3 呪《かしり》
正午を知らせる鐘の音を遠く聞きながら、雫玖は磬宮の戸口を行ったり来たりしていた。神鏡が割れるという一大事に、外廷はてんやわんやの大騒ぎらしい。今日ばかりは奥宮の誰もが、自分の宮に足止めされている。
――どうか姫さまは、部屋から一歩も外に出ませんように。下手な嫌疑がかけられたら一大事ですよ。隙をみせてはなりません、私が内情を探って参ります。
そう言って琴が出て行ったのは、何刻前だったろうか。なにもわからないまま、ただ時だけが無為にすぎていく。
とにかく自分でも考えてみよう。雫玖はうろつくのをやめ、近くの椅子に腰掛けた。
蓮国の真澄鏡にまつわる逸話は、この国の人間なら誰でも知っている。
その昔、蓮国北東にある鷲蓬山には、老齢の紫龍が棲んでいた。この気難しい龍と唯一、心を通わせられた少年がいた。名を加那汰という。二人は仲良く暮らしたが、長年患っていた紫龍はある時、ついに山を離れる決意を固める。その際、龍は加那汰少年との別れを惜しみ、自らの宝鱗を四枚与えた。
――鏡を用意せよ。そうして、この鱗を四方に貼り付ける。そうすれば、そちはいつでも、我と対話できるぞ。
けれど紫龍が消えたあと、鷲蓬山には役人たちが租税を徴収するための関所がおかれた。これが原因か定かではないが、その後、紫龍は山に戻らず、少年は鏡を携えて都に上った。そして猛烈に努力し、初代霊香院大師にまで登りつめたのだ――。
その鏡が割られた。
今までこうだと思いこんできたものが覆され、雫玖はすっかり混乱していた。
だって、兄を弑したのは王妃か、その外戚だと踏んでいたのに。
今の王妃の息、阿南王子は、立太子の儀を経なければ正式な王太子とは認められない。ゆえに魅音一派はけっして鏡を壊さないはず。となると考えられるのは、王妃たち庚国の影響力を排除したい者の仕業か。だとすれば、それは誰だ。
現在、表立って対立しているのは真雪の父、錏将軍と、歳破内大臣の派閥だ。しかし将軍家は、王に側室を輿入れさせていない。つまり阿南の代わりの王子を立てる計画は、そもそも将軍には立てようがない。
「ちがうっ。錏将軍は、小賢しく頭を働かせるより、物理的な力押しが好きそう」
では歳破内大臣だろうか。奥宮に縁戚を配していない内大臣は、かつて高瀬王太子の後見だった。内大臣は蓮国の南、壬国と独自に交易しており、雫玖の父王とも懇意だったが、兄を失った今、良い手札を失った。
「歳破内大臣もちがう。あの人は逆に、もっと腹黒でこみいった手段を使いそうよ」
では波布王の愛妾で、第二王子を生んだ夕影妃の外戚が犯人だろうか。
「いや、これもちがうかな。夕影妃って、漆って没落礼拝師家の養女で花街上がりだし。それに太鳳王子はまだ三歳、真澄鏡の試しを受けられる成年には、達していない」
思い当たる人物を疑い出せばきりがない。だが、どの者にもそれを打ち消す事情がある。ぶつぶつ呟き、爪を噛んで足を揺すっていると、唐突に戸口から声がかかった。
「失礼します、雫玖さま。阿南さまの命にてお迎えに上がりました、豹叉と申します」
はっと顔を上げると、色黒の武官が室内で深々と拱手している。この人もたしか漆氏一族の出の。今まったく音がしなかった。額に金の額環をしているのが目につく。
「以前お約束した件について、王子が直接ご報告を頂きたいそうで」
「悪いけど、今日はちょっと、それどころじゃないんじゃない」
「ええ。何者かによって神器が壊されたため、至急お話ししたいこともできたからと」
どうしようか、まだ琴も戻っていないのに。でもあの阿南王子は、兄を暗殺した真犯人を知っていると言っていた。今、王城で何が起きているのだろう。知りたい。元々、探求は好きな性分だ。急に衝動を抑えきれなくなった。
「わかった。行くわ」
茶卓に走り書きを残すと文鎮を置き、そのまま豹叉について磬宮を出る。東宮はかつて兄がいた処だ。もうあのころには戻れないとわかっていても、心が弾み出す。
「あなた、よくこんな脇道を知っているわね」
「……阿南さまも時折、花園で憩う雫玖姫に逢いに来ていましたので」
「え?」
「たいがい高瀬王太子とその側付がいらしたので、黙って引き返されていましたが」
