20 満ち潮
目覚めた時、そぼ降る雨は上がって霧がかり、東の空はすでに白んでいた。
どうやら凪は亭の中で一晩中、寝ないで雫玖の身体を温めてくれていたようだ。いつのまにか固い膝の上に抱きこまれていたので、ぎょっとした。
「ごっ、ごめんなさい、ありがとう」
これではまた、琥珀に嫌味を言われてしまう。慌てて立ち上がると、
「気にするな。……それより雫玖、湖へ行ってみろ」
凪にそっと背中を押された。視線を合わせ、力強くうなずかれる。
雫玖は我に返ったように踵を返した。夜露をおいた青葉を踏みしだき、白い息をつきながら、朝霧漂う湖のほとりまで一気に駆け抜ける。
すると赤香の陽に照らされた湖面の上を、音もなく歩いてくる人影が見えた。
それはとても神秘的で静謐な光景だった。まるで彩雲が浮かぶ幽玄の狭間から、生まれたての聖獣が、夜の帳を割って抜け出てくるかのような。歩に合わせ、水面に美しい波紋が広がる。ざわめく胸に手を当てて、この幻が現実になるのを待つ。
「――ただいま、雫玖」
そうしてようやく目前に立った青年は、髪色の橙がだいぶ強くなっていた。
あきらかに今までとは霊動がちがう。滋味が強くなった。顔つきにも精悍さが増している。それでも琥珀は琥珀で。だから、迷わず胸に飛びこんでいく。
「お帰りなさいっ」
精一杯、背伸びすると青年の頬を両手ではさみ、口づけた。
「ねえ琥珀、一つだけお願いがあるの」そのままずりずりと下に落ちこみながら、懸命に固い胸にすがりつく。「わたしと結婚して! あ、まちがえた」
「はあ? まちがえた?」
「ちがっ、まずは『ずっと一緒にいて』って言うつもりで、あ、結婚もしたいけど」
一瞬の沈黙。それからぷ、と頭上で盛大に吹き出す声。
雫玖はまぶたをしばたたいた。――腹の底から笑い転げる琥珀を、初めて見た気が。
「っ、ぶくく、本っ当に面白れえ女。やっぱ、あんた最高だわ。戻ってこられて良かった」ぎゅっと胸のうちに囲いこまれた。「そんなに慌てなくても、ずっと一緒にいてやるし、雫玖の望みは全部、かなえてやるつもりだから。安心しろ」
「本当? じゃあ蓮に留まってくれるの? もう黄金館へは戻らない?」
「ああ、生涯あんたと添い遂げる。なにせ俺はもう、常世へは戻れない身だしな」
「……え?」
そこへ凪がやってきた。至近距離まで近づき、眼光鋭く琥珀をためつすがめつする。それからわずかに目を細めて息を吐いた。
「なんだよ、凪。そんなにじろじろ見るな。文句があるなら言ってみろ」
「いいや。やっぱりおまえは凄い奴だよ。俺は以前に言ったろう、『琥珀は、俺や瑪瑙なんかには到底できないことができる』って。俺は橙龍王の勇断を称賛する」
凪はいたわるように琥珀の肩を叩くと、雫玖へ兄心溢れた視線をやった。
「どうか琥珀を頼む。こいつは鱗を得て本物の龍になったが、その代償に持っていた寿命も黄龍の特性も、ほとんどを使い果たした。おそらくもう、普通の人間並みにしか生きられない」
余計なことを言うなと、琥珀が慌てたように凪をにらみつける。
「いいんだって、俺は玉手札を見た瞬間から、そのつもりだったんだから」
呆然とする雫玖を尻目に、二龍は肘を打ち合わせ、ついで仲良く拳も合わせた。
「さてと。じゃあこれで、すべて落着したわけだよな」凪は満足げに頭を揺らすと、首を鳴らした。「俺は昨晩話したとおり、そろそろ自分の任務に戻らせてもらう」
「えっ、凪、もう行っちゃうの?」
「ああ。天大陸の北に鵺が出たらしくて、討伐令が出たんだ」かがんで雫玖と視線を合わせると、「そのうちまた、様子を見にくるよ。……あんたは俺の、大事な妹だから」照れ隠しなのか、ぎごちない笑みを浮かべる。
「さて、じゃあ雫玖、少し離れるぞ」凪の涼やかな面に見とれていると、すかさず琥珀が手を引いた。「凪はこれから、変身するからな」
