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青草が生えた湖の端の一角に、霊香院専用の溜池がある。白石で作られた正方形の造成池には、銅製の龍像の口から吐かれた湖水が溜められていた。中央祭壇だけが水面上にある造りで、祈祷するにはまず階段を降り、水に浸かる造築になっている。
「札の造り方だが、それじゃあ、まず――」
琥珀は池端で沓を脱いだ。長袴をまくると雫玖を振り返る。
「あんたには水が冷たいかもしれない。俺が抱いて渡ってやろうか」
「いいわよ、気を遣わないで」
そんなことを言われたら、なおさら後には引けない。沓を脱ぎ捨て、頑なに衣のままざぶざぶと腰まで水に浸かる。琥珀は額に片手を当てた。
「まったく。王の息女というより、里長の娘みたいだ。それ以上進むな。もう、けっこう。意気込みは伝わったし……」
「どういう意味よ」
「ちょうどそこが、霊札に水を溜める最適地だってことだよ」
膝あたりまで水に浸かりながら横に立つ。おもむろに懐から空札を取り出すと、
「いいか、よく見て聞いて覚えろ」
雫玖の人差し指と中指に札をさしこむ。後ろから抱きかかえるように、両手首を握りしめた。
「まずは龍への祝詞を詠唱する。『無熱龍王、御祖の御使、萬物の疫を祓い清めたまえ』」
とたんに琥珀の手のひらから見えない潮が伝わってくる。雫玖は目を見開いた。
「気をそらすな。『汝が十種の御寶を變じ給いて、水鞠札に治めせしめ給へと祈願奉る』」
琥珀の声に呼応するように波が立ち、周囲から水が集まってくる。するするとうねりながら水面をかけあがるや、次々に曲線を描いては札に吸いこまれていく。
「札造りの流れは、ざっとこんな感じだ」
「すっごい、なに今の」
後ろの青年を仰ぎ見ると、琥珀は少しくすぐったそうな顔になった。
「まだ終わってないぞ。札に溜めた水を放出するのは単純だ。こう唱えるだけでいい。――『解』!」
ふたたび琥珀の霊動を手首に感じたとたん、その流れが指先まで伝わった。札から一気に水が噴き出す。
「きゃあっ」
「最初は水勢が強いから、腹に力を入れて踏ん張れ。この世界は五つの異なる世が重なり合ってできている。そのうちの常世は、龍神が支配する水の世界だ。その境目を今、この霊札でつないでいる」
水の放射でのけぞる背を、琥珀がしっかりと胸で支えてくれる。
全身に青年の霊気が流れこんできて、目を丸く見開いた。
山河をかける清流のような、峻烈で滔々とした霊動。言葉を交わさずともわかる。この人の本質は暖かでゆるぎない。
「おい雫玖? どうした、なんで泣いて」
慌てた声。みるみる水流が収まっていく。指の合間で煙のように霊札がかき消えた。気づけば涙が溢れている――。
「え……、わかんない」
「悪い、まだ早かった。水に慣れさせるほうが先だったか」
身体が浮いた。はっとする間もなく、逞しい腕に抱き上げられている。慌てて腕を突っ張った。
「ちょっ、いい、降ろして!」
「今、歩こうとすると水の抵抗で転ぶ。頭の先までずぶ濡れになりたくなきゃ、黙ってつかまってろ」
琥珀は階段を上がった。池端に雫玖を降ろし、しげしげと眺めてくる。
「ずいぶん立派な濡れ鼠だな。少し直立してろよ。水を払ってやるから」
顔前で二本指を立て、まぶたをつむって何事か念じた。ゆらり、風もないのに藤黄の髪がたなびく。
「『散』!」
とたん、ぱちぱちと音を立てて雫玖の身体から水の玉が転がり落ちる。これはどういう霊術なのか。数瞬前までべっとり重かった服が、もう気持ちよく乾いている。
「すごい琥珀、一体どうやって」
尊敬のまなざしで見やれば、相手はすっかりいつもの無表情に戻っていた。
「守護龍に目通りしたいなら、まずは水に慣れろ。龍は自在に水を操る。水を通して物事を見聞きするし、身体を水と同化させて転移させることも可能、言わば水の化身だ。物事には順序というものがある」
淡々とした物言い。なんだろう。琥珀ってこんな人だったの。濡れた足元の水を払って沓を履く青年を見つめながら、胸が熱くなるのを止められない。
「隠していたのね。いい。そういうところ、すごくいい」
「……は?」
「だって。琥珀は、才をひけらかさないで影に徹していたんでしょ、主が王太子だったから。そしてありがとう、今また面倒な『奇異の姫』の教育係を引き受けてくれて」
「あんた、いきなりなにを」
「隠さなくてもいいのよ。霊香院で他にやりたがる大師がいなかったから、霜葉さまが琥珀を呼び戻したんでしょう」
「それは」
「わたし、がんばるから。後で『あの時、指導を引き受けておけば良かった』って言われるようにがんばる。だから、これからもご指導よろしくお願いします、大師」
なかば気圧され、のけぞる相手にむかって、雫玖は深々と頭を下げた。