それはいったい、どういう意味なのだ。のしのしと歩く背中を早足で追いかけるうち、目前に東宮の屋根が見えてくる。
「豹叉、なんで表から入らないの?」
武官が迷いなく裏口に回るので、息を弾ませながら問いかけると、
「ああ、とにかく他の目につかないようにせよとの、主の仰せでして」
そのまま階段を上がり、門を抜けて建物に入った。厨房を抜けて私室のほうへと進んでいく。かつて兄が愛でた池は柔らかく日光を反射して、細長い廊下にゆらゆらと模様を描いていた。
「阿南王子。雫玖さまをお連れしました。お通ししてよろしいですか」
やがて大きな花窓のついた部屋にたどりつく。豹叉ははっきりした低音で告げた。
「待ちかねたぞ。通せ」
「では私はこれにて失礼します。どうぞごゆっくり」
そうして雫玖は一人、王子の寝室に取り残された。
高瀬が使っていた時より華美な螺鈿の円卓。天蓋付きの寝台。壁に掛かった墨絵と象眼細工の調度品。寝着のまま正面の円椅に座っている阿南は、どうやら昼間から酒を飲んでいたようだ。食卓に硝子杯が置かれている。
「昼間から飲むと身体に毒よ、阿南」
「試しの鏡がなくなったのだぞ、これが飲まずにいられるか。それにこの葡萄酒は甘くて軽い。おまえも飲むか、雫玖」
「いい、いらない。それより、兄さまを殺した犯人って誰?」
「つれないやつだな。いいから、その椅子に座れ」
阿南の眉が寄る。指し示された先には扶手椅があった。しぶしぶ向かい合う形で席につく。しかし話はいっこうに始まらない。なんだろうこの間は。沈黙にたまりかね、雫玖は声を荒げた。
「なによ、人の顔ばっかりジロジロ見て。なにか文句でもあるわけ?」
もしや頼まれ事について、なにも吉報を得られなかったのを、責められるのかも。すると、なぜか阿南のほうが慌てふためいた。
「いや、じつはおまえに問いたいことがあってな。まずは私の質問に正直に答えろ。今朝、鏡を割ったのは誰だ?」
「えっ、知らない。知るわけないじゃない」
「……おまえじゃないのか」
「はあ? なんでわたしを疑うの?」
「なぜって、それは……、高瀬が死んだ腹いせに、私を窮地に陥れようとしたとか」
雫玖は目を見開いた。ついで手のひらに拳を打ちつける。
「なるほどね。うん、たしかに一理あるかも。朝からずっと下手人を考えていたんだけど、そっか、わたしも疑わしいんだ!」
だから琴は磬宮から出るなと言ったのか。とはいえ、もう東宮に来てしまったが。
「まったくおまえは。そこで納得するな」
「なんで? でも阿南、そう言うあなたは、どうやら割っていなさそうね」
「おまえっ、もしや試しを受けるこの俺までも、疑っていたのか?」
「うん、一応。でも動機がないなーと思って」
すると阿南は、疲れたように息を吐いた。
「おまえは昔から、そういう性格だな。女のくせにひどく合理的で、割り切りが早くて。言葉遣いも最悪だし、ありていに言って偏屈だ。しかもかなりひどい。だから『奇異の姫』などと影口を叩かれる」
「ちょっと。本人を前に、いろいろと失礼ね」
「しかし、まあよい。これで疑いは完全に晴れたわけだ――」
阿南は指で頬をかくと立ち上がった。つ、と雫玖に近づく。ついで両手で肘掛けを掴まれ、椅子に閉じこめられる形になった。
「阿南? え、なにしてるの?」
「呼び捨てにするな。兄さまと呼べと言ったろう」
阿南の影が顔に落ちてくる。そのまま頬に口づけられて、ぞわり、背筋が粟立った。
「なにするの、やめてよ!」
「……好きだ」
「は?」
「おまえが好きだと言っている」
「え、ええ? なに、どういうこと、新手の意地悪?」
「っ、どういう反応だ。だいたい私は、幼い頃からおまえ一筋であったのに。おまえはいつも高瀬、高瀬とあの憎たらしい美男ばかり見ておって」
はっとした。身体が動かない。なにこれ、肘掛けになにか術を仕掛けられていた。
そのまま人形のように阿南の胸に抱き寄せられる。首筋に荒い吐息がかかった。
「ちょっ、やめ、じゃあ、なに、あなたがわたしを呼びつけた、本当の理由って」
ようやく今の状況を理解して、全身が硬直する。
