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それからというもの、雫玖は霊香院での学びに没頭した。まだ暁の光が大殿を照らすころから本堂に入って書を読みあさり、午後は溜池での実地鍛錬。元々、凝り性な上に一度こうと決めたら志を曲げぬ性分なので、気づけば夜空に白い月がかかり、琴が迎えにきているといった具合だ。
けれどなにを学ぶにしても今は隣に琥珀がいてくれるし、霊水術を習得するのは楽しかった。どうやら水の本質を知り、操るのは、王女をやるよりよほど性に合っていたようだ。もっと深く、もっとたくさん学びたい。雫玖は鼻歌を歌いながら、子どものように跳ね足を踏んだ。霊香院の書籍は、質も量も磬宮とは比べものにならない。
「雫玖。そなた、まるで水を得た魚のようじゃのう。よいよい、もっと闊達にやれ」
桜の蕾がほころび始めた昼、大殿の机にうず高く積まれた学術書を見た霜葉は、あごひげを撫でて破顔した。
「老師、煽てないで。つき合わされる俺の身にもなって下さいよ」
「良い弟子が得られてよかったではないか、琥珀。それにおまえさんは、ひょろひょろした見目に似合わず、そうとう頑健であろう。なにを気にする必要がある」
雫玖は勢いよく手を上げた。
「ちょっと良いですか、霜葉さま。わたし、一つだけ心配事があるんですけど」
「なんじゃ」
「真澄鏡のこと、阿南になんて言い訳したら? 三日後はもう儀式前日なんですけど」
「放っておけ。鏡の儀は神との対話よ。龍はとりわけ人を試すのが好きなたちじゃ。阿南王子には、否が応でも自らの運を試して頂かねば」
老爺は温厚顔でしたたかに笑う。
「あんがい、高瀬王太子を本当に矢で射たのは誰か、これでわかるやもしれんぞ」
「……もしかして、初日にわたしと鏡を引き離したのって、わざとだったんですか?」
霜葉は視線を外し、しらを切って答えない。雫玖は隣に身を寄せた。
「ねえ、琥珀が年を取ったら、老師そっくりになりそうよね」
耳打ちすると、青年はしごく不愉快そうに雫玖を見やる。
「俺はあんなに狸じゃない、一緒にするな」
「これこれ、聞こえておるぞ、二人とも。時に雫玖、霊札は扱えるようになったかの」
「あ、はい。花瓶に入ったお水くらいなら、操れるようになりました」
「それは重畳。筋が良さそうじゃな。さらなる鍛錬に励むが良い」
そうやって平穏のままに時が進み、なにもかもが上手くいった。いきすぎなほどに。
――儀式前日の朝、祈年殿に安置された真澄鏡が、何者かによって割られるまでは。




