***
「……っ、最初は散歩だって言われて、次は菓子に釣られて、亭に引きこまれるとか」
そのまま独立亭の中に押し入ってきた琥珀に、雫玖は容赦なく鵝頸椅へ追いつめられた。真雪とのやりとりを一部始終説明しても、まだ青年は怒り心頭といった様子だ。
「あんた、いくつなの。子どもかよ?」
「ええ、べつに釣られてないし、結婚の申し出だって断ったもん……っ」
あまり理不尽に怒られるので、声を荒げたとたん、強い力で腰を引き寄せられる。
黙れと言わんばかりに口で口を塞がれ、舌先が嬲るように唇を濡らした。
「ちょっ、琥……」
「甘。蓮の実餡の味。なあ雫玖、もっと口開けろ」
そうして始まった接吻は、今までとは別物のように、官能的で濃厚なものだった。
強引に割り入ってきた舌が口腔内をねぶり、舌先で舌を絡め取られる。
唾液を吸い取られ、抗おうと上げた手を胸板で封じられ、鵝頸椅の間に挟まれる。
逃げ場のない中で髪に指を差し入れられ、何度も深く激しい口づけを落とされるうち、肌がどうしようもなく火照ってきた。
「あ……っ」
「いいな、その顔。めちゃくちゃ可愛い」
しつこいほど、くりかえされる水音。そのうち袖口から手を入れてくる。
指がしきりに肌を伝い、脇下あたりを揉みしだくように愛撫しはじめる。
「やぁ、も、無理……っ」
もしかして、いや、もしかしなくても、琥珀は触るのも口づけも全部、上手いのでは。なにせこの人は、あの黄龍の影なのだ。
「ん、うっ」
ようやく唇を外されても、まだぞくぞくと身体が疼いて、たまらず涙目になった。
「わかったか、雫玖。男なんてのは大概、この先までやりたくて、うずうずしてんだから。少しは緊張感を持てって」
美しい鬱金の瞳が、それ見たことかと咎めるように光っている。
その瞳に陶然とした自分が映りこんでいて、恥ずかしすぎて叫んでしまった。
「やだ。わからないっ」
「なんだと、この」
「だって、なんで琥珀は真雪に嫉妬してるの? それって、わたしを疑ってるから?」
好きなのに。琥珀は特別で一番だって何度も伝えているのに。
歯がゆくて愛おしくて、どうしたらいいのかわからない。
たまらず背伸びして、触れ合わせるだけの口づけをすると、琥珀は目を見開いた。
「わたしは、あなたが好き。すごいところも、ダメなところも、全部大好き。いつかあなたがわたしを忘れてしまっても、わたしはずっとあなたを好きでいるから。だからお願い。不安にならないで」
「なんだよ、それ。俺が雫玖を忘れるって、どういう意味だよ」
「だって。わたしは琥珀よりきっと、ずっと早くに死んじゃうから」
たまらず唇を震わせると、青年ははっとしたように息を飲んだ。
「あんた、今までそんなことを気にして……っ」やっちまったと言いたげに天を仰ぐ。「わかったよ。ただ、次から寄ってくる男には気をつけろよ。で、なに? 俺に教えてほしいことって。さっき清雅楼で、そう言ってたろ」
眉を寄せながらも、ようやく腕の力を抜いてくれたので、雫玖は身じろぎした。
帯の間からそろそろと一枚の札を取り出すと、琥珀の目が大きく見開かれる。
「それ、玉手札か……!」
「うん。ねえこれ、なんなの?」そこはかとない不安。ずっとこれを手持ちしているのが怖かった。「前に漣からもらったんだけど。琥珀に聞けばわかるって」
「漣って。その札、まさか瑪瑙が作ったやつなのか」
「そうみたい。蓮王が立つまでは内緒にしろって言われてて、そういや使い方や効能を、まだ聞いてなかったなって思い出して」
言いさす間にも、琥珀の顔色がみるみる蒼白になっていく。
「琥珀? どうしたの」
問いかけて、はっと息を飲んだ。今の今までしっかりと形状を保っていたはずの札が、ちりちりと紙端から熾火に焼かれるように崩れ始めている。
なんで。琥珀に見せた途端に、どうして。
「……これは黄龍からの挑戦状だ。雫玖。いいからその札を、俺の身体にあてろ」
「え、なに、使うの? 今ここで?」
「早く。時間がない。やり方は水鞠札と同じだ。俺の体に全部、注ぎこむつもりで解除しろ」
