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そのまま延々と昼まで授業は続いた。霊術のなりたちや、使用する際の注意点。琴が霊香院に届けてくれた弁当を食べ、玉砂利を引いた道を湖へ向かう段になって、とうとう雫玖はこらえきれなくなった。
「ねえ琥珀、朝から言いたかったんだけど。やめてくれない? その杓子定規な口調」
「申しわけありませんねぇ。あんたは姫さま、俺はしがない霊法師。世の中にはいちおう、身分と衆目というものがありますので」
完璧なよそゆきの微笑みだ。慇懃無礼と顔に書いてある。むうと頬を膨らませた。
「じゃあ二人きりの時くらい、素でいてよ」
「……あんたがた兄妹は、そろって同じことを気にするんだな」
琥珀はかすかに目を伏せた。
「気にするわよ。兄さまも気にしていたの?」
「ええ、いつも」
「じゃあわたしも兄さまと同じにして。姫さまとか、いらないし。狡いわよ、兄さまばっかり特別扱いで。知っているんだから、本当は友のように話していたの」
「なんだ、バレてたのか。じゃあいいか、もう猫をかぶらなくても」
青年があっさり敬語をやめたので、雫玖は少しだけホッとした。真雪とちがって琥珀には透明な壁がある。彼の素を見られるのはごく少数だけだ。自分は兄の付属品だったから受け入れてもらっていたにすぎない。ここは正念場だと思った。
「そうよ。あなたこそ、信用されたいなら、ちゃんと腹を割って話してちょうだい。琥珀は官吏の中でも超優秀で、そういう地頭の良さみたいなのって、身体から滲み出るものなの。なのにいつも如才なく敬語を使われたら、凡才なわたしは裏がありそうで、萎縮しちゃうでしょ?」
「参ったな。あんたは今まで、俺をそんなふうに見ていたのかよ」
琥珀は首に手をやった。どうやら本気で嫌がっているようだ。
「仕方ねえな。痛くもない腹を探られるくらいなら、大人しく言うことを聞いたほうが得策か……」
「やった、ありがとう」
「で? まだ答えを聞いていないんだけどな。水鞠札作りってのを名目にして、雫玖はなにがしたいわけ」
追求されて内心で舌を出した。賢い人間は、話がどんなに飛んでも最初の本題を忘れないらしい。
「わたし本当は守護龍に聞いてみたいことがあって。水鞠札を扱えるくらいの霊法師になれば、龍と話せる機会もあるかなって思ったの」
「……龍に、なにを質問したいんだよ」
琥珀は聞き捨てならないと言いたげに立ち止まった。
「決まってる。高瀬兄さまを王太子に選んだ理由よ」
「雫玖は、龍の差配に不満があったのか」
「ううん、ちがう。その逆よ。兄さまが王の器だったのは、誰が見ても明らかだったでしょ。でもじゃあどうして、龍は兄さまを死なせたの? 自分で選んだくせに」
琥珀の肩がひくりと浮く。
「雫玖は高瀬が殺されたのを、龍の意志だと思ってるのか」
「そうよ。だってわたし、前から気づいてた。兄さまはただ龍神にお伺いして得た施策を遂行する人じゃない。自ら考えて、裏でなにかやっていたでしょう」
「雫玖、あんたよく、そんなところまで見て――」
「ねえ。琥珀はどう思う? 兄さまはなにか企んでいて、それが龍に不敬だったから粛正されたのかな? だったらわたし、言えば良かった。『兄さま、お願いだから神龍のご意向に逆らわないで』って」
そうだ。高瀬はこの院で龍と対話するフリをして、なにかを成そうとしていた。雫玖はそれが心配だった。でも、一度もその不安を兄にぶつけなかった。いつでも物わかりのよい、可愛い妹でいたかったから。
「わたしが止めなかったから」急に胸に熱いものがこみあげてきて、声がしゃがれる。「どうしよう琥珀。わたし、兄さまを見殺しにしてしまったんじゃ」
すると両肩に大きな手が乗った。
「それはちがうぞ、雫玖。誤解だ」
「なにが誤解なのよ」
「龍は高瀬を買っていたし、あんたの兄上はまちがっていない、なにもだ」
どうして琥珀は誤解だって断定できるのだろう。でも当人の瞳が、すぐ目前でゆるぎなくこちらを見つめるから、なぜか声が出ない。
「……本当に?」
「ああ、あれは完全なる不慮の事故だった。刑部でも調査しているが、今、真雪が配下の官吏を指揮して独自に真犯人を探っている。雫玖が思い悩む必要は一切、ない」
俺も後悔しているんだ、と琥珀は感情を押し殺した声で呟く。
「高瀬は俺にあんたを託して逝った。だから俺は、その願いに応える。あんたが幸せを見いだすまで側にいる。それが高瀬への手向けだと思ってる」
雫玖はすんと鼻を鳴らした。
「ありがと、琥珀。じゃあ、水鞠札の作り方を教えてくれる?」
「……そういう切りかえが早くて要領のいいところ、本当に末子だよな」 琥珀はぷ、と吹き出した。「いいぞ、仕方ねえな、教えてやるよ」
屈託ない笑い声に心が締めつけられる。こんなふうに二人でここにいることもなかったのだ、高瀬が死ななければ。奥宮の外れで、押しつぶされるように暮らした日々を後悔はしていないけれど、どこかで兄に申し訳ないと思う自分がいる。
「どうか、よろしくご指導願います、大師」
高瀬の死を、ただ嘆き悲しんで終わらせたくはない。
もっと強くならなけば。水鞠札は第一歩だと、そう思った。




