんなに楽しい人生だったか。
「わたしって、阿南にかしずいて側妃になるほどには女になりきれないし、かと言って男勝りに第一線でばりばり働きたいってほど、仕事に夢もないのよね」
良縁を夢見る琴には申し訳ないが、世の中にはいわゆる男らしくも女らしくもない、あくまで自分らしい人生を送りたいという、第三勢力というのがいる。雫玖がまさにそうだ。そして高瀬はそんな妹の性格を否定せず、受け入れてくれていたのに――。
ひょっとしたら鷲蓬山詣では亡き兄から妹への、最後の贈り物なのかもしれない。
「運試しかぁ。わたしの運命を試しに行く。うん、なんだか今、一番楽しそうな選択かも。琥珀、わたしの性格をよくわかってるじゃない」
気づくと雫玖は額に手をやって微笑んでいた。