琥珀はやにわに服の前開きを開いた。たくましい胸筋が露わになる。わけもわからず胸に玉手札をそえると、相手は青白い顔のまま、凄絶な瞳をしてわずかに微笑んだ。
「やれ、雫玖。景気よくぶっ放せ」
「だから、この札ってなんなの。もしかして命に関わるものなんじゃ」
抵抗するように声を荒げたせつな、玉手箱の昔噺が頭をよぎった。
絶対に開けてはならない箱。禁を破った王子が老衰して、死んでしまう話。
けれど琥珀は頑として引く気配がない。
「瑪瑙が初めて本気で俺を試してきたんだ、全身全霊で受けて立つ」
初めてだった、こんな嬉々とした顔をみるのは。あきらかに玉手札に取り憑かれたようすで、異常に高揚している。
「でも、わたし、この札を使うの、なんだかすごく嫌な予感がして……」
「ためらうな、雫玖」
鬱金の瞳が輝きを増すにつれ、肌に容赦なく霊動が突き刺さってくる。あの豹叉を倒した時のような、強大で人ならざる覇気が――。
怖い。これが本来の、素のままの龍の琥珀なのか。
「俺は黄龍王だけには負けたくねえ、絶対に。なあ、俺を信じてくれるんだよな、あんた?」
そうまで言われて嫌とは言えない。そうこうするうちにも手の内で、札の形はどんどん崩れ続けている。時がないのだ。このまま躊躇していては、もうこの玉手札を使う機会はこの先、二度と訪れない。しかたなく札の封印を解き、おそるおそる身体に入れこむ。
中身は水ではなく、意外にも親指の爪ほどの欠片だった。
キラリと煌めき、たちまち心臓へと吸いこまれていく。
「琥珀? ねえ、大丈夫?」
しかし欠片が入ったとたん、琥珀の身体はにぶく虹色に光り始めた。最初は胸のあたりだけだったのが、やがて全身にひろがり、光度も急激に増していき――。
『ありがとうな、雫玖。ああ、これでようやく俺も、長年の呪縛から解放される……』
心臓がぎゅっと硬くなった。気づけばもう声ではない、念話になっている。みるみる手が足が胴体が、薄くにじんで透明になっていく。雫玖はいやいやと顔を横に振った。嘘。こんなことって。ぶわりと涙がこみあげる。
『悪いな。凪にも伝えておいてくれ。俺は、あんたより先に逝くってな』
「いや、やめて。そんな、逝くって、琥珀っ、死なないで!」
必死の叫びはもう、届かない。青年は望外の喜びを噛みしめるように、今や輝くような笑みを見せていた。
夜闇にひときわ明るい白光を放つと、ふつり、姿と気配が絶ち消える。
一人だけ亭に取り残された雫玖は、半狂乱になって泣き叫んだ。
「やだあっ、琥珀! 戻ってきて!」
わけがわからない。
ただ肌で理解した、琥珀はもうずっと以前から、あの玉手札をひたすら乾くように欲しがっていたのだと。きっと札には、瑪瑙からの強力な支配を断ち切る作用があって。彼はその自由を得る代わりに……死んで、消えてしまった。
そうだ。雫玖だって薄々感づいていた、琥珀が影として生き続ける自分を心底軽蔑し、嫌悪していたことくらい。老いもせず死ねない龍にとって、魂を束縛され続ける苦痛というのはおそらく、死の恐怖よりもずっと辛いことだったろう。
それでも雫玖は気づいていながら、影龍の苦悩に見て見ぬフリをした。
好きだったから。どうしても、彼の側にいたかったから。
きっとあの賢い瑪瑙は、そんな雫玖の狡さも全部見抜いていたのだ。もしかしたらこれは自分の恋ばかり優先させようとした王女への、黄龍の罰なのかもしれない――。
うまく息ができない。この結果はすべて、雫玖が招いてしまった事態で。どれだけ後悔しても、もう遅い。
あの札は生涯、雫玖の心のうちだけにしまっておいて、琥珀に見せるべきではなかった。
そうすれば避けられたのに。自らの手で、愛しい影龍を永遠に失ってしまう事態だけは。
ふらり、亭の外へ彷徨い出る。こめかみがずきずきして焦点が定まらない。苦しい。誰か、助けて。琥珀お願い、帰ってきてよ。また独りぼっちに戻るなんて、もう耐えられない。
天を見上げると、まるでそんな雫玖を慰撫するように、さらさらと雨が降り始めた。
「……雫玖姫、どうしたんだ、今の霊動は。琥珀はどこへ行った?」
そこへ凪が疾風のごとく駆けつけてきた。ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。