「そうだ。邪魔な兄は消え、おまえにはもう頼る者もおるまい。だから私がもらい受けてやろうと言うのだ。私の側妾となれ、雫玖」
「はい?」
「母上が反対するだろうから、正妃にはしてやれぬ。だが私なら一生、おまえを不自由なく囲ってやれる。どうだ、悪い話ではないはずだ」
粘着質な熱いまなざしに息を飲んだ。きもい。しっかり男の顔になっている。
「無駄な抵抗はせず、このまま私に抱かれろ。既成事実さえ作ってしまえば、あとはどうにでもなるはず」
引きずられるようにして寝台の上に投げ出され、頭が真っ白になった。
「いやっ、なんで昔からそうやってすぐ人の嫌がることばっかりしようとするの、絶対に嫌だから! やだやだやだーっ」
「そうやっておまえこそ、いつも強情で頑固で生意気で。王子の私にむかって、まったく忖度もせずに、いつも本心を言いたい放題で……っ」
阿南が袖口からなにかを取り出す。ついで首に紐のようなものが巻きつく。ぎょっとして手をやると、ぬるりとした粘液が指に張りついた。――蛇? 黒曜石のように光る鱗の。
「だが、そういう裏表の無いところが他の女とちがって、どうにもそそられてしかたがない」
「や、やめて、なにをするの」
「この蛇が、ただの毒蛇だと思ったら大間違いだぞ。主の命しだいで動き、対象者を絞め殺すこともできるらしい」
阿南の言葉どおり首が閉まっていき、雫玖はうめき声を上げた。この蛇、式神だ。まっとうな生き物ではない。阿南はなんで、こんな呪札を持っているのだろう。そうか、もしやあの豹叉とかいう護衛から手に入れたのか。
「あっ、阿南、っ」
「なんだ、ああ、苦しくて話せないのか。首はさすがにきついな、よし、移してやろう。安心しろ、大人しく従えば可愛がってやる」
蛇が首から左手首へ、ぬるぬると移動していく。雫玖は息を吸って咳きこむと、涙目になって相手を睨んだ。
「あ、あなたね、いつもこんなふうに女の人をつれこんで、無理矢理、言うことを聞かせてたの? いいかげんにしなさいよ、この下卑王子! 変態! 最悪!」
「それはちが……、私が欲しいのはあくまで雫玖、おまえだけで」
「嘘っ。どうせ、高瀬兄さまへのあてつけなんでしょ。なんでわたしを王子同士の競争の道具にするの? 阿南のそういうところ、大っ嫌い!」
怒鳴りつけると、相手は苦い薬を飲まされたような顔になった。しまった、言い過ぎた。しかし、投げつけてしまった言葉はひるがえせない。
「……はは、十年越しの想いを伝えた答えが、大嫌いか」乾いた笑いが相手の口から漏れた。「そうだな、私は高瀬が大嫌いだった。なぜなら何度、頭を下げても、あの男は私に妹をくれてやると言わなかったからだ。どころか手の届かぬ磬宮へしまいこんで。おかげでこんなに長く、待つ羽目になってしまった」
阿南はもはや、内に秘めた羨望と嫉妬を隠そうとしなかった。
「だから今、私はひどく高揚している。あのいけ好かない男の鼻を、こうして明かしてやれるのだから」
怖い。なにもできない。いくらもがいても、足を突っ張っても、力の差は歴然としていて。王子の指が、舌が、せわしない手つきで雫玖を蹂躙していく。
「雫玖、蛇がいるかぎりもう、おまえは私から逃れられない。どこでなにをしていようが、おまえは私のものだ」
嫌がれば嫌がるほど、相手が興奮するさまがひどく恐ろしく、必死にもがく手が袖口の間のものを掴んだ。――これは。しゃにむに引き抜き、力のかぎり叫ぶ。
「『解!』」
とたん、寝台は盛大に水しぶきまみれになった。
うわっと声を上げる阿南を押しのけ、一目散に部屋を飛び出る。
「ごめんね阿南、でもわたし、やっぱりあなたのことは従兄としか思えないっ」
廊下を抜け、子鹿のように全力で走って走って、勝手知ったる東宮殿の裏口を抜けた。裸足に玉砂利が食いこんで痛い。しかしそんなことを言っていられない。花園目指して突っ走る。ところがその手前の回廊で、派手につんのめった。足首に見えない糸が引っかかった、そんな感触。
「……まったく。阿南王子も、とんだじゃじゃ馬に惚れこんだものだな」
この声は。地に這いつくばったまま後ろを見やり、身体中の力が抜けてしまう。やはり豹叉だ。どうしよう、連れ戻される。