それからややあって、本性を現した青龍は悠々と蒼穹のかなたへ昇って行った。途中で一回だけ身体をくねらせ、別れを惜しむように長い尾を振って。
朝空に紺碧の鱗を煌めかせるその姿は、息を飲むほど雄大で神々しい。
胸が震える。やはり龍は凄い。他にあんな巨大で暖かな生き物を見た記憶などない。
「凪、恰好よかったね……」
雫玖は思わずほうと息を吐いた。それから慌てて隣で天を仰ぐ琥珀を見上げる。
「あ、飛龍って、まるで碧い海を流れ行く真潮みたいだなって。恰好いいって、そういう意味だからね?」
青年はむっと眉を寄せ、肩をいからせていたが、心なしか寂しげに見えた――自分は本当に、この得がたい橙龍の仙客なのだろうか。でも、これだけは言える。
琥珀の本音を聞いて、不器用すぎる感情を察して、足りない部分を補って。
劣等感に思いを馳せて、一番近くで慈しんで、いたわって。
そんなふうに日々を重ね合うのが仙客なら、それでいいのなら、きっと雫玖はそうなれる。今は確信がある。
「ねえ琥珀。さっきの話の続きだけど」
「ん」
「あなた本当に、わたしと結婚してくれる気、あるのよね?」
「っ、そ、そういうのは普通、俺が言うことなんじゃ」
「良かった、いいのね。じゃあ悪いけど、半年待ってくれる?」
琥珀は顔をしかめた。またこいつはなにか言い出したぞ、と言いたげな表情をする。
「だってわたし、十八の誕生日をすぎたら、あなたとなんやかんやしても良いんでしょ。だったら今からちゃんと下準備して、春に一緒になりましょうよ。どう?」
「だから、なんやかんやとか、そういうこと言うなって……!」
琥珀はうっと言葉に窮すると、みるみる耳まで真っ赤になってしまった。
でもまだ話は終わっていないのだ。雫玖はかまわず先を続ける。
「それでね。わたし清雅楼に、霊香院の札所を造りたいんだけど」
「なにそれ。あんた、なんもかんも唐突すぎんだろっ」
「だって。たしかにわたしに政事の駆け引きは無理だって思う。でも清め水の札を作って、怪我人や病人を癒やすくらいならできるかなって思うのよ」
清雅楼を新居にしましょと提案すると、琥珀はわずかに瞠目する。
「一階が札所で、二階が住居なの。いい案でしょ。本殿に通うのも近いし、これから先はわたし、霊香院の小師になって、そういう生業をして生きていきたい。だからお願い、わたしを支えて手伝って、大師さま」
「……しかたねえな」琥珀はつくづくあきれ果てたと言った顔をした。「いいけどさ、なんでも。その前に一つだけ言わせろよ」
「うん。なに?」
少しだけ間があく。万感の思いをこめた瞳で見つめられて、心臓がきゅっと縮まる。
「雫玖、愛してる」やがて唇を撫でる雨粒のように口づけられた。「今の俺には、なにもなくなっちまったけど。俺の全部をやるから、だから……」
――どうか俺を好きなままでいてほしい。このままずっと一緒に生きて、仲良く終わろう。まっすぐな思念が心に響く。ひどく穏やかな気持ちで微笑んだ。
「うん。ありがと、琥珀。わたしもあなたを愛してる」
清しい碧羅の空の下で、優しい接吻をくり返す。
何度も、何度でも、想いを伝え合う。
こんなふうに晴れゆく空も、涙雨の降る空も、これからは二人で愛でていく。
人は永遠を生きる龍とはちがう生き物だ。いずれ死は避けがたくやってくるけれど。
それでもその時がきたら、移ろいゆくのはしかたがないよね、ここまでやってこられて良かったねと笑い合いたい。
そうやってすべてを受け入れ、手放せたら、それでいい。
だってそんなふうに二人で歳を重ねるのは、たんに年老いていくのではなく、きっと今よりもずっと、魂が愛で満ちていくことだから。
了
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