「凪……、どうしよう凪、琥珀がっ、琥珀が消えちゃった」
眩暈がする。気持ちが悪い。たまらず涙しながら、さしだされた手にしがみつく。
「どうしたら取り返せるの、凪。わたし、琥珀を取り戻すためなら、なんだってする。どこにだって行く……っ」
そうだ、はるかな地の果てだって、暗い海の底へだって。どんなに遠くだって歩いていくのをやめない、たとえ足裏の皮がすべてむけて血だらけになったとしても。
「それでも、ダメかな。わたしはまた、兄さまの時のように、すべてを諦めるしかないのかなぁ……っ」
諦めて、断ち切って、独りに戻って。もう二度と、あの優しい温もりには触れられない――。
そこから先はなにを話したのか、どう訴えたのかすら、よく覚えていない。足元から立っている場所が崩れていくような、ひどい喪失感。ずっと遠い場所にしまってあった、両親を、兄を失った悲しみがまた、ぐうっと胸を突き上げてくる。痛い。もう押さえこめない。ねじれるような声を喉から絞り出し、雫玖は泣いた。幼い子どものように。
「落ちつけ、雫玖姫。玉手の玉とは、すなわち魂のことだ。つまり玉手札には魂、黄龍の鱗が入っていたはず。これがどういう意味だか、わかるか?」
けれど青龍は泣いて取り乱している雫玖を前にしても、まったく揺るがなかった。
「瑪瑙がついに、自らの鱗を与える決断をした。ようするに琥珀の姿が消えたのは、一人前の龍になるため、黄龍の試しを受けた結果だ。その勇気を褒めてやらないと」
この細雨も、おそらく琥珀の気に感応して降っているんだろうと凪は言う。
「琥珀の身体は今、世界の透目にある。このまま命尽きて消えるか、新たに生まれ変われるかは、あいつの頑張りしだいだろう。だから泣かないで応援してやれ、雫玖」
しっかりと抱き留められて、頭を撫でられる。
「……え……凪、今、なんて」
「あいつは死んでいないし、生きるのを諦めてもいない。もうずいぶん長い間、絶望して心を閉ざしていたのに、明らかに何かが変わったよ。きっと、あんたが現れたせいだ」
凪の瞳は深く青く澄んでいて、魂が吸いこまれそうなほど美しい。
「俺はあいつの兄弟として礼を言わなくちゃならないな。雫玖姫、ありがとう」
兄と同じ顔、凜とした声で励まされ、蒼海のように雄大な覇気を浴びるうち、荒れ狂った心もしだいに落ちついてきた。
「凪……、琥珀は、本当に、戻ってきてくれる……つもりで……?」
「ああ。橙龍は今、たった独りで自分の運命と闘っているんだ」
亭に戻り、二人で長椅子に腰かけて銀糸の雨が止むのを待っているうち、やがて玉手札を使った反動なのか、ひどい疲労感が襲ってくる。察したように凪が脇を開いて、まろい月光に照らされた雫玖の頭を引き寄せた。
「この霧雨の降り方からして、まだ時間がかかるだろう。姫は少し眠れ。なにかあったら、俺がかならず起こしてやるから」
言葉もなく、うなずいてまぶたを閉じる。身体が重い。心も限界だった。
「大丈夫だ、心配いらない。龍は、自らが選んだ仙客を裏切らない。絶対に……」
凪の声が遠く聞こえる。はるか悠久の時をさざめく、深く澄んだ潮騒のように。
仙客。仙客ってなに。またこの問いに戻ってきてしまった。
青龍の言葉が本当なら、なんの先触れもなかったけれど、雫玖はすでに琥珀に選ばれていたらしい。いつのまに。どうやって。まったく玉手札にせよ、あの龍は口不精にもほどがある。これは戻ってきたら、一言言ってやらなくては。
――でも、そうか。もしかしたら龍の仙客になるというのは、霊動や視線だけで言葉を使わずとも、気持ちを通じ合わせられる状態を指すのかもしれない。
思えば琥珀はいつだって、雫玖の本心にとても敏感だった。
そして言葉よりもまず態度や行動で、真心を示してくれた。
きっとそのほうが、口先だけよりずっと、嘘偽りがないと知っているから。
そう思えば似ている、この雨の匂いも。あの龍の、忘れ水のような肌の香りと。
そこまで考えて、ことり、首を落とす。
すこやかな寝息をたてて、雫玖は深い眠りに誘われていった。