「いいですかい、お姫さん。その蛇がついているかぎり、あんたはもう王子の所有物なんだ。主が命じれば、瞬時にその白い手も千切れ飛ぶ」
武官の口調は打って変わったようにいい加減だった。目をやれば、いつのまにやら蛇は何重にも手首に巻きつき、腕輪のように固まっている。
「しかも、そんなびしょ濡れで、よくも屋敷の外へ出られたものだな。さすがは奇異の姫、恥じらいが足りないねぇ」団子に結った髪をわしづかみにされ、すごい力で引き起こされる。「ま、それでも主のお気に入りだ。おとなしく戻れば赦してやるよ」
身がすくんで動けなかった。なんだろう、この豹叉という男、本当にただの人間か。
「――誰が誰を、赦すって?」
その時だった。ざわざわと周囲の並木がさざめき、どどう、一陣の風が吹いた。
「雫玖を離せ、この下郎」
「琥珀!」
忽然と姿を現した青年が歩み寄ってくる。目を見張った。嘘。背から虹のような霊気が立ち上っている――、霊力の強い者はそうなると聞くけれど、初めて見た。
「おまえはたしか、高瀬の側付だった」
豹叉は乱暴に雫玖を放り出した。
「ああ。今は霊香院で姫の師を勤めている。だよな、雫玖」
無造作に背子をかけられ、子犬のように頭を撫でられて、思わず琥珀を仰ぎ見た。
「水鞠札を使ったのは正解だったぞ、雫玖。あれであんたの正確な位置がつかめたからな。よく耐えた、もう大丈夫だ、安心しろ」
べそをかいて口を歪ませていると、いたわるように肩を叩かれた。
「さてと。では阿南王子の護衛官殿には、ご退場願おうか」
しかし琥珀に返ってきたのは棒投剣だった。とっさに首をかしげて避けた左肩に、とす、音を立てて剣が刺さる。
「悪いな。しびれ薬が塗ってあるんだ。しばらくは動けなくなるぞ。……なに?」
琥珀は何事もなかったかのように立ち上がると、無造作に肩に手をあてた。
「なんも問題ねえよ、これくらい。ただ今は抜かないほうが良さそうだ。先が鈎刃になってたし」
「馬鹿な、あの一瞬で見切ったのか」
「俺は、あいにく毒の効かない特異体質でね。だいたい奥宮で、武器の使用は禁止されてるんだが。そんなことも知らないのか?」
「ふん、決まり事なぞ」
「ああ、あんた、規則をクソ食らえって思う系の人ね。まあいいや。俺は後ろ指をさされたくないんで、素手で行かせてもらう――」
腰を低くして構えの型をとると、そのまま間を詰めて豹叉へ回し蹴りを入れる。
とっさに両腕を交差させて相手が避けると、反撃の隙を与えず、猛烈な拳打を食らわせていく。とても肩に手傷を負っている人間の動きではない。
「っ、琥珀とやら。おまえ、只者じゃないだろうっ」
たまらず豹叉が声を荒げた。
「……そいつはお互い様だろ」
雫玖はまぶたをしばたたく。今、豹叉の身体が一回り大きく伸びた気が。
「おもしろい。まさか王宮内で、本気でやりあえる相手がいたとは」
今度は豹叉の拳が琥珀を打った。どん、どんと身体で受ける鈍い音が響く。雫玖は呆然とした。豹叉はまるで大きな熊か虎のようで、その拳も到底、人間のくり出すものではない。もしや獣人か。しかし受ける琥珀のほうも、どこかおかしい気がする。
「悪いがあんたの拳、全っ然、効かねえな」
あれだけ重たい拳打を避けもせず受けきり、表情一つ変えない。どころか一歩も引いていない。――強いのだ、とてつもなく。見た目の体格差を埋めるほどに。
「くそっ、なんなんだおまえ、そんな痩身で。この俺が力負けするとは」
豹叉がたたらをふみ、わずかにのけぞる。その腹に、琥珀の拳が深々とめりこむ。
「阿南王子に伝えろ。雫玖には俺が護衛についてる。好き勝手はさせないってな」
だが一撃で宙に飛ばされ、倒れ伏した男はもう、言葉を発しなかった。琥珀は座りこむ雫玖の前で、ぞんざいに膝をつく。
「大丈夫か。雫玖、怪我は?」
さしだされた手。筋張った腕から、まだ霊気が立ち上がっている。わなないていると、ひょいと両腕に担ぎ上げられた。
「やっ、琥珀、下ろして、自分で歩けるから!」
「いいから遠慮すんな、あんた軽いし。とにかく磬宮に戻ろう。ここは人目につく」
琥珀の言葉に赤くなってうなずく。不思議だ。こうして軽々と抱かれていると、今はこの青年が凄腕の護衛官にしか見えなかった。




