2 霊札修行
霊香院は外廷の西北に位置し、周辺を鎮護の林と湖で囲われていた。この林は人工林だったが、湖は蓮国創建以前からあり、豊富な清水を湧かせている。
「しかし、めでたい。まさか雫玖が五年ぶりに院へ戻ってくるとはのう。もはや奥宮から出てくるのは、嫁入りの時とばかり思っていたが」
「霜葉老師、そのお話はもう良いですから。それより神器の真澄鏡は今、どこにあるんですか」
大殿内を懐かしく眺めながら、雫玖は苦笑した。あいかわらず壁には巻物や本がぎっしり埋まっている。黒い漆塗りの机も椅子も、初めて高瀬がここへ連れてきてくれた当時のまま、時が止まっているかのようだ。
「おお、残念だったな、一足ちがいであった。儀式で使う神器はすべて、早朝に祈年殿へ移された。これから一月間は何人たりとも立ち入り禁止である」
「ええ、なんで? 移動、いくらなんでも早すぎません?」
口をとがらせながら思い出す。霊香院には中央に大殿、右に四つの楼、左には石造りの古い高塔がある。塔は神器を収めるための特殊な構造建築で、外側が十二角、内側が八角になっているのだが、そう言えばあの細長い塔の扉が開いているのを見たのは初めてだった。ぷうと頬を膨らませる。
「わたし、魅音さまに神器を改めよって言われて、ここに派遣されたんですけど」
「ふん、王妃さまの意図は、阿南さまをつつがなく立太子にせよいうことであろう」
「はい、まあ、そうですけど」
「が、それはあくまで蓮国の守護龍が決めること。あのお方は庚国からいらしたせいか、どうもそのへんの機微がわかっておられん」
「えーと老師。わかっているからこそ、霊香院になんとかしてほしいんじゃないかと」
「無理じゃ」霜葉の答えはにべもない。「真澄鏡は国の根幹を成す神器。たとえそなたが先王の娘であっても、資格がなければ拝謁は無理よ。それに、ぬしはどうせ、阿南さまを口実に鏡――というか龍を見たいだけなんじゃろう」
「どうしてそれを? あっ、やば……」
白髭を長く伸ばした老爺はかんらかんらと高笑った。
「どうしても龍に拝謁したくば、まずは霊香院の小師昇格試験に合格せい、雫玖。そら、そなたを指導する大師がお越しじゃ」
言われて振り返れば、門をくぐり抜けて階段を上ってくる青年と目が合った。
見覚えのある芥子色の官服。あいかわらずの無表情。藤黄の髪はところどころ先だけ橙で、後ろで一つに結ってある。
「えっ、わたし霜葉さまに教えて頂くものだとばかり……、っていうか琥珀が大師?」
「知らなんだか。そちは兄を通してすでにあやつと懇意だったであろう。ちょうどよいから、教わるがよい」
嘘のようだ、兄と同じ二十四でもう大師とは。しかもあの青年、兄の側付を務めていた。つまりそれだけ文武両道ということだ。唖然とする間もなく霜葉は奥の間に消え、代わりに琥珀が目の前にやってくる。
「ごきげんよう雫玖姫、あいかわらず美しい緑髪ですね」
「褒めないで。わたしの髪、母さまの翡翠色よりずっとくすんでいるのよ」
緑の髪は紗里族の証だ。雫玖に縁談が来ないのはこの髪色のせいかもしれない。それでも亡き母は誇りだった。その髪も、霊能も。
「それよりさっそくだけど、水鞠札の作り方を教えてよ。魅音さまから通達があったでしょ」
「ありましたけどね。なんのために?」
琥珀は高い背をかがめて雫玖の耳に囁く。
「……あんた、何かを隠してるだろ」
「そ、そんなことないわよ!」
なんでわかったのだろう。身体を引くと、琥珀は腕組みした。
「今日から俺は師匠です。師に心を開けない弟子に、教えられる技はないですよ」
この慇懃な表情、斜にかまえた笑み。雫玖は眉を寄せる。没した高瀬にはかつて二人の側付がいた。一人は将軍の息子で武勇に優れ、豪放磊落な真雪。そしてもう一人が、この琥珀だ。
「いじわるなのは、あいかわらずなようね」
兄の話では地方貴族の三男坊らしい。憎らしいほど穏やかな優面をしているくせに、性格は怜悧でひねくれている。なんで兄は幼なじみである真雪ではなく、琥珀に雫玖を守れと命じたのか。
「わかったわよ。話せばいいんでしょっ」
「では姫の告白は後で聞くとして、まずは座学から始めましょう。霊術は一日にしてならず」
くしゃり、千歳緑の髪に、兄のような手が乗った。
「地道な鍛錬の積み重ねなしで、水が扱えるようになると思ったら大間違いです」